聞いたら、来る 8
「――!」
恐怖、驚愕、焦燥――なぜ?
まだ早いはず。
怪談に触れてから、一定期間が経ってから。そういうルールがあったはず。
――いや。
思い違いがあった。
怪談に、触れてから。
すなわち、会社員の悪霊を取り込んだとき。
それが、最初の遭遇だったのだ。
逃げろ。
そう言い聞かせる。
だが、このまま何の成果もないままに?
暗黒の部屋を見渡す。
まだ、気配の主は見えていない。
時間に余裕はある、はずだ。
何かあったら逃げる、とは言ったものの、こちらは霊体だ。
その気になれば物体をすり抜けて宙を駆けることも出来る。
相手が悪霊だった場合、集合霊の持久力に敵うはずがない。
もし名も分からぬ怪異であったなら、逃げようが逃げまいが結末は変わらない。
それに、もう一つの判断材料がある。
気配が自分を狙っているというのは、すなわち囮に使えるということ。
筑紫であれば、こちらより早くミツコさんの接近に気付いていたはずだ。
彼女が逃げるだけの時間を稼げるのなら――何の問題もない。
以上、二秒で考えを纏めた。
――奥へ!
残り七割弱、再び扉をすり抜ける。
見渡した。
――何もない?
いや、何もないというわけではない。
入り組んだ太い配管や素人には理解できぬ何かを操作する電気盤ばかりがある。
しかし、それだけなのだ。
端的に、ハズレだ。
「そ、そんなはず……!?」
筑紫の霊視は絶対だ。しかし、これ以上の奥など、ない。
予想外の事態に戸惑う。
その隙が、思っていたより長かった。
――足音。
ゾクリとする。
背後だ。
いる。
確認もせずに、全力で飛ぶ。
どこに出るのか分からない、ともかく外へ。
残り、五割。
不意に力を使ったために制御しきれなかった。
地面にもんどりを打つ。
転がって、止まった。
「カン君!」
「筑紫さま!?」
走ってくる影は筑紫だ。
状況確認。
先程のビルの裏側……社員通用口と簡素な階段が見えた。
辺りには自動車がまばらに停めてある。
ビルの裏には、小さな駐車場があったのだ。
先程までの密室に比べ、街灯の明かりが目に眩しい。
その光を受けて、筑紫が走りを止めた。
ぜぇぜぇと肩で息をしている。
彼女の白い息が、街灯を受けてきらめいている。
「どうしてここへ!?」
「カン君だって、すぐ逃げなかったじゃん!」
その通りだ。責める言葉を無理矢理飲み込む。
「すみません、欲が出ました……逃げましょう、ヤツです!」
急ぎ筑紫に促す。
しかし、筑紫は首を横に振った。
「いいの……もう分かったから」
なにが、と問う前に、筑紫の視線に気が付いた。
その先が一点を指している。
「……受水槽?」
駐車場の端、三メートルほどの箱がある。
水を溜め込み、各階へと供給するための槽だ。
「どうしてもビルの奥……裏側が気になったから、隣のビルから見てみたの」
途中で気配を感じて降りてきたんだけどね、と付け足して。
「あそこ、屋根に穴が空いてたんだ」
その言葉が呼び水だったかのように。
受水槽から、それこそ水がしみ出すように。
腐った水の臭いがした。
崩れた肉片の音と共に。
会社員が死の直前に見たのと同じ姿だった。
変色した肉が剥げ落ちて、筋が、骨が見えている。
ざんばら髪は汚水を吸って表情を隠している。
歩き、肉が爛れる。
事務員の服だったものは血と汚水の色でくすんでいる。
そして、口が。だらり、と。
生者の命を求めていた。
おぞましい姿を捉えて、しかしカン君は逃げ出さず。
「……なるほど、僕にも大体読めました」
直感ながら、分かったのだった。
「筑紫さま、下がっていてください」
何の証拠もないけれど。
状況が、そう告げていた。
「開いた屋根、受水槽。そして、その格好!」
さっきまで恐怖していたのが嘘であるかのように。
「あなたは、ミツコさんではない!」
カン君は、言ってやった。
◆
――なにかが、ずれている。
日向の言葉を思い出す。
元のきっかけとなった怪談では、被害者は水死体で発見されたのだと聞く。
また、古くに埋められた墓石に魅入られたらしい、とも。
因習に葬られた者が何者かは分からないが、現代のOL服を着ているはずがない。
そして、屋根の壊れた受水槽。そこから出てくる悪霊。
自殺か、他殺か――それは、関係ない。
ただ、腐っていく自分を誰かに見つけてほしかったのだ。
――語り手には、意図がある。
拡散希望。
誰かに知ってもらいたい。
自分を、形を無くしていく自分を。
だから、連れ去った。
近くにいた者を。
寂しかったのもあるだろう。
死体が増えれば、見つかる可能性も増えるだろう。
あるいは恨みもあっただろう。
自分と同じようになれ、と。
「……いずれにせよ、僕には関係ない」
カン君は、構える。
全身の力を抜いて、右手を後方に。
「あなたの無念さえ分かれば、それでいい」
視線を、貫くような視線を。
正面の、誰かの霊に。
――恐怖とは、未知への畏れだ。
ゆえに、その無念を知ってしまえば。
彼にもその気持ちは理解できる。
共感できる。恐怖とは正反対の感情だ。
なぜなら、集合霊だから。
あらゆる無念を背負っているのだから。
「――お前なんて、怖くない」
地を蹴る。
かざすは右手、狙うは霊。
その魂に、無念を知られた綻びに。
――取り憑く!
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