第三章

『お人形』

 そのアンティーク・ドールには、名前を付けてあげなかった。

 泥で成形された淡桃色の肌、海色のつぶらな瞳、小さくて可愛らしい唇。

 青いレース調のドレスには、ワンポイントの赤いリボン。


 私には骨董趣味がある。

 正確に言えば西洋アンティーク、その中でも特に人形に心惹かれる類のものだ。

 花の女子大生が持つにはかび臭すぎると笑われること少数、気味が悪いと後ずさりされること多数。

 ひどいときには気持ち悪いとまで言われたこともある。

 別に私の趣味を貶めるのは構わないけれど、人形にまでケチを付けられたのには腹が立った。

 女性は誰だって、幼い頃には可愛らしい人形で遊んだことがあるだろう。

 最初は安価な人形から始まって、お気に入りの人形を見つけて、だんだん所有している人形も増えてくる。

 いずれ卒業してしまう趣味かもしれないけれど、私の場合はずっと続けてきているだけだ。

 それをとやかく言われる筋合いなんて、ない。


 だから、受け入れてくれる人がいるとは思わなかった。

 講義でたまたま隣に座った後輩、彼は心の広い人だった。

 やたらと合コンを勧めてくる友人には辟易していたけれど、彼と出会えたことには感謝しないといけない。

 少数の趣味を持つ者にとって、許容してくれることが最も嬉しい。

 彼は私の人形蒐集しゅうしゅうを理解はしてくれなかったけれど、同時に干渉もしなかった。

 人恋しいときに支え合ってくれるだけの存在。

 自分勝手だけれども、その距離感が嬉しかった。


 そんな距離感を、彼の方から縮めようとしてくれたことがあった。

 誕生日プレゼント、なんて私たちには遠い風習だったけれど。

 素直に嬉しかった。

 だけど、彼は一つだけ間違いを犯していた。

 私の蒐集癖を甘く見ていたことだ。

 あくまで今の部屋にあるコレクションは実家から持ってきた少数精鋭のお気に入り。

 持ってこなかっただけで、私の実家にはまだまだ人形たちが眠っている。

 彼が街角の人形屋で買ってくれた子は、一見すると確かにアンティークのようだ。

 でも実際にはありふれた工場生産品なのだ。当然家にも一体いる。

 要するに、その子は私にとって二体目のお迎えだったということだった。

 二体目の人形というものは、なかなか愛着の湧きづらいものだ。

 例えば姉妹という設定の人形を飾りたいと思ったら、同じ型を買うのもいいだろう。

 だけど予期せぬお迎えだと後付けの設定が嫌らしく感じてしまう。

 

 だから私は、彼の人形をあまり可愛がってあげなかった。

 飾るのが好きなの、なんて方便に過ぎない。

 名前も付けてあげないから、声をかけることもない。

 そして大学も無事卒業して、彼と新しく部屋を借りようという運びになって。

 可愛がってないこの子よりも、ちゃんと名前もある実家の人形を持っていくことにした。


 名前のない子は、ただのおもちゃ。

 良心が痛んだけれど、彼には黙って捨ててしまった。


 長年人の気持ちを受け取り続けた人形が独りでに動く、なんて話はよくあること。

 でも気持ちを一切受けなかった人形も動くとは知らなかった。

 古巣を引き払う当日、ゴミ集積所に出したはずの人形が玄関前にちょこんと座っていた。

 さすがの彼も、あれには驚いたみたいだ。

 私は「いいお寺を知っている」と彼を安心させた。嫌な空気を持つ子を今までに何度も預けた、信頼できる住職さんだ。

 配達の途中で何か事故が起こったらとも考えたけれど、いつもの住職から供養しましたと連絡があったので杞憂に終わった。


 新生活は忙しかった。

 彼は新入社員として、私はアルバイト店員として、少しずつでも貯金はしようという約束を守った。

 新しい部屋には人形も多くは持ち込めなかったけど十分だった。

 彼との生活が充実していたから。

 人形趣味の卒業が、ようやく私に訪れようとしていたのかもしれない。そう思えるほどに、楽しかった。


 そんな生活も、おおよそ一ヶ月。

 名前のない子が玄関の前に座っていた。

 青いドレスは少し汚れていたけれど、淡桃色の肌も海色の瞳も変わってない。

 もしかしたら別の製品なんじゃ、と彼は言っていた。

 確かにそうかもしれないし、違うかもしれない。私でも判別できない。

 こんなことは今までなかったから、私は不安に潰されそうになりながら住職に電話を入れた。

 電話に出たのは住職の弟子という男性で、老師は遷化せんげなされましたと教えてくれた。

 私は震える声を抑えながら、なんとか声を絞り出す。

 ――人形が、供養をお願いした人形が。

 事情を察した住職は、すぐに調べてくれたけど。

 ――確認しましたが、確かにお焚き上げしたはずです。

 そう、平坦な声で告げた。

 信頼できる住職の死と、焼いたはずの人形。

 説明できないことが間違いなく起こっている。


 彼との新居には、リビングと和室がある。

 私の部屋は和室で彼はリビング、そういう分け方がされていた。

 和室には本棚があって、下半分には本が、上半分には人形が飾られている。

 名前のないあの子が怒っているのは、私のせいだ。

 同じ人形を持っていたからなんて、この子には関係のないことだろう。

 人と遊ぶために生まれてきたのに無視されるなんて、可哀想なことをしてしまった。


 ――ごめんなさい。


 間違いに気付いた私は、今度はこの子をしっかり可愛がることに決めた。

 まずはお洋服。

 どこかで汚れてしまったドレスを手もみで洗った。

 ワンポイントのリボンもほつれている箇所を縫ってあげた。

 お肌も拭いて、きっと生まれたての頃みたいに綺麗になった。

 それから、名前。

 この子はアイ。

 私みたいな薄情者でも会いにきてくれたから、アイ。


 ――ごめんね、アイ。


 何度も謝った。

 許してもらえるかは分からないけれど、心を入れ替えたんだと伝えたかった。

 それと、お友達も用意した。

 アイを飾っているのは本棚の上から二段目、一番手が届きやすい段の真ん中。

 両端には特にお気に入りの人形を座らせている。

 これで、きっと寂しくない。

 それからアイは、変な動きをすることなく、可愛らしい笑顔でいてくれるようになった。


 ある晩のこと。

 軋むような音で目が覚めた。

 真っ暗な和室の中で、また音がする。


 ――キ、キィ。


 音は、お腹の辺りから聞こえてくる。

 何かが乗っている。

 布団を被ったまま視線を下げる。


 ――キ、キィ。


 二つの綺麗な海色の瞳が、私を見ていた。

 アイ。

 いつもの可愛らしい顔で。淡桃色のお肌が暗闇の中で。

 小さな唇は微笑んでいるようで。


 ――キ、キィ。


 ゆっくりと、這ってくる。

 私の首元まで、関節を鳴らしながら。

 そして唇が歪んで。


「ゆるしてない」


 低く唸るような声。

 アイの可愛らしい両腕が伸びてきて、私は――。

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