『鏡の向こう側』
そうね、私の話は家からしないと伝わりづらいかもしれないわ。
ほら、よく言うじゃない。本家とか分家とか。
そういう伝統的なものに縛られていたっていうのが前提……いいえ、違う。
縛られてはいなかったの。だって、抜け出したんだから。
私も詳しいわけじゃないわ、両親はその話が嫌いだったみたいだし。
ただ、こう聞いているの。
私のお母さまが、お父さまに一目惚れをした。
分家の次女だったお母さまは、この機会に家から抜け出してしまおうって考えたわけね。
それで、今となっては尻に敷かれる……あら、失礼。下品な言葉だったわね。
今では妻を立てる誠実なお父さまだけど、当時はとても男らしい殿方だったらしいわ。
だからお母さまを連れて、そう、駆け落ちってものかしら。
そうやって家を出たのだけど……そもそも分家の次女なんて、そこまで大事なわけでもないらしいのね。
折り合いの悪い家族だったっていうこともあって、ちょうどいい厄介払いみたいに扱われたらしいわ。
どこか適当な土地を買ってやる、手切れ金だ……といった流れだったらしいわ。
それで拍子抜けしたお母さまだったのだけど、愛するお父さまと一緒に家の影響から抜け出せたのだから、どうでもよかったらしいわ。
それで、私が今の家に生まれたというわけ。
だから実家の分家なんて数回しか顔を出してないし、本家なんて場所すら分からないわ。
でもね、一つだけ……いえ、一人だけ繋がりはあったの。
私が小さい頃から何かと気を掛けてくれた、お祖母さま。
実家からは遠いのに、何回も私の顔を見に来てくれたわ。
もちろん私もお祖母さまのことが大好きだったわよ。
いつも珍しいお菓子とかおもちゃを持ってきてくれて、遊んでくれるの。
それと一緒に、立ち居振る舞いについても教えてくださったわ。
お母さまは「もう関係ない」って文句をつけていたのだけど、お祖母さまは「覚えておいたほうがいい」ってね。
お祖母さまはもう高齢だったのに、いっつもしゃんとしていて、そんな人がお祖母さまなんだっていうのが誇らしかったわ。
そのお祖母さまが死んでしまったときは、本当に泣いたわ。
でも、淑女は泣いてばかりでは駄目だって何とか切り替えて、これからは天国のお祖母さまに恥じない生き方をしなくっちゃって思ったわ。
それで、ええと。
そう、遺品よ。
何年ぶりかに親族で集まったときに、遺産分けしなくちゃって話になったのよね。
私はお祖母さまの品なんて、思い出して辛くなるだけだからいらなかったのだけれど。
一つだけ、私は持ち帰ったわ。
遺書に記してあったんですって。あの鏡台は、私に残してあげてってね。
鏡台なんて、その時に初めて知ったわ。そもそも家に行くことなんてなかったのだから。
でもお祖母さまが遺書に残すくらいなんですもの、さすがにいらないとは言えなかったわ。
それに、実物を見たら、なんだかお祖母さまが見てくれているみたいだったし。
そんなことがあって、私の部屋に鏡台が置かれるようになったわ。
でも、変なのよ。
その鏡台に、時々、お祖母さまが映っているの。
最初は怖かったわ。
でも、お祖母さまの香りがするんだもの。
包まれるだけで優しくなれる香り。
だんだん慣れてきて、気付いたの。怖いものじゃないって。
あんなに優しかったお祖母さまが怖いことするわけないじゃない。
でも、一つだけ気になったわ。
どうしてお祖母さまは、いつも両目を閉じているのかしら。
◆
俺がその物件を見つけたのは、本当に偶然だった。
どこかに適当な……人目につかないで作業に集中できそうな安物件はないかと不動産に聞いてみたら、ここはどうですか、と。
ま、場所が悪いこと以外は合格だった。林の中というが気になったが、これはちゃんと業者でも雇えば解決だろう。
だが、安すぎる。
これを聞いてみたら、担当が困った顔をした。
事故物件でも俺は気にしないと伝えると、担当はしぶしぶ口を開いた。
なんでも三人家族が住んでいたが、娘が失踪してから両親は人目を避けるように引きこもり、自殺した、と。
よくある話……ではないかもしれないが、ともかく、そういうことらしかった。
だから安いんですよ、と冷や汗をかく担当に幾らかの金を握らせて、そのまま契約書にサインした。
過去に事件があったなど、どうでもいい。それで安いのであれば、俺にとっては万々歳だ。
こうして入居した平屋だったが、話に聞いていたより周辺の林が高かった。
だったらそれでもいい、日当たりを犠牲にして木々の安らぎを買ったと思えばいい。
どうせ夜行型の生活だ。
そうして俺は独り身には広すぎる平屋を手に入れた。
最初は作業場だけと考えていたが、実はこのときにもう一つの大きな拾い物があった。
和室の中に置かれていた鏡台だ。
大切にされていたのだろう、鏡面は綺麗だったし、台座の木は漆が剥がれていない。
懐古趣味もそれなりに持つ俺だ、一目見て気に入った。
仕事のかたわらで布を開き、そこに映る自分を見て悦に入る。
どうせ誰も見ちゃいない。立派な鏡に映る自分を見る趣味があってもいいだろう。
だが、それ以上のネタがあるとは思っていなかった。
鏡に映る和室の窓、ほんの時々だが、見知らぬ女の影がある。
さて、ここで俺は考えた。
まさか霊などと非現実的なものではあるまい。
どこかの変質者が、俺を監視しているのだろうか。
しかし幾ら窓の外を探索しても、その女が映ることはなかった。
はて、どうしたものだろう。
とりあえず、にらめっこをしてみることにした。
いつ鏡台に女が映るかは不規則だった。
映っても、よく見ようとすればいなくなる。外にはいない。
そうしていることに、一つ気付いた。
あの女、こっちを見ているようで、両目を閉じていやがる。
◆
築六十年。
その言葉は、僕をびびらせるには十分だった。
だけど仕方ない、会社が勝手に決めた場所だ。
公園整備のスタッフが住む下宿に空きがないせいで、僕だけがこんな場所に住むことになった。
前の住人が失踪してから二十五年は経つのだという平屋を企業が無料同然で借り受けてしまった。
数ヶ月の契約とはいえ、こんな仕打ちがあっていいのだろうか。
とはいってもブラック企業というわけでもないし、生活費も多少は支給されるのだからむしろホワイト企業かもしれない。
考えるのはやめた。どうせ避けられない。
そうやっているもみたいになぁなぁで暮らしはじめて、でも、僕はこの家が好きになってしまった。
意外と、いい。
もともと人付き合いの苦手な僕だもの、やたらと構ってくる先輩たちが気味悪がって寄ってこないのは嬉しかった。
それに不便もない。今の時代、通販があれば困ることはないのだし。
何よりも、この鏡台だ。
インテリアなんて興味はなかったのに、やけに気に入ってしまった。
汚れてしまった鏡面を修理するために硝子屋まで呼んで綺麗にした。手取りの半分が飛んだけれど、清々しかった。
こうして僕と鏡台の生活が始まった。
映る人は様々だった。
女の人、男の人、お婆さんにお爺さん。
人間なんて、こうして眺めているだけでいい。
中にいる人たちがどんな人なのか考えているだけで、僕は何時間でも過ごせる。
ただ、みんな両目を瞑っているのは気になったけれど。
そしてあるとき、鏡の中に変化があった。
誰かが遠くにいる。
現実にはいない、両目を瞑った誰か。人のようにみえるけど、暗くてよく分からない。
その影が、手招きをしているようだった。
なにを、ばかな。
そっちにはいけないんだ、僕は。
ただ、瞬きをした瞬間、鏡の中の僕は、両目をぴったり閉じていた。
もちろんおかしい。それを見ているのは僕だ。
おもしろいな。
どうなっているんだろうと右手で触れようとして、僕は動きを止めた。
鏡の中の目を閉じた僕は、右手で触れようとしているポーズだ。
最初は気付かなかった。
だけど。
鏡の中は、左右対称なはず。
僕が右手を上げたなら、中の僕は彼から見て左側の手を上げているはず。
なんだろう。
そのまま右手を真っ直ぐ伸ばすと、両目を瞑った僕も同じようにする。
これじゃあまるで、僕の姿をした誰かが正面にいるみたいだ。
その奥で、人影は相変わらず、おいでおいでと招いている。
そうか、分かった。
だから僕も、そっちに行けるんだな。
普通の鏡なら、僕の手と鏡の手がぴったり重なる。
お互いに押し合っているから、向こうへは行けない。
でも、そうじゃなかったら?
向こうから押し返してくる者がいなければ?
僕は鏡面に触れ――ない。
両目を瞑った僕も同じだ。
鏡面から、彼の手が伸びてくる。
このままだと、僕も向こう側の住人になるだろう。
それは困る。
鏡のこっち側から見るのが楽しかったのに。
だけど、僕が腕を引っ込めても。
彼の腕は伸びてくる。
僕の首まで、そして、掴んで。
苦しい。
引きずられる。
彼の目は、やっぱり閉じられている。
その奥で、人影が笑っている。
あ、違う。
ここまで、鏡面の直前まで連れてこられて、やっと見えた。
あいつ、人じゃ――
そうして僕は、鏡の向こう側へ。
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