聞いたら、来る 10
汚泥を撒き散らし、来る。
腐った――いや、物質ではないのだから、腐っていないのだろう。
そういう形をした、理外の概念。
人型といえば人型ではあった。
しかし、地を這いながら進む姿は獣のそれだ。
山村の小山に封じられていた何者か。
無かったことにされかかった何者か。
無知の若者を呼び寄せ喰った何者か。
如何なる歴史が、物語が、隠されているのか。
――分からない。
分からない。
分からない!
体の震える感覚に、身動きが取れなかった。
悪霊を新たに吸収したことで余力は十分、逃げることなど幾らでも可能だった。
しかし、これを目の前にしては、何も出来ない。
ただ怯えるだけだった。
――だって。
その姿勢は何だ。なぜ地を這う?
その肉体は何だ。なぜ腐り落ちる?
その皮膚は何だ。なぜ純白色に光る?
その眼球は何だ。なぜ三つの瞳を持つ?
その四肢は何だ。なぜ異様に細く伸びる?
何もかも、何だ。何がどうしてそうなった?
全て、理解できない。
ただ。
無垢な子どものように、笑っているのは分かったけれど。
もうダメだ。
僕では何もできない。
涙が出る。
こんなものが潜んでいたことに。
見つけられてしまったことに。
怪異など無関係と思いこんだことに。
そして、きっと。
彼女に頼ってしまうことに。
「……ねぇ、カン君」
筑紫が、そいつを見ないまま言った。
素直な声色で、カン君へと。
「これって仕方ないよね?」
仕方ない。
単なる集合霊であるカン君に太刀打ちできるわけがない。
「……ごめんなさい」
「……だいじょーぶ。後でいいこいいこしてあげるから」
後は早かった。
筑紫がポケットから釘を取り出すと、自らの首筋に突き刺した。
鮮血が吹き上がり、寒空に湯気が立つ。
血だまりが広がっていき、そこへ筑紫が手を突っ込む。
肘まで浸かり、引き上げる。
滴る血液が管のようにしなり、血だまりすべてが一本に纏まる。
鮮血の紐で、打つ。
怪異の体に紐が巻き付いて、ビチャビチャと縛り上げる。
――これ、あげるね。
筑紫の一言で、紐は怪異の体内へと染み込んでいく。
そうして怪異は、ミツコさんと呼ばれた何者かは。
恍惚の表情を浮かべて、体を霧散させていった。
後には、無念に耐えるカン君と、倒れ込んだ筑紫だけが残った。
◆
結局は、こうだ。
田舎の山村に、故も知らぬ化け物が封じられていた。
そいつは身津沼の怪物、他には何も分からない。
それまで封印していた石碑ごと、巨大な沼に埋めたから。
それでも足りぬと考えた後の村人たちが、沼まで埋めた。
誰もが存在すら忘れてしまったころ、何もしらない大学生が来た。
不幸にも彼は、怪異に魅入られてしまった。
そうして怪異を血で解き放ち、都会へと帰った。
同窓だった元短大生に土産話として『ミツコさん』と名付けた体験談をした。
名付けられた何かは、名付け親の元へ来る。
彼は、殺された。
次に怪異は、自分の名前を知る誰かに狙いを定めた。
怪異ならではの嗅覚が、元短大生――事務員の彼女に狙いを定める。
そうして近付いていき、彼女は発狂した。
逃避の末の事故か、あるいは恐怖による自殺か、彼女は屋上から落ちる。
その先には、受水槽。
死体はじっくりと水に溶けていった。
怪異は次の標的を探したが、自分の名を知る者が多すぎる。
どこへ行けばいいか決めあぐねていた。
そして受水槽の事務員は、人外の恐怖を鮮烈に焼き付けられ、霊となる。
誰か、気付いて。
その無念は、生前に自分が放流した怪談に引き寄せられた。
かつて自分が書き込んだ、友人を殺した怪異の談話――怪談。
その話を知っているのなら、きっと私の仲間なのね。
死者の論理は想いのみ。
こうして霊障を引き起こす怪談――その偽物が、できたのだ。
後は、霊能者が現れて経緯を暴き。
青年が悪霊を、少女が怪異を、取り除いた。
◆
事件は解決した。
カン君は後に日向に助けを呼び、彼の施術で筑紫は一命を取り留めた。
いや、正確に言えば、筑紫は元からあれで死ぬようなことはない。
単に貧血のような症状が出て寝込むだけだ。
そうとは知っていても、カン君にはそれが耐えられない。
――目覚めるまでの時間が、長くなっている。
これまでは丸三日も眠り続けるようなことはなかった。
このまま切り札を使い続けてしまえば、どうなるのだろう。
鮮血の紐――その原理は分からないが、筑紫の生命を与える技なのだという。
ならば筑紫の命はどうなるのか、なぜ釘を、血を使うのか、筑紫とは何者なのか。
そんなことはカン君には分からない。
分からないものは、怖い――とは、思わない。
みっともなく涙を流して恐れた後だけど。
ただ、筑紫だけは、怖くない。
知らないなら、知ればいい。
そうやって、これまで霊に取り憑いてきた。
筑紫は生者ではあるけれど、本質は同じだろうと決めている。
だから、筑紫を知って知って知り尽くすまでは、死者の身でも生き続けるし、筑紫が目覚めなくなってしまわないようにしないといけない。
「……無責任だな、僕は」
眠る筑紫の顔を見て、カン君はそう独りごちた。
筑紫が自分をどう思っているのか、それも分からない。
だというのに、自分の我が儘で守り続けるだのなんだの言って、結局はこうなってしまった。
――自己責任、か。
触れたいのなら、ご自由に。
その代償は自分で払いなさい。
そういう物語だ。
だったら、それでいい。
「……ん」
光を眩しがり、筑紫は静かに目を開けた。
焦点が定まってから、真っ先に看病しているカン君を見つける。
「……おはよ、カン君」
「……おはようございます、筑紫さま」
「……あ、そうだ。いいこいいこしてあげないと」
右手が伸びてくる。
「やっぱり、ひんやりしてるね」
筑紫の手は触れられないけれど。
頭を撫でられるのが、こんなに心地よいなんて初めて知った。
これからも筑紫を知り続けられるのなら。
カン君は、笑みをこぼす。
「自己責任でも、構いませんね」
疑問符を浮かべる筑紫の顔が可愛らしくて、やっぱり笑ってしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます