覗けば、いる 2
霊体は現世の物質に触れることはできない。
強い無念に立脚した底知れずの情念で、物体を触れずに動かすことはできる――いわゆる
さて、カン君はといえば集合霊――数多の霊体が集合した、紛れもない「強力な」霊である。
物体透過や空中浮遊といった芸当はもちろんのこと、現世の物質を動かすことも容易なことではあった。
――とはいえ。
霊体とはいえ無限に動けるわけではなく、むしろ魂が摩耗してしまえば後は霧散を待つばかりだ。
よって「スマホ持ってきて」という筑紫の指令は、カン君にとって難易度の高いものだった。
筑紫の住む日向製作所から彼女の書類上の保護者――日向の住む工房までは、平均して徒歩数十分。
カン君が本気を出せば、すなわち空を往けば十数分程度で辿り着ける距離だ。
ただし、魂の消費を考えなければ、の話ではあるが。
――筑紫さまも、無茶を言う。
このようなカン君の消費を考慮しない「お願い」は、これまでも幾度となくあった。
小さなものでは「お茶いれてちょうだい」から、ひどいときには「隣町で人気のパンが食べたい」まで、思い返してみると食べ物系が多いのは何故か。
筑紫の小さな体にいったいどれだけの食物が詰め込まれているのだろうと考えるも、きっと育ち盛りなのだろうと邪推を振り払う。
ともかく、一苦労の「お願い」ばかりがあって、カン君はそれをありがたく思っている。
常識人であれば、場合によってはカン君が消滅してしまう可能性もある「お願い」などしないだろう。
それでも筑紫は遠慮無く「カン君、あのね」と些事を頼んでくる。
――僕みたいな霊にでも、分け隔てがない。
まるで生者に接するかのような筑紫だからこそ、心おきなく仕えられる。
筑紫の隣にいる間は、生きている実感を得られる。
それがたまらなく嬉しいのだった。
◆
日向のアトリエは、外から見れば普通の平屋にしか見えない。
小高い丘の上に敷地があり、小さな畑と庭を通った先に古民家が建っている。
そこが日向の生活空間ではあるのだが、大体誰もいないのをカン君は知っている。
古民家を通り過ぎて奥へ進み、目指すは倉庫だ。
「日向さん、いますか?」
そう呼んでから、返事を待つ。
所々が黄ばんだ古臭い鉄扉の前で数秒、ギギィと鉄の噛む音がして開いた。
ぬっと顔を出したのは日向だ。普段通りの無表情で茫洋とした雰囲気が、倉庫の物寂しい空気と合っている。
「――用件は」
歓迎されてない、わけではない。これが普通だ。
最初こそ驚いたカン君だったが、今ではもう慣れている。
彼が決して中に人を入れないことも。
日向と話すときは、いつも倉庫の前での立ち話なのだった。
「筑紫さまが、またスマホを投げました」
「――そうか」
悲しいことに、このやり取りにも慣れている。
今まで何個の端末が暴虐の果てに粉砕されたことか。その度に日向がすぐ新しいものを買い与えるので筑紫も遠慮無く壊すのかもしれない。甘えの原因、日向にありか。カン君は日向の親バカも注意しようかと思ったが、その考えは日向の対応に打ち消された。
「今は手が離せない。――四日後に、また来るといい」
おや、とカン君は思う。
日向が筑紫関連のことで数日待てなど珍しい。知る限りでは、今までに無かったことだ。
ということは別の筑紫関連で忙しいのだろうか。
しかし考えても詮無きこと、日向の真意は誰も分からない。
「分かりました、出直しましょう」
告げて、一礼をする。
このことを筑紫に伝えたら、またいやいやが始まるのだろうなとカン君は前途に不安を覚える。
「それでは、また」
去ろうとする背中に、日向の無機質な声が届いた。
「――君が決心すれば早いのだが」
立ち止まる。
何を、とは問わない。
囁かれた言葉の意味は分かるのだ。
目の前に広がるのは長閑な丘の風景、現世のものだ。
振り返る。
古い蔵の入口、日向が立つその向こうは闇。
「いえ、せっかくですがお断りします」
この古めかしい倉庫は、日向の工房である。
中に入ったことはないが、彼は人形師なのだという。すなわち鉄扉の向こうに広がるのは、人形製作の作業場なのだろう。
日向の立つ鉄扉の向こう――広がる闇が手招きしているような錯覚を持つ。
日の当たるこちら側に、カン君はいる。鳥のさえずり、木々の囁き、木枯らしの音。そういった自然の営みは、向こう側には届かない。
「僕はこのままで構わない……いえ、このままがいい」
「――人形の準備は出来ている。望むのならば、いつでもいい」
そう残して日向は戻っていった。
誘いを断られたというのに、彼はやはり無表情のまま。
そして、闇の入口が閉じられた。
ガチャリと鍵が掛けられて、日向の領域が見えなくなる。
「……筑紫さまのところに戻ろう」
あえて言葉を紡ぐ。
そうしないと、誘いに魅力を感じてしまいそうだった。
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