第4話


「ちょ、朝食をお持ちしましたです」

アネットは可哀想なくらい恐縮しながら湯気の立つスープや小麦パンを乗せた台車を部屋の中央に運んだ。妹のナネットは尚更で、入り口に掛けてある天使の図柄が織り込まれているタペストリーの前に立ちつくしていた。

基本的に王女の私室に入ることが出来るのは私だけなので、幼い二人には初めて入るこの蒼碧の間は居心地が悪そうだった。

テーブルに銀の食器が並べられていくのを、部屋の主人は寝台の上で寝そべりながら眺めている。寝台の回りの四本の支柱に支えられた天蓋から滝のように流れるドレープに遮られ王女の表情は見えなかったが、

「あとはサラサにやらせるから、結構。そこに置いて下がりなさい」

と言う低い声は、機嫌を計るバロメーターというのがあるなら間違いなくその針を振り切っていることが予想された。

わたしはアルが投げたスツールの破片を拾い集め、シルクのエプロンにくるむようにして、エプロンごと体から外した。

「ナネット、これを階下に持って行って。木の破片がささくれているから怪我をしないように充分気をつけてね。アネット、寝台の下の衣装箱からガウンを取って……。いいえ、それじゃないわ。もう少し厚い生地の。ええ、それよ。ありがとう」

アネットが恐る恐る差し出した、無地だけれど幾重にも生地が重なっているオフホワイトの上質のビロードで出来た上着を、天蓋のカーテンの間から差し入れた。アルがそれを無言で受け取っているうちに、二人は挨拶をして退出した。入ってきた時とは対照的に音もなく閉まる扉の向こうで足音が遠ざかるの確認すると、王女に気安い呼び名で声をかける。

「大人気ないわよ、アル。あなたの寝起きの悪さは今に始まったことではないけど、何を怒っているの? 二人が怖がっていたわよ」

苛立ちを抑えて優しく窘めるが、寝台から返事はない。

「……サラサが塔に行ったきり帰って来ないから。心配したんだ」

 ようやく返ってきた言葉は、ひどく拗ねたものだった。

「ごめんなさい、うっかり寝てしまって」

その途端、衣装箱を調えていたわたしは腕をぐいと引かれ、ベールの滝の中に引きずりこまれてしまった。

「きゃあ!」

ぐるん、と視界が反転するとわたしの頭は柔らかい羽が詰まったシーツの上に乗せられていた。見上げると、声の調子通りに歪んだアルの顔。

体ごと覆い被され、長い金髪が私の頬にかかってくすぐったい。

しばらくこの美貌の王女と睨みあっていたが、視線を首の下に移してはっと気がついた。

「アル! 服を着て! 今ガウン渡したでしょ」

「いいじゃないか。この部屋には私とサラサしかいないんだから」

「そうだけど、駄目よ。恥ずかしいじゃない」

わたしはアルの体の下から這い出ると、白いシーツの上に向かいあって座った。

垂れ下がるドレープとクッションにふんだんな掛け布など、真っ白で覆われたこの空間は不思議と居心地がいい。

そして同じく白のガウンを肩に羽織り、片膝を立てて胡座するアルはなかなか格好いいしサマにもなっているけど、わたしにとっては心臓に悪い。

「恥ずかしいって、何が?」

こんなふうにくすくすと笑いながら意地悪く聞いてくるのも全てだ。

だってわたし、これでも一応は女の子だもの。

それに……。だって。

「だってアルは男の子じゃない、アルテミオ=ヴィルフランジュ」

わたしは今、恐らく夏のトマトよりも顔が真っ赤だろう。

十七歳の誕生日を迎えるまでは王女として過ごせという王の厳命が近頃身に染みてきた。

今はまだその華奢な体は少女にも見紛うが、寝間着代わりのガウンの下に見える隆々とした筋肉に彩られた滑らかな少年らしい絹のような肌は、どんな豪華絢爛なドレスでも華奢なコルセットでも隠しようがなくなってきている。

「でもそれを知っているのは父上とその側近のノイジュと、あとはサラサだけだよ。公式書類の上でも私はまだ第一王女だ」

再びわたしの肩を緩やかに押す。またしてもあっという間に枕に頭を乗せられていた。

「だ、だ、だ、だからって、二人きりでも服は着なきゃまずいわよ! 万一他の人に見られたらどうするの。いやよ、わたし……もしあなたが居なくなったら」

「……私もいやだ」

深い藍色の瞳は、わたしの心の中まで覗いていそうだった。わたしの「いや」とアルの「いや」は深いところ——本能的な危機回避の点——では確実に意味が違っているような気がしたが、取りあえずは意思疎通が出来たらしいことに安堵した。

「とにかく! ガウンを着たならご飯を食べましょう。さあ出てきて」

 わたしは銀の匙と皿、とボール一杯の春野菜とドレッシングと燻製パイとスープをテーブルに並べてから奥の扉に向かう。

顔洗い用の水差しを衣装部屋から抱えてきたところ、アルはいようやく機嫌が修復したようで、大人しく椅子に座っていた。さっき同じ椅子をもう一脚投げて壊した人物とは思えない。

「ねえ、例の本は見つかったのか?」

 アルは香ばしい香りがここまで漂ってくるミートパイを頬張りながら聞いた。わたしもアルの向かいに座り、相伴に与るのが毎朝のことだった。アルが差し出す串付きの鶏肉を食べる。塩が良い具合に効いていて、これぞ牧農国の名産品という感じだった。

「もちろん! 持ち出し禁止だったけれどハルマ殿が期限付きで貸してくれたのよ」

「……ふーん」

予想通りというかなんというか、淑やかに食事をしていたのはやっぱり束の間で、アルの感情はまた地の底まで低下したようだ。ガシャンとフォークをサラダに突き刺すと、白いテーブルクロスに塩漬けのキャベツが飛び散った。そして頬杖を突く。

我が主君は国の宝と称される類い希な美貌を持つが、反面、なかなかに我が儘な気分屋王女である。いえ、本当は王子様だけれど。その彼のご機嫌を即座に読めるのは、侍女であるわたし一人だと確信はしているけれど、その理由までは生憎と判らない。時々、本当に妙なことで臍を曲げるのだ。わたしのドレスが気に入らないとか、肉は塩味よりも果実の香料で揚げてくれとか。

「ねえ、なんでアルはハルマ殿を嫌っているの? 昔はよく三人で遊んでたじゃないの」

 手近な布巾でクロスに染みたオイルを拭う。薄茶色の染みはすぐには取れそうにない。

「あいつは……嫌いだ。サラサも気をつけるんだよ。学者とはいえ何をするか判らないからね。そしてサラサに何かしたら、私もあいつに何をするか判らない」

 これはひょっとして、ヤキモチというものなのかしら。

確かにアルは、いくら命を守るためとはいえ、一歩部屋を出れば女の振りを強いられている。花のような笑顔を張り付かせて、所詮小娘と侮る貴族議会の老々を、角を立てない程度に優雅にあしらって。わたしにはとても無理だと思う。ドレスの下にはいつだって祖国を守りたいという誰よりも熱い闘志を飼い慣らしているのに。

だからその極度のストレスは普通の人には察せられなくても、一緒に育ったわたしは慮ることが出来た。

お姉さんのような妹のような、もしくは母親のような気持ちもほんのちょっと混ざって、わたしは気付くと立ち上がり、アルに抱きついていた。

「うわっ! なんだよ、サラサ……」

「あのねえ。陛下に次ぐ権力をお持ちのあなたがそんなことを言ったら洒落にもならないわ」 

「でも、昨夜は帰ってこなかったじゃないか」

「それだってあなたが命じたことでしょう?」

肩越しに、皿に盛られている小さなトマトを摘んだ。うん、美味しい。

「それは、そうだけど」

アルの語気は段々下がる。お腹いっぱいになったせいかもしれない。そういうところはまだまだ子供なのだ。もちろん年齢は同じだし、どちらかというと紅穂月生まれのわたしのほうが数ヶ月分年下だけれど、二人きりの時はアルのほうが年下みたいだ。

「わかればいいのよ」

「悪かった。今は時間がないけど今夜にでもそれを読もう。多分一緒に読んだ方が早い。精霊文字はお互い得意じゃないだろ」

 それなら尚更、ハルマ殿に教えてもらえばいいと思ったが、それを言えばアルがまたむくれてしまうのは確信出来るので何も言わなかった。

「じゃあ着替え手伝ってくれるか? そろそろ謁見の時間だ」

 アルは立ち上がると、くるりと背を向け、カーテンに隠れた奥の衣装部屋に一人で向かう。わたしは振り向かずにテーブルの上を片付け始める。

だって振り向いちゃうとガウンをばさりと脱ぎ落としたアルの裸が、見たくもないのに視界に入ってしまうから。

でもそれも仕方ない。

このわずかな身支度の時間だけが彼を窮屈なドレスから解放する時間なのだから。着物を脱ぎ落とし大きく伸びをするのが気配で伝わる。清々しい衣擦れの音を聞きながら大きな窓を開けると、外からうっすらと昼間の音が入ってきた。

それは見張りを交代する兵士の足音だったり、出入りの商人達の挨拶だったり、城の鍛冶屋が鳴らす鉄剣を打つ音だったり様々だが、どれもここの日常だった。

ああ、もうこんな時間なのね。

わたしは慌ててアルの後を追った。コルセットと格闘してるだろう彼を助けるために。

一応扉を叩く。

「もう入ってもいい?」

「どうぞ。今日は何にしようかと悩んでいたところなんだ」

 身長より高い姿見の前で、胴衣姿のアルはドレスと睨めっこしていた。壁にかけてある様々な色の衣装はどれも街の流行の最先端を行ったタイプのものではあるが、町娘が着るほど胸元は露出していない上品な型だった。

「この野バラの色のドレスはどう? 首と袖にシャーリングがたくさん寄せてあってとても素敵よ。それにこの真珠の首飾りにもきっと似合うわ」

「サラサがこれを着てくれるならいいよ」

アルが指差したのは、元は一つの生地から作られたと思われる、同色のドレスだった。でもフリルやレースはアルのものよりも少ない。

「別に構わないわ。さあ、締めるから息を吐いて!」

わたしは細身のドレスを手際よくアルに纏わせ飾り紐を止める。支度はあっという間に出来上がる。姿見に完成されたアルテミオの姿は、国民に愛されるアルテミア王女の姿に変貌していた。しかし髪を結ったわけでも、化粧をしたわけでもないので、わたしからすれば見た目には何も変わらない。最後に長い髪を少し整えればできあがり。

「今日も素敵よ、アルテミア姫。では今度はわたしが着替える番ね。とっとと出て行ってくださいます?」

 冗談めかして鏡越しに声をかけると神妙な面持ちのアルと目があった。

「この私のドレスは……きみを守るための鎧だよ。サラサ」

 鏡の中でぶつかった強い視線に絡み取られる。ほらやっぱり、意地悪だ。

差し迫ったが危険に晒されているのは、わたしではなくあなたなのに。

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