覗けば、いる 11

 筑紫を救い出した後の記憶は、カン君には無い。

 持てる霊体のほぼ全てを消費したのだから、むしろ消滅せずに済んだのが奇跡だった。

 よって、カン君は後始末の次第をいつもの「日向製作所」で聞くこととなった。

 一晩を越して朝、顔を合わせているのは、廃屋探索でボロボロになった体を綺麗さっぱりにしてご満悦の筑紫と、ひたすら困り顔でいる安賀多、消滅寸前の危機から解放されたところのカン君、そして真っ赤に腫れた目をしたナギである。


「それでね、結局あの鏡はどうなったのかっていうと……」


 桃色のパジャマに湿った髪と、健康的な子どもの格好そのままで筑紫が言った。


「日向を呼んで処分してもらうことにしたんだー」

「あー、あの不気味な人、日向さんっていうのね」


 スマートフォンを破損したままの筑紫へ端末を貸したのはナギとのことだった。

 こちらは昨晩に涙をあるだけ流し終えた後らしく、実に清々しい顔でいた。なお、一旦自宅へ帰ってから着替えてきたらしく、昨晩の騒動で汚れたコートなどはクリーニングに出してきたのだという。それでも高価そうなコートを着てくるあたり、ナギはオシャレに気を遣っている女性なのだろう。


「なーんかボソボソ喋ってて、うわーこの人怖ぁってなったわ」

「そーそー、日向も日向で迎えに来てくれた割に暖かい飲み物とかなくてね、気が利かないんだから!」

「レディが二人いるってのに、甲斐性のない男よね」


 ナギが言うところのレディ二人はうんうんと頷き合っていて、取り残されたカン君と安賀多は適当に笑って誤魔化すことしかできなかった。


「そ、それで……日向さんは、なんと?」


 軌道修正を試みるカン君。

 筑紫とナギはやけに気が合うようで、このまま二人に任せていては話が進まないのは明白だった。

 そうだったね、と筑紫はポンと手を叩く。


「なんかね、こう言ってた」


 筑紫は一息、咳払いをしてから指を立てた。


「――この異界は、この怪異の領域。生者の干渉は、無意味だ」

「うわ、筑紫ちゃんソックリじゃん!」

「へっへーん。日向の真似ー」


 危うく噴く寸前のカン君だった。

 隣の安賀多といえば、申し訳なさそうな表情と笑いを堪える表情が混ぜ合わさって百面相である。精悍な男が台無しだった。


「で、よく分からない御札をバシバシ貼って、海に捨ててきたって」


 ようやく知りたいところが聞けた。

 カン君は百面相の安賀多に咳払いを一つして、身を乗り出す。


「御札で海中って……その、剥がれないんですか?」

「海に捨てるまでの時間稼ぎだったんだって」


 筑紫の説明では納得できない部分もあった。

 あれだけの怪異を、たかだか御札などで抑えられるものなのだろうか。

 だが、同時に日向が対処したということに安心感を覚えるのも確かだ。

 まったく得体の知れない彼ではあるが、安賀多曰く実力は業界一と言っても過言ではないらしい。


「あ、今のは分かるわよ。おおかた『ふえぇ、御札だけで大丈夫なのぉ?』みたいなこと聞いたんでしょ?」


 割り込んできたのはナギだ。

 彼女にはカン君の声が認識できないので、文脈で彼の発言を想像したのである。


「おお、ナギすごい! 大当たりだよ!」

「大外れです! 口調が掠りもしていない!」

「カン君が『うわぁ~大当たりですぅ~』だって」

「筑紫さま、何か僕にご不満が!?」

「へー、カン君って思った通りのショタっ子なのね」

「違いますからね!? えぇい、まどろっこしい!」


 安賀多から低級霊をたんまり受け取っていたカン君である、今なら力を使っても問題ない。安賀多の鞄からノートとペンを浮遊させ、殴り書きで「だまされるな」とだけ書いた。

 そうしてメモ紙を眼前に突きつけられたナギは、うわっという低い声を漏らした。


「幽霊こわっ」


 この世に助けのないことを知ったカン君だった。


「あー、ところで君たち」


 一通りを静観していた安賀多が、やはり困り顔で発言する。

 周囲の視線が集まったことを確認してから、安賀多は勢いよく頭を下げた。


「すまなかった! まさか怪異が関わっているなんて、完全に僕のミスだった!」


 それまで若者同士で楽しい会話を繰り広げていたところへの不意打ちである。筑紫とナギは見るからに面倒くさそうな表情をした。

 しかし、渡りに船とはこのこと、カン君にとっては自分のキャラクターが崩壊してゆくのを防いでくれる救いの手である。

 さて、正直なところ、安賀多へは怒り心頭のカン君である。

 それでも今回は無事に済んだのだし、安賀多の謝罪は誠意が込められていた。

 その上さらに怒りをぶつけようという気はさすがに起きなかった。


「ほ、ほら! 何しろ相手は鏡の中にいたんですから、視えなくても仕方ないというか……」


 咄嗟に思い付いたフォローだったが、自分でも言っていて正しいことのように思えた。最初に安賀多が告げた「霊の残滓しか視えなかった」というのは、これは確かに事実に即していることだった。すなわち失踪者たちの残留思念である。そこから怪異の気配を嗅ぎ取る、ましてや鏡の中に潜んでいる怪異を察知するというのはさすがの安賀多でも難しかったのだろう。事実、筑紫すらも気付けていなかったではないか。


「だから、今回ばっかりは安賀多さんは悪く……」


 安賀多を庇うカン君だったが、そこに筑紫の叱責がぴしゃりと飛んできた。


「ダメだよ、カン君。間違ったのはホントなんだから。ね、安賀多?」

「面目ない……次からはもっと背景まで調べてから依頼を持ってくるよ……」


 何も反論できず、しょんぼりとする安賀多だった。


「カン君も、安賀多を甘やかしちゃダメだよ?」

「……仰せのままに」


 人生の先輩に対して甘やかすとは不可解な物言いだったが、筑紫のスマートフォン中毒も厳しく対処したばかりのカン君である、素直に頷くことにした。

 それに、当面の危機――ナギへのカン君に関する風評被害――は去っていったようなので、人心地が付いたカン君だった。


   ◆


 そして、約束の日。

 カン君は再び、丘の上にある日向の工房へと来ていた。

 朝からの雨は昼前には上がっていて、水溜まりが太陽の光を反射している。

 今日も日向は裏の倉庫に籠もっているようだ。


「日向さん。約束のもの、取りに来ました」


 ギギィ、と鉄扉が開く。影からぬっと顔を出した日向は、じっとカン君を見つめていた。

 居心地の悪さを感じる。

 それは品定めをしているようでもあったし、羨ましがっているようでもあって、真意の所在が分からない視線だった。

 数秒経って、日向は奥へと引っ込む。

 もう一度出てきたときには、新品のスマートフォンが差し出された。


「ありがとうございます」


 持参していたビニール袋を用意する。スマートフォン一つを浮遊させるより、ビニール袋の持ち手のみを念動させる方が消費が少なくて済むし、空飛ぶスマホという奇怪な目撃情報を生まなくて済む。ビニール袋であれば、宙に浮かんでいても風の悪戯と認識されるはずなので幾らでも誤魔化しが利くのだった。

 この手法は今まで何度も繰り返してきたことなので、日向も躊躇いなくビニール袋に入れようとしていた。

 ふと、カン君は思う。このいかにも不審者である日向がショップでスマートフォンの契約をしているのだろうか。

 その画があまりにシュールでカン君は笑ってしまいそうになった。


「――まだ笑えるのならば、道程は長いか」


 ふと漏らされた言葉を掴み損ねて、カン君は「え?」と聞き返す。

 対する日向は初めから何も告げていなかったかのように、スマートフォンをビニール袋へと投げ入れた。


「あ、日向さん! いくらあなたのお金で買ったとはいえ、乱暴には……」

「――安心しろ、今回は二台買っておいた」


 もう片方の手には、同じ型の端末が握られていた。


「筑紫には隠しておくといい。これは、予備だ」

「さすがは日向さん」


 過保護ですね、という台詞は心の中に仕舞っておく。

 もう一台も袋に回収し、カン君は一礼をした。


「それでは、また」

「――あぁ。また、近い内に」


 カン君が去ってゆく。

 それを見送って、日向は倉庫の門を閉じようとした。

 その動きが、少しの間だけ止まる。

 地面に残された水溜まりに、両目を瞑った日向の姿が映っていたような気がしたのだった。

 だが、それは瞬きの後にはもういない。


「――ふん」


 こんな話はどうだろう。

 鏡の中にいた眼球の怪異は、海の底で古巣から抜け出した。怪異は縁起も知らぬが故の怪異、住処を鏡から水に変えることなど簡単だ。

 消滅させることのできない眼球群は、今も光を反射する水面に潜んでいる。

 覗けるものは、鏡だけとは限らない。

 人形師はそんなことを考えたかもしれないし、考えていないかもしれない。

 ただ、日向は。

 つまらなそうな顔をして、今度こそ鉄扉を閉じた。

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