覗けば、いる 6

 ナギが合流した後、筑紫とカン君は林道の果てへと到着した。

 元々は平屋だったのだろう、背丈はあまりない建物だった。入口にある扉は無配慮な侵入者によって破壊され、はがされた木板が悲痛な叫びを表しているようにも見える。確認できる窓は割れているか汚れているかで中の様子は覗けない。ただ入口の奥に広がる暗闇が、三人を招いているだけだった。


「思っていたより小さいですね」


 カン君は全体を見る。

 いわゆる心霊スポットとして有名なものは、それなりの広さを誇るものばかりだ。それが肝試しに来る不届き者――暗闇探検のスリルを得たい者にとって都合がいいのだ。そうでない小さな廃墟などであれば、わざわざ踏み込んでも得られる「楽しみ」が少ないのだから「人気」は落ちる。せいぜい背伸びをしたがる子どもたちが一世一代の大冒険、といった程度だろう。

 都市部からわざわざ来るほどの魅力が、この土地にあるとは思えない。

 となると――それでも知名度があるのならば、人を呼び寄せるだけの「いわくつき」とみて間違いなさそうだった。


「警察が諦めたのも分かりますね。ここは、確かに出る」

「そうだね。でも、そこまで気配は感じないかな」

「え、なに? カン君なんて言ったの?」


 一人だけ場慣れしていないナギは、三人の中で最も大人でありながらもビクビクと震えていた。端から見れば堂々とした少女と怯える女性の構図である。


「ここは出るねって」

「や、やっぱり? なんかあるなーとは思ってたんだよね」


 そういえば、とカン君。

 最初にナギと会ったとき、彼女は廃屋の方から来ていたはずだった。その上、第一声が誰何である。


「なぜここに来ていたんですか――と、ナギさんに」


 筑紫に通訳をお願いし、彼女も応えた。


「なぜってそりゃ……放っておけないからよ。なんでかは分からないけど、ここで数人が失踪してるのは確かでしょ?」

「でも、ナギは普通の人だよね?」

「そうね、警察でも探偵でも……筑紫ちゃんとかカン君みたいな不思議な人でもないわ。でも、だったら何も出来ないの?」


 違うでしょ? と確かめるように続ける。


「もしかしたら何か分かるかもしれないし、軽い気持ちで近付いてきた人に注意もできる。だから、やるのよ」


 手を握って熱弁するナギを見て、カン君は納得するものがあった。


 ――正義感の強い人なんだな。


 だから幼い筑紫を一人で行かせるようなことも出来なかったのだろう。

 それに、親しくなかった知人がここで失踪したとも言っていた。ナギは思った通りを口にする裏表のない女性だ、きっと失踪した彼とは事実親しくなかったのだろう。それでもこうして活動していたのは、失踪した知人のためでもあり自分の正義感のためでもあるという、そのような背景があったのだ。


「ナギは、偉いんだね」


 筑紫がしんみりと頷いた。


「ねぇ、ちょっとしゃがんでみて?」

「え? い、いいけど……」


 カン君と同じくらいの長身を誇るナギだったが、膝を曲げきると筑紫を軽く見上げる形になる。

 その頭へ、筑紫の左手が伸びた。


「わっ」


 驚くナギだったが、筑紫は構わず撫でてやる。艶やかで真っ直ぐな髪がくしゃくしゃになっていった。


「いいこーいいこー」

「あ……ああ……」


 とろけるナギである。耳まで真っ赤にして快楽を味わっているようだった。

 さて、穏やかではないのがカン君である。

 まだ出会って数時間と経っていない他人相手に、頭を撫でてやるなど不埒な。

 自分でも顔が嫉妬に歪んでいるのが分かる。カン君はそれを必死に隠そうとしたが、失敗しているという自覚も共にあった。


「さぁーて、筑紫さま。そろそろ参りましょうねぇ」

「うん! ……じゃあ、ナギは遠くで見ていてね」

「ああ……へぁ?」


 筑紫の左手が離れ理性を取り戻したところのナギは、頭に残る暖かさを名残惜しく感じながらも分別ある大人として威厳を見せつけようと立ち上がる。


「おほん。大丈夫よ、筑紫ちゃん。餅は餅屋って言うし、邪魔はしないようにするから」

「ありがと。……カン君、いこ?」

「はい、筑紫さま。手早く済ませて帰りましょう」


 歩き出した筑紫に追いつき、その隣へと立つ。

 枯れ枝を踏む音がバキリと鳴り、掻き分ける草はガサリと鳴る。

 いまにも崩れてしまいそうな廃屋の入口までそれらを掻き分け、一度立ち止まる。

 こうして形を失いつつあっても、家は家である。外と内を分ける境界は古くから力を持つものだとされてきた。今もそれは健在で、暗闇の廃屋に入れば「中」となる。そこは霊の領域だ。例え相手が低級であろうとも、そういう場の力が働いているかもしれない。油断は禁物だ。

 まずは自分が中へ、とカン君が進もうとする。

 そこへ筑紫が一声を投げた。


「帰ったら、カン君にもいいこいいこしてあげるからね」

「……そうと決まれば、全力で」


 俄然やる気が出てきた。今の自分ならどんな悪霊が出てきても勢いだけで取り込めそうだった。

 一歩、踏み入れる。

 まず大事なのは情報である。何処に何が潜んでいるか、筑紫に危険はないか。

 どんな異変も見逃すまいと意気込むカン君だった。

 しかしそれは、無駄なものだった。


「……いますね」


 地面と同化してしまっているかのように汚い玄関があり、下駄箱の上には古めかしい空の水槽が置かれている。それを右手に奥へと伸びるのは板張りの廊下で、所々に穴が空いていた。おそらく腐食が進んだところへ不届きな集団が体重をかけて割れたのだろう。そして廊下の左右、引き戸の残骸で仕切られているのは居間と台所だ。最奥にあるのは便所と風呂、そして隣に見える障子の残骸が和室――そこに、感じる。

 ひんやりとした空気が玄関から奥へ流れ込んでいった。まるで、和室に誘うかのように。

 おそらくは、集合霊。安賀多の見込んだ通りだろう。

 大きな、死者の気配がする。しかし恨みや妬み――生者に危害を与えようとする悪意はないようだった。もしあれば筑紫が何らかの反応を示しているだろうし、これだけの強大なものならば外で待っているナギに――獲物に無反応のはおかしい。

 ただし、巨大すぎた。同類のカン君が唾を飲み込んでしまう程の存在感が鎮座している。まだ霊体と対面していないのに、感じる。


「なるほど、これなら一般人も吸い寄せられてしまうわけですね」


 闇を求める者、闇に惹かれる者であれば、廃屋に入らずとも何かを感じてしまうかもしれない。きっと失踪者たちというのは、そういった者たちだったのだろう。遠くから漂ってくる甘美な香りに誘われて精神に異常をきたし失踪――後は山にでも還ったか。

 そこへ、背後から声が来た。


「これなら大丈夫そうだね」


 筑紫である。廃屋へ足を踏み入れても何ら危機感を持っていない、いつも通りのあどけない顔だった。


 ――いや。


 自分の感想がずれている、そういう自覚がカン君にはあった。

 並の霊能者でも一歩後ずさるであろう巨大な霊体の気配を目の前にしてこそ、筑紫は筑紫である。

 宵闇も通り過ぎて、染み出してきた正しい夜。

 月光の遮られた廃屋で、人の名残が断末魔を上げるこの場所で。

 少女はただ、いる。

 つぶらな瞳は暗い気配を逃さず、小さな口は霊の気配を呼吸し、流れる髪は死者の嘆きを通し。


 ――こういう場所にいるのが、筑紫さまの自然なんだろうな。


 世俗の中で生活し、小さな身体は寒がりで、人使いが荒くて我が儘で、ゲームばかりしている――それこそが不自然。

 こういう場所にいる彼女こそ、死者や怪異に「力」を使う彼女こそ純粋なのだ。


 ――だから、不自然な彼女でいてほしい。


 絶対に、手を煩わせない。

 あの「力」を使わせては、だめだ。


「筑紫さま、ここは僕だけで事足りますので」

「分かってるってば。筑紫はこないだ、うんと使ったから大丈夫」


 でも、と筑紫は冗談めかして指を口に当てた。


「あんまり遅れちゃうと、保証はできないかもね?」

「……善処します」


 この場は任せてくれたのだろう。条件付きで。

 それで構わない。どうせ相手は単に大きいだけの集合霊だ。筑紫の右腕たる自分の敵ではない。カン君は自分にそう言い聞かせる。

 そして、一呼吸。

 崩れた廊下を進む。

 左右の部屋も念のために目を配りながら――古く安っぽい調度は二十年ほど前のものだろうか、台所には埃を被った蜘蛛の巣が張ってあり、長い年月放置されていたのだろう――、不審なものは見当たらないので先へと進む。正面のトイレには何やらスプレーで書かれた下品な文字があり、この不届き者たちが霊障の犠牲になっていればいいなど不謹慎な思いを抱いた。

 そして、和室である。カン君の目に、異様な光景が飛び込んできた。

 広さは十二畳、広めにつくられたそこには、年代物の木製箪笥や破れてしまって読めない掛け軸、カビで黄ばんだ押し入れと天袋と、いかにもな和室。

 中央には真っ白な布が掛けられた台が鎮座していて、それを守護するかのように浮かぶ不格好な塊――集合霊だ。

 苦悶の顔が、ねじまがった腕が、脚が、体が――ありとあらゆる人体のパーツが、子どもの粘土遊びが如くにぐちゃぐちゃに纏められた、そんな姿をしていた。


 ――おぞましい。


 自分もこれと同種なのだと考えると、カン君は吐き気を催してしまう。

 だが、こうはならない。決定的な違いがある。


 ――はやく、取り込んでしまおう。


 目の前にして気分のいいものではない。見た目だけは恐ろしいが、意志なき者ならば取るに足りない。継ぎ接ぎの霊魂に憑依して、肉体の――もとい、霊体の主導権を奪う。

 それだけのことだった。


「悪いが、筑紫さまに手早く済ませろと言われているんだ」


 カン君は、意志すら消えてしまった人生の残り滓へと弔辞を捧げる。

 それに反応したのか、霊塊は忸々じくじくと身を震わせた。

 幾つもの目が、形だけの眼差しを向けてくる。


「僕が羨ましいのか? だけど、これは筑紫さまにいただいたものだ、君にあげることはできない」


 構える。

 ゆっくりと、力を抜いて。


「無念なき残滓とはいえ、苦しいだろう。いま、助ける」


 半身で、右手を後方に。

 持てる霊体を希釈させ、右手だけを空洞に。


「大丈夫だ……もう、怖くないから」


 翳す。

 右手を、憑依の手を。

 そして、触れて、取り憑いた。

 二つの集合霊が重なってゆく。

 霊魂と霊魂の摩擦が光となって暗がりの和室を照らしてゆく。

 巨大な塊は、形を変えてゆく。

 中に住み着いたカン君の輪郭こそが、元から正しかったかのように。

 凝縮され、還元され。


「――憑依、完了」


 霊体の濃度を増したカン君だけが、立っていた。

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