覗けば、いる 10
考える。
思考は人間の武器だ。
あの鏡面――暗闇を映す鏡の中に、怪異はいる。
何か使えそうなものはないか。
箪笥の破片、朽ちた土壁、腐った畳。
違う。
握りっぱなしになっていた右手を開く。
じっとりとした手汗が、夜気に触れて冷たかった。
無論、錯覚だ。
この身は霊体、数多の記憶と霊魂が混ざり合っただけのものだ。
考えろ。
この体で出来ることは、何だ。
一つは、霊が持つ超常現象。
超能力者に毛が生えた程度のそれ。
もう一つは、憑依。
自分の得意とする、体の主導権を強奪する技だ。
違う、違う。
怪異に取り憑くなど、馬鹿げている。滑り込める魂すら持っているのか怪しい。
後は――この右手。
筑紫との繋がりが最も色濃く反映された箇所。
霊体の濃縮と希釈を手軽に行える。
違う、違う、違う。
最初に考えるべきなのは、そう、相手だ。
相手とは?
そう、アイツ。
鏡の世界、その中で。
和室の風景、自分の背後、和室の隅に何かが立っている。
暗闇に紛れてよく見えないそれは、輪郭がぼやけて把握しづらかったが、手招きをする人影のようだった。
賭けたっていい、そんな人影は現実にはいない。
――僕を、甘く見るな。
凝視する。
視覚を最大限に稼働、眼球に力を込める。
霊体によって増された視力で、人影を捉えた。
その姿は。
「――眼球の、塊?」
無数の血走った眼球が、血涙を滴らせながら象った人型だった。
ぐる、ぐるり。
それぞれがあらぬ方向を凝視し、また蠢く。
統一性もなく、幾重にも視線を張り巡らせる眼球の怪物だ。
カン君は胃酸の逆流を必死に抑え、鏡の中で手招くそいつを見る。
――こいつが、正体。
記憶にもあった。
被害者たちの最後には、一様にコイツが発生している。
前段階として過去に囚われた人間の姿を模して人を惑わし、然る後にコイツが「お迎え」に来て、鏡の中に引きずり込まれる。
なんて、遠回りな。
――待て。
そう、遠回りな手法。
なぜ、本体が出てこない?
最初から直接、本体が出てくればいい。そうした方が手間がかからない。
そして同時に、なぜ今は直接、迂回せずに出てきた?
「今だから、出てこられた?」
もう一度確かめるまでもない。
今は、夜だ。
夜だと活動しやすい、というのだろうか。
記憶を確かめる。
彼らの記憶は、そう、まだこの家が廃屋ではなかった頃。
その後、廃屋となって心霊スポットの属性を与えられ、今に至る。
考えろ、考えろ、考えろ。
全ては繋がっているはずだ。
両目を閉じた似姿、眼球で構成された肉体、暗がりで活発に/明るみでは迂回する生態。
「――そうか、そうだ」
怪異とは、何もかもが分からないが故に怪異である。
翻って解すれば、何か一つでも分かれば、少なくとも当人には怪異ではない。
例えば、弱点とか。
弱点を突く方法とか。
もちろん、弱点を突けば倒せるなどという甘いものでもない。
相手は怪異、何が起こってもおかしくない。
ただ、カン君にとって、最も大事なことは筑紫の奪還だ。
圧倒する必要はない。
――だったら、いけるか?
自問する。
何とか手繰り寄せた解決法は、自分の身にも重大な危険が降りかかる。
上手くいっても集合霊として形を保てるか分からないし、そもそも上手くいく可能性は少ない。
何しろ、怖い。
一時的とはいえ怪異に接近する必要がある。向こうの射程は、あの異様に長い腕が届く範囲。すでに圏内だ。こうして思考の時間が与えられているだけでありがたい。
このまま一歩を踏み出した瞬間に、あの腕が伸びてくるかもしれない。
だとすれば、すぐにでも動き出すべきか。
それともまだ様子を見るべきか。
一色触発の空気が、カン君と鏡面の奥に佇む眼球群の間で流れていた。
もう、待てない。
まさに駆け足を踏まんとしたその瞬間、激励の声が響いた。
ナギだ。
「だいじょーぶ、でしょ!?」
あぁ、そうだとも。
「だいじょーぶ、です!」
だから、往く!
◆
鏡台の怪異。
その特徴は、以下の通り。
明るみでは迂遠な手法で、暗がりでは早々に手を下す。
人の似姿を取るが、その両目は閉じられている。
正体は眼球の群体である。
そして、鏡の向こうというおよそ非科学的な狭間に棲む。
――つまり、こいつの弱点は光だ!
一歩、カン君は駆ける。
――明るみで鈍いのは、眩しいから。
両目を瞑る似姿は、眩しいから。
眼が群れれば当然、眩しいはず!
筑紫の言葉が蘇る。
『鏡、映る、光……』
それがヒントだった。
一歩、カン君は駆ける。
怪異の正体は、変わらず不明だ。
眼球群という姿の怪異が、存在しない鏡の世界に潜んでいる。
まったく意味が分からない、理外の事象だった。
だが、取り込んだ記憶では。
――必ず、最後には引きずられる。
引きずられるということは、門が開いているということ。
誰かを標的としている間は、誰かもまた向こうに侵入できるはずだった。
一歩、カン君は駆ける。
鏡面には様々な人の似姿が映っていた。
高価な服に身を包んだ女性、優しげな老婆、無精髭の男、臆病そうな若者、時代も背景も性別も違う数々の人間。
それら両目閉じの似姿が現れては消え、そして。
ふわふわのポンチョコートに身を包んだ、天真爛漫の少女。
「筑紫さまを、騙るな!」
一歩、一歩、そして一歩。
鏡面は目の前、眼球群の人影は、最奥でいまだ手招きをしていた。
――だったら、行ってやるとも。
構えるは右手、魂の大半を注ぎ込んでいる。
握り拳を、ぶち込んだ。
鏡面は水面のように波を立て、カン君の右手は容易に通る。
同時に、眼球群の腕らしきものが、それを掴もうと伸びてくる。
後は、カン君の番。
不安を打ち消す魔法の言葉を、無理矢理に絞り出した。
「――お前なんて、怖くない!」
突っ込んだ握り拳が、カン君の激情にうねる。
そして、炸裂した。
数十体分の霊体が巻き起こした霊的な衝撃は、カン君と筑紫が霊魂の共有をする際とは比べ物にならないほどの発光をも生み出した。
鏡面の向こう側――怪異の領域が、眩い光に照らされる。
剥き出しの眼球たちでは、その直撃を避ける目蓋を持たない。
だから、もし怪異が感情を持っていたとしたら、きっと「まぶしい!」という驚きに身を固めただろう。
カン君の行った自爆攻撃は、この効果を狙ったのが一つ。
そして、もう一つ、こちらが本命だ。
「――『目を覚まして』ください、筑紫さま!」
カン君が炸裂させた霊体は、筑紫にとって馴染み深いものである。
鏡の中で筑紫がどんな状態でいたのかは分からないが、今は門が開いていて、カン君の光が出口を示す。
後は、そう。
筑紫がそれを辿って、怪異が怯んでいる隙に、戻って来ればいい。
かくして、鏡面が水面の波紋を立てて。
「……ただいま!」
笑顔の筑紫が、鏡面から抜け出してきた。
その表情には一切の不安がなく、いつもの人懐っこい笑顔で。
「……おかえりなさいませ、筑紫さま」
主の帰還を確かめた後。
カン君は、意識を手放した。
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