第3話
ある港町に、少女と少年がいました。
ふたりは孤児でした。そしてそのような子ども達は、珍しくはありませんでした。
少年の両親は幼い頃に海に消え、残っているのは朽ちる寸前の船だけでした。
少年は残された船を住処にし、大人達の中に混ざり、
少年が少女を見つけたのは、霧雨が町を濡らしていた晩秋の頃です。
その日は肌寒く、冬の気配が忍び寄ってくるのを感じました。
夜明け前の空は薄暗く、降り続ける雨の冷たさに、少年はうんざりしていました。
働きに行こうと船を降りた少年の目の端に、何かが映りました。
ふとそちらに目を向けると、傷んでボロボロになった船底の壁に、膝を抱えうずくまる少女がいたのです。
髪や手足は薄汚く、着ている服もボロボロで、あちこちが裂けて肌が見えそうでした。
ぼんやりと遠くを見つめる少女の目の先には、ただ海があるだけでした。
少女は、気が付いた時にはひとりぼっちでした。
倉庫の片隅や朽ちかけの船の中で、捨てられた衣服で寒さをしのぎ、時には店先の食べ物を盗んで飢えを満たしていました。
野良犬のようだと嗤われることに、恥ずかしさも悔しさも、悲しさも感じませんでした。
物心ついてから、幾度目かの秋でした。
少女は雨を凌げる場所を探し、夜通し歩き続けていました。
——少しだけ。ほんの少し、だけ。
そう思い、身体を壁にもたれ掛け、ずるずると座り込みました。
霧雨で濡らされた身体は鉛のように重たく、芯まで冷えてしまっていました。
動くことも考えることもできず、ただぼんやりと遠くを見ていました。
海が、静かに波打っていました。
水平線は遠く、霧雨でぼやけていました。
寄せては返す波音が、なぜだか無性に腹立たしく、そして悲しく感じました。
少年は、少女から目を離すことが出来ませんでした。
少女には表情がなく、けれどもなぜか、泣いているように思いました。
自分のことにまるで気が付かない少女を、しばらく見つめ続けました。
ふと誰かの視線を感じ、少女は顔をそちらに向けました。
そこには、自分と同じ年頃であろう少年が、途方に暮れた表情を浮かべて立っていました。
そんな少年の様子を見て、少女もまた、途方に暮れてしまいました。
しばらくの間、ふたりは黙ったままでした。
少年は、何かを言おうと思うのですが、何を言えばいいのか思いつかず、また話しかけたとして、それからどうしたらいいのかが、まったく分かりませんでした。
ただ、まるで捨て猫のような少女のことを、ほおっておくことができませんでした。
「……あの」
意を決し、少年は少女に話しかけました。
「雨くらいだったら、しのげると思う」
そう言って、住処にしている船を指さしました。
「オレ、ひとりしかいないし、盗られて困るようなもの、持ってないから」
突然の少年の申し出に、少女は言葉も出ませんでした。
こんな自分に、一体彼は何を言っているだろうか。
もしかしたら彼は、自分が見ている幻なんじゃないだろうか。
何も言わず、ぽかんとした表情を浮かべる少女に、少年は続けて、
「オレ、これから仕事だから。勝手に入って、それで勝手に出ていけばいいからさ」
そう言うと、少女の手を取り、立ち上がらせました。
少女は、驚きすぎて何も言えませんでした。
取られた手にただ黙って従い、船の中に連れ入れられました。
船の中は、簡素な寝床と小さな台所があるだけで、他には何もありませんでした。
少年は少女に自分の服を押し付けると、そのまま出て行ってしまい、少女は一人残されてしまいました。
少女は、しばらくぼんやりと立ちすくんでいましたが、のろのろと渡された服に着替えました。
服は少女には少し大きかったのですが、自分が身に付けているそれよりも、はるかに清潔でした。
少女は、不意に泣きたくなりました。
自分が惨めで汚く、どうしようもないモノなのだと思えると、涙が溢れて止まりませんでした。
少女は大声で泣きました。
何も感じていないつもりでしたが、ただ、見ないようにしていただけだと気が付いてしまったのす。
泣いて泣いて泣き疲れて、少女は眠ってしまいました。
少女が目を覚ますと、もうすっかり日が暮れていました。
船内は薄暗く、小さな窓から街の明かりがうっすらと映って見えます。
少年はまだ帰ってきていないようでした。
少女はぼんやりと、少し離れた場所から、窓の外を見ていました。
外からは、人々の行き交う雑踏と波の音が聞こえてきます。
夕暮れの気配が街を深紫に染めてゆき、気が付けば夜になっていました。
——ここを出ていかないと。少女は思いました。
でも、身体がどうしても動きませんでした。
どれくらいの時間が過ぎたのか、少女には分かりませんでした。
ふと物音が聞こえ、そちらに目を向けると、少年が驚いたような——それでいて、どこかほっとしたような――顔で、自分を見ていまいた。
その日はずっと、少年は少女のことが頭から離れませんでした。
働いている間も、気がつけば少女のことを思い浮かべてしまいました。
仕事が終わると、パンを、いつもよりひとつ多く買い帰りました。
知らず知らずのうちに、歩く足は速くなりました。
船に戻ると、ふと少年は不安になりました。
もしかしたらもう、少女は居ないかもしれない。
なにより見ず知らずの人間の家に、果たしていつまでもいるだろうか。
しばらく逡巡していましたが、意を決すると、そっと扉を開けました。
部屋の中は暗く、窓から漏れ入る街灯りが、ぼんやりと中を照らすだけでした。
その灯りに照らされて、少女がこちらを見ていました。
——まだ、ここに居てくれたんだ。
少年は少しだけ、嬉しくなりました。
少年が蝋燭に火を灯すと、部屋の中が少し明るくなりました。
戻ってきた少年の腕の中には、柔らかそうなパンがふたつ、抱えられていました。
パンを見た少女のお腹が、くぅ……と小さく鳴りました。
少女はとても恥ずかしくなり、唇を噛み締めて、零れそうな涙を堪えました。
「……これ、君の分」
そういうと、少年はパンをひとつ、少女に押し付けるように差し出しました。
少女は驚いて少年を見ました。
怒ったような、照れたような、困ったような——そんな表情を浮かべていました。
「……どうして」
小さな声で、少女は呟きました。
どうして少年は、私にここまでしてくれるのだろう。
ぼろぼろで、薄汚い自分を助けて、何の得があるのだろう。
少女には分かりませんでした。
少年もまた、自分でも何故なのかは分かりませんでした。
ただ、どうしても少女を見捨てることができませんでした。
しばらく少年は考え、そして答えました。
「——俺、親が居なくなってからずっとひとりで。
帰ってきて、もし誰かがここに居てくれたら」
そこまで言うと、少年は少しだけ気まずそうに俯き、小さな声で呟きました。
「……寂しく、ないかなって」
こうして少年と少女は、寄り添うように暮らし始めました。
家に、自分を待つ人がいる。
たったそれだけのことでしたが、少年にとっては、とても大きなものでした。
少女にとってもそれは同じことでした。
少年は大人になり、港で多くの人々に慕われる漁師となりました。
少女も彼を支え共に働き、やがて夫婦になりました。
月日は流れ、ふたりは赤子を授かりました。
ふたりにとって、初めての、血のつながりのある存在でした。
日々大きくなるお腹を撫でて、青年と娘は幸せでした。
その年、港町には重い病気が流行っていました。
暗く冷たい空気が、港町を包んでいました。
老人や赤子が、身体の弱いものが、どんどん死んでいきました。
そして娘も、流行病に掛かってしまいました。
高熱が、娘の体力を奪います。
暖かくしているはずなのに、身体がガタガタと震え、雪の中に埋まってしまったかのようでした。
ぼんやりとする意識の中で、娘は夢をみました。
鈍色の空でした。
どこまでもどこまでも、重たい雲が続いていました。
ふと顔を向けると、金色の瞳の死神が赤子を抱いて立っています。
娘にはそれが、自分の子どもだと分かりました。
『お願い。その子を連れて行かないで』
娘は死神に請いました。
『大切なの』
死神は嗤い、そして言いました。
『この子の運命は、ここまでだ。
けれど、お前が私と取引するのなら、この子の運命をお前の分だけ伸ばしてやれないことはない』
娘は、死神と取引をしました。
こうしてルチは、見習い魔女になったのです。
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