縋れば、背く 5
安賀多の豪華な事務所では、会議の続きが行われていた。
来客用のソファにナギと筑紫にカン君、対面の一人掛けソファ二つに安賀多とアヤメという構図だ。
清家の淹れた
「ふーっふーっ……アチチ。まだ飲めねぇぞこれ」
その上猫舌だ。
カン君の前で繰り広げられる光景――筋肉質で露出度の高いニット帽の女性が白湯で火傷しているというのは、これまで幾度も会っている彼であっても違和感は拭えないものだった。
とにかく、印象的な人物なのだ。
男勝りな口調がまた似合っている。そういう女性というだけで存在感がある。
それが関係しているのかどうかは分からないが、筑紫はアヤメのことを姉のように慕っているのだった。
今も筑紫はアヤメの舌を心配して、どこから出したのか絆創膏を差し出している。どこに貼れというのだろう。
――姉、といえば。
穏やかではないのが、ナギだ。
ちらりと横目で見やれば、こちらもどこから出したのかハンカチを噛み締めている。アヤメの男口調と違って、さすがに無理があるのではなかろうか。
ともあれ、とカン君は事務所前で考えていたことを口に出す。
相手はニコニコとしている安賀多だ。
「すみません、紙とペンを貸してもらえませんか?」
「ん……あぁ、構わないけど」
安賀多はすぐに清家へとメールを飛ばし、有能な秘書はすぐにそれを見繕ってくる。
そうしてカン君の前に紙とペン。
カン君は眉間に皺を作って、ペンを浮遊させた。騒霊現象のそれである。
そして紙へとペンを立て、走らせる。
だが、押さえる手がないのだから、紙はずるりと滑ってしまうだけだった。
――それもそうか。
多数の失踪者を出した『鏡の向こう側』事件でナギ相手にやってみせた念動筆記は、紙とペンではなく畳と木片だった。固定されているものを削るのと薄い紙に記すのでは勝手がかなり違う。そうなれば、誰かに手で押さえてもらわないことには。
顔を上げて誰かに助けを乞おうとしたカン君だったが、気付けば隣の筑紫が紙へと手を伸ばしてくれていた。
「これでいい?」
にっこりと笑う筑紫だった。
「……ありがとうございます」
主人の手を煩わせてしまったことよりも、以心伝心だった嬉しさが勝る。カン君もまた、頬が緩むのだった。
そして、テーブルの上でペンが再び浮遊する。筑紫の力加減は絶妙で、迷うことなく文字が書けた。
『ナギさん』
認識できぬ仲間が始めた何事かが自分を指している。
ナギは驚いたが、考えてみればカン君を認識できないのは自分だけなのだ、筆談はナギのためだけのものと言えた。
すらすらとペンが踊り、続けられた言葉は。
『どんまい』
「言うに事欠いてそれ!?」
思わず立ち上がるナギだった。
しかしナギの激昂とは裏腹に、他の三人は何のことを指しているのか把握できていない。
生者と死者ではあるが、カン君とナギは感性が似ているのかもしれなかった。
――慰めようとしただけだったのに。
筆談では場にいる全員に意志を伝えてしまう。穏当な言葉しか伝えられないのが弱点か。
しょげるカン君である。
しかしこれで筆談による意思疎通は可能だということも伝えられた。
実際に動かしてみて分かったのだが、ペンだけなら霊体の消費量もかなり少なくて済むようだ。これからはナギに紙とペンを常備しておいてもらおう。
そう考えを纏め、次は言葉を紡ぐカン君だ。
「ええと、こっちの話でした、気にしないでください……さて」
「分かってるって。呪い人形のことだろ?」
アヤメはニット帽をガシガシと掻いて、少し面倒くさそうに話し始めた。
「こないだの事件は、まぁ簡単だったぜ。結局アタシはぶっ倒すだけだからな。で、仕事も終わったし帰るかってなったんだが……」
◆
「ど~にも、イヤな空気がしやがるんだよなぁ」
夜の住宅街を歩くアヤメだった。月光が刺すように冷たい夜空だったが、彼女は相変わらず露出の多い格好をしていた。何しろ普段着から仕事着までこれで通している。たまに通りすがりの地元住民がぎょっとした顔で見てくるが、そんなものは彼女には関係ない。
肌を晒す恥じらいなんてなかったし、何よりも今は何処かからか漂ってくる気配である。
「……こっちか?」
周囲を確認し、誰もいないことを確認してから走り出した。
速い。
一歩々々が長大な距離を踏む。
と、前方に会社帰りらしき男の背中が見えた。
跳躍。
砂煙だけが舞い上がり、無音でアヤメは姿を消す。
屋根の上だ。塀や出窓を足場に駆け上がったのだった。
もう寝静まった住宅の上、四肢を撓ませて気配の元を探っている。
一点へと視線を固定すると、再び彼女は走り出した。
「……あんまり目立ちたくはねぇんだけどな」
こうして民家の上を走るのは、地上からは姿を隠せるがアパートやマンションといった場所からは見えやすい。当然、誰かに見つかれば話題に上がってしまうし現代なら撮影されてしまうかもしれない。その上昨今は街中の至る所に監視カメラが設置されている、見せ物となるのは誰だって御免だ。
その危険を冒してまでも急ぐのには理由があった。
四軒目の屋根を飛び越えて、夜風を切りながら地面を確認、小さな公園へと着地した。
「……チッ、手遅れか」
安っぽいベンチが数基あるだけの広場だった。夏は緑を生い茂らせるのであろう樹木は枯れて、ここの寒々しさをより強いものにしている。
隅には猫の額ほどの花壇があり、手作りの看板には「チューリップ」と記されていた。
今はまだ冬、チューリップが咲くには早い。
代わりに咲いていたのは、少女の血肉だった。
可愛らしい桃色のパジャマは鮮血の赤に染め上げられ、生への渇望に慟哭するかのように月を見つめている。仰向けのそれは、頭蓋が砕かれているのだろう、春を待つチューリップたちへ惜しげもなく
「……むごいことしやがる」
濃密な鉄の臭いに、アヤメは顔をしかめた。
そして、少女の死体の側、蠢く影へと。
「なぁアンタ。可愛い格好してる癖にゃ、いい趣味してるじゃねぇか」
挑発した。
振り返る影は、人形だ。少女の血を浴びた人形は、キリキリと捻れる音と共に首を傾げる。
右手に握る金槌を煌めかせて。
「だれ」
小さな唇は動いていない。人形を動かす悪霊の声だ。男性とも女性とも分からぬ、歪んだ低い音だった。
「無理して動くんじゃねぇや、せっかくの体は大事に扱うもんだぜ?」
人形は海色の目を月明かりに輝かせながら、この闖入者は何者かと観察しているようだった。
そして、ぎくしゃくとした動きで小さな体を立ち上がらせる。
想定されていない動きに、四肢の関節部に罅が入る。
パキ、パキキと小気味良い音がして、人形は歩き出す。
その瞳で見据えたアヤメの元へ。
そして、跳ねた。
少女を殴殺した金槌を喰らわせるために。
「みられた からには」
迫る脅威に、アヤメは不敵に言いのけた。
「……『生かしちゃおけぬ』?」
そして、回転する。後方宙返りだ。
頭部を狙った突撃を回避、そのままの勢いで、人形の背中を蹴り落とす。
地面へと衝突した人形から乾いた破裂音がした。
追い打ちで、踏みつける。
「そんで、なんだっけ? 見られたからには……
喉を鳴らして笑うアヤメだ。
ご機嫌な顔のまま、靴底の人形を踏みにじる。
「生きてるヤツの邪魔しちゃあいけないぜ、可愛らしいお人形さん?」
ボロボロに崩れた人形の残骸、その頭部を蹴り上げる。
首だけの人形はくるくると回転し、髪が螺旋を描いている。
海色の瞳がアヤメへと怨嗟をぶつける。
取り憑いた悪霊の恨みだ。
アヤメは口笛を吹いた。
「いい顔するねぇ。もっとも、アタシは全然怖かねぇけどな」
首が重力に負けて、落ちるその直前。
アヤメは左手を大きく開いた。
「ま、せいぜい恨んでくれよな」
逆一文字に、引っ掻く。
悪霊は――人形を動かしていた霊は、その霊魂を引き裂かれて消滅した。
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