B‐2.懊悩
B‐2.懊悩
誰も居ない、家の想い出。
回想。
――昔から、美憐は独りで食事を取っていた。
『これで夕飯を済ませなさい』
台所の書き置きと、小銭。
親の殴り書きと、食事代。
適当にお弁当を買うこともあったが、スーパーで買い物をする回数も徐々に増えた。家事を切り盛りするのが、子供ながら美憐の役割だった。家の掃除も、洗濯も、彼女がしなければ溜まる一方だったので、自分でやることを覚えていた。
自炊しても、余るだけなのに。
まとめ買いして安く済ませれば、浮いたお金を自分の小遣いに出来るが、虚しかった。
「わぁ、美憐ちゃんは女子力が高いのね」
――ある日、その隙間を埋めてくれる人が現れた。
姉、という家族が増えた。
父が再婚し、新しい母と、姉が加わった。
――もっぱら、家に居るのは姉だけだったけれど。
父も母も外国生まれの帰国子女で、馴れ初めは出張先での取引相手だったこと、らしい。阿保渡の家に似ている。海外で仕事しているだけあって、今も二人して家を空けてばかり居る。阿保渡の家に似ている。似た者同士か。
親の音沙汰と言えば、せいぜい、ときどき電話で声を聞かせてくれる程度だ。音信不通よりは
そんな中、家に住み着いた年の近い姉という存在は、美憐には一種異様で、それでいて今までにない風を吹き込む新鮮な物体として機能した。
「美憐ちゃん、家のこと一人でこなせるのね。新しいお父さんがしょっちゅう家を空けるって聞いたときは眉をひそめたけど、こんなに出来た娘さんが居るなら納得できるわ」
手を叩いて誉めそやす姉ののどかな声音は、美憐を激しく惑わした。
家事のことで、感心されることなんかなかったから。
そもそも、父が不在だからやむを得ず家のことをやるようになっただけであって、決して家事炊事が好きというわけではない。過程と結果が逆だ。
無論、そんな弁明をいちいちした所で面倒臭いだけだったし、せっかく相手は美憐を高評価してくれたのだから、わざわざ訂正して水を差す必要はない。
姉もきっと、新しい家族になった美憐と仲良くなるために、まずは好意的な言葉を選んでいるだけかも知れないし。
事実、美憐の女子力なんてたかが知れていた。中高生にしてはよくやっている方かも知れないが、ぶっちゃけて言えば姉の方がもっと凄かった。
家事も炊事も一回り上手で、美憐より素早く、効率的に、手際が良い。
手料理の味付けとレパートリーの豊富さには、舌鼓を打ちつつ、同時に舌を巻いたものだ。この腕で「美憐ちゃんの料理おいしい」と褒められても、嫌味かと疑ってしまう。
恐らく、姉も妹も自分の手料理しか食べたことがなかったため、生まれて初めて振る舞われる「他人のもてなし」が目新しく感じられたのだろう……と今では分析できる。
それにしたって、姉は完璧超人だった。
外見も、姉の方が美人だし。
「美憐ちゃん、一緒にお風呂入りましょ」
お風呂。
――なんて誘われて背中を流し合ったが、そのつど美憐は劣等感に襲われたものだ。
姉は透き通るような肌を持ち、髪の毛も流れるような艶やかな黒を誇る。吹き出物とは無縁だろうなとしみじみ思う顔立ちはきめが細かく、すっぴんなのに輝いて見える。
「お姉ちゃんの肌って、綺麗だね」
「そう? 美憐ちゃんも綺麗よ。ほら、こことか、この辺りとか」
「あっ、もう、勝手に変なトコ触らないでよぉ」
「こちょこちょ」
「あははくすぐったい! くすぐったいから! ああもう駄目だってば!」
完全に遊ばれている。
姉は体重が軽いのに輪郭はグラマラスで、大いに矛盾していると言わざるを得ない。どちらかと言えば安産型で小ぶりな胸の美憐に勝てる要素は一つもなく、姉の黒目がちな双眸と鉢合わせるたびにこっちが赤くなって、女どうしなのに目を背けてしまう。
跳ね上がる心拍数を悟られないよう、並んで浸かる浴槽で、必死に距離をとった。
「えっと……やっぱりお姉ちゃんも、一人で炊事とかしてたの?」
「そうね。お母さんも仕事命で留守がちだったから」
姉ははにかんだように苦笑しながら、短く告げた。
不思議な過去を持って居そうだと直感したが、バツイチの子持ちという環境は複雑で、気安く触れて良いものではないだろうと思いとどまった。
「美憐ちゃんの赤毛って、染めているの?」
今度は逆に質問される。
「ううん、元からこんな色。お父さんが南国生まれだから、そっちの血が入ってるのかも。友達は『染める手間が省けるね』って言うけど、あたしは純粋な黒髪に憧れるなぁ」
「お互いにないものねだり、なのね」
そう言って姉がくすくす笑う。
話し相手が出来た。風呂場で何時間もおしゃべりするなんて初めてだった。
食事もいつしか、寂しいものではなくなっていた。
それらの事実が、美憐をますます姉好きに駆り立てた。
「美憐ちゃんによく似合っているわ」
「え、何が?」
「赤い髪」髪を撫でてくれる姉。「きっと、赤は美憐ちゃんのパーソナルカラーなのね」
「パーソナル……カラー?」
「その人を最も引き立てるカラーリングのことよ。イメージカラー、と言えば判りやすいかしら。アパレル業界やカラーコンサルティングで多用される『色彩用語』ね」
急に話が飛んだので混乱したが、ファッションやコーディネイトに関しては、人並みの女子として興味がないこともない。
「この家も、もっと赤を取り込んでみたらどうかしら? 自室の壁紙は何色なの?」
「え……普通の白だけど。リビングや茶の間は茶色だわ」
「極めて無難ね。茶はウッディで温かみのある色だから、インテリアで使われやすいわ。照明をもっと明るいものに変えれば、寂しさを感じない心理的安らぎを増幅できるわ」
「え? え?」
「そして個室。白が基調なら、ますます赤が映えるわ。白い背景に赤い家具の構成は、アクセントの相乗効果を生み出して目が冴えるのよ。女の子らしくもなるわ。絨毯やカーテン、ベッドのシーツを変えてみるだけでも華やかになると思うし――」
どうやら姉は、色彩感覚に一家言を持っているようだった。
ハイセンスというわけではないが、ちょっとした一言で間取りを変えたり、小物をさり気なく配置したりすることで、見違えるほど和やかな屋内が形成されたのは目を見張った。
実際、美憐一人でやりくりしていた頃は、暗かった。
家相なんて気にしたこともなかったし、どうせ一人で過ごすのだから、他人の目も気にしたことがない。
寝室だって同様だ。置かれた家具はモノクロで、無骨な男子部屋に近かった。唯一、衣服だけはそれなりにこだわっていたが、そこへ姉から新風を吹き込まれた格好だった。
これで変わらないはずがない。
「生活空間は、そこに暮らす人の精神状態にも、多大な影響をもたらすの」可愛らしく指を立てる姉。「こんな事例があるわ……壁紙を青で統一された家屋では、しょっちゅう住人が寒がっていたの。どんなに暖房を焚いても駄目。隙間風かと思って改築しても効果なし……そこで別の建築デザイナーに相談したら、提案された解決策は意外にも、壁紙を明るい暖色系に張り替えることだったの」
「青は寒色系だから?」
「そうなのよ」ころころと鈴を転がすように笑う姉。「温かみのある暖色系のインテリアに替えた途端、住人の寒がりはパッタリと途絶えたの。暮らしの空間で、普段どんな色と接しているかによって、人は体質や性格、果ては身体能力まで左右されることがあるという好例よ――」
*
――そのとき、美憐は目覚まし時計にどやされた。
夢、か。
まぶたを全開させると、見慣れた寝室の天井が映る。
赤と白のインテリア。
白と黒の殺風景だった頃よりは、だいぶ女の子らしくなった個人空間で、美憐は赤い枕カバーから頭を持ち上げた。
パジャマも赤いチェック柄である。
不思議ともう、眠くはなかった。赤は目を冴えさせる興奮作用がある。美憐が姉と同居を始めて以来、寝覚めが悪かったことは一度もなかった。
それなのに――。
「お姉ちゃん……」
在りし日の思い出。
孤独な日常を埋め合わせてくれた、知性あふれる絶世の美女。
「なんで今頃、こんな夢を……」
自慢の赤毛を掻き回しながら、美憐はもそもそとベッドから這い出た。
部屋を出て、スリッパを履く。これも赤くてファンシーだ。赤は現在、彼女のパーソナルカラーとして定着していたし、ともすれば沈みがちな暗い表情を和らげ、明るく勝ち気な性格へと押し上げてくれるようになった。
「昨日、あんなことがあったせいかな……」
未だに詳しく思い出せない、阿保渡のマンション。
どうやって帰って来た?
最後に現れた優男は、誰だ?
――いや、そもそも阿保渡のマンションなんて、どこにあったっけ?
薄れている。
記憶が曖昧になっている。
あの男の眼光を浴びた瞬間から。
「あれも光を操る『色彩術』の精神効果……なのかな」
階段をとぼとぼ危なっかしく降りてから、美憐は上の空で身支度を整えた。
謎の眼光が、今も目に焼き付いている。おかげで優男の顔も思い出せない。
何かを施されたのだ。
怪しげな
部外者の美憐を帰すために。
「あのアホ……どうしてくれるのよ」
阿保をアホと呼ぶことに、もはや罪悪感はなくなっていた。
ましてや本人の居ない所では、何と呼ぼうが聞き咎められる恐れはないので、当たり前のようにアホアホ罵っている。
「いきなり自宅に強制送還してくれちゃって……おかげで今さら、お姉ちゃんの夢なんか見ちゃったじゃないの」
憤懣やるかたない面相が、洗面所の鏡に映る。
寝癖を掻き乱しながら、歯ブラシを手に取った。
歯ブラシも赤い。パジャマの襟元が乱れており、赤いブラ紐が垣間見える。洗面を終えて着替える際も、タンスから取り出したのは赤い下着だった。やや薄めの赤で、材質も木綿ではなくレースという違いがあり、赤なりにバリエーションが豊かである。
「あいつにはあいつの事情があるのかも知れないけど、約束した報復は遂行してくれるんでしょうね……?」
ぶつぶつと鏡へ呟く。
他人の都合など関係ない。美憐は美憐の目的を達するまでだ。
学生服に着替えた美憐は鏡の前で一回転し、最後に軽く一筋、くちびるに紅を引いた。
赤い。
毎日欠かさない化粧の一つだった。
姉が言っていた通り、赤は闘志と決意を湧き上がらせる。
美憐が報復をやめる選択肢は決して、ない――。
*
――それなのに。
「阿保は欠席か、珍しいな」
担任の三輪一元美術教師が、出席の点呼を取りながらボヤいている。
(休み? アホくんが……?)
美憐は同級の末席から、ぽっかり空いた渡の席を凝視した。阿保渡は出席番号順でも先頭に当たるため、そういう意味でも「出端を挫かれた」感は否めない。
三輪一元は気を取り直し、点呼を続けたが、美憐はよもやの出来事に忘我し、自分の名が呼ばれてもしばらく気付かなかった。隣席のクラスメイトに肩を突付かれて、ようやく上ずった間抜けな返事を叫ぶ始末。
恥ずかしい。
顔が火照る。
頬が熱い。
これまでも何度か阿保渡に辱めを受けて赤面したが、今回の不在が一番、最も彼女を紅潮させた。しかも今までとは一線を画した感情でだ。
(欠席? あのアホが? これから報復の続きを始めるってときに?)
理解が追い付かなかった。
何しろ昨日の今日のである。
(どうなってるのよ! あたしには、あいつが必要なのに……!)
せっかく報復の約束を取り付けたのに、予想だにしない実行者の欠席。
のみならず、他でもない渡当人が「約束を守る」とマンションの一室で契りを交わした矢先ではなかったか。
それがどうして、さっそく学校を休んだのか。
はなはだ合点が行かなかった。
(先生の驚き方からして、事前連絡すら学校に届いてないっぽいわね……)
きちんとした理由があるなら、欠席の旨を学校に電話するはずだ。
なのに、それすらない。
突如として暗雲が立ち込めた気がして、美憐は日がな一日、やるせなく爪を噛んで過ごす羽目になった。
教室の窓から窺い知れる青空も、いつしか雲の占める割合が増大していた。
昼休みや放課後などに職員室へ赴き、三輪先生やその他職員に尋ねてみる。
「アホ……じゃなかった阿保くんからの連絡はありましたか?」
「まだない。こっちも心配して電話しては居るんだが、誰も出なくてなぁ」
三輪の表情も優れない。
「今まで、こんなことってありましたっけ?」
「いや、阿保は無遅刻無欠席の皆勤賞だったぞ。性格も真面目だし、無断でバックレるような生徒じゃなかったんだがなぁ」
「そうですか……」
――あの優男と何かがあったのだ。
美憐は居ても立っても居られなくなる。
「ま、とはいえ美術部はしょっちゅうサボっていたから、一概には言えないけどな。兆候はあったのかも知れん」
そこまでは誰も聞いてない。
余計な一言をボヤく担任の語尾など聞き流して、美憐はお辞儀して退室を試みた。
去り際に三輪が「ところで増場、お前が阿保のことを尋ねるなんて珍しいなぁ。仲良しなのか?」などとまたもや要らん一言を放ったため、美憐は頬が上気する。
余計なお世話だ、と心の中で先生をなじった。
先生にしてみれば何の気ない質問だったかも知れないが、美憐にとってはこれ以上ない赤面ものの発言なのだ。
(あ、あたしはただ、約束を守らないアホが気に障っただけなんだからねっ!)
気持ちの揺らぎを必死にこらえる。
ちょっと渡の存在を認めただけで、決して好意なんかじゃない、はずだ。
――と、心の中で思っていても埒は明かないが。
まるで自分に言い訳しているかのようで、それがますます美憐を火照らせた。
赤毛から湯気を吹き上げる勢いで紅顔しつつ、教室へ戻る。物凄い勢いで帰りの支度を整えてから踵を返した。
たまたま残っていた級友や、すれ違った知人たちが、そんな美憐に口笛を鳴らす。
「美憐てさ、阿保くんと仲が良いよね」
「えっ」
「昼休みとか、阿保くんと二人で教室から居なくなるじゃない? 一緒にご飯食べたりしてるわけ? どこへシケ込んでるのかってみんな話してるわよ」
「ええええっ!」
顔面が爆発しそうになった。
そんな。
そんなアホな。
確かに美憐はここ数日、阿保渡の不思議な
(ろくに話したことのなかった男子と交流しただけで、物珍しがられて噂が流れる……そりゃあ、本当に嫌いな奴とは一緒に行動しないけどさ……)
端から見たら、男女が急接近したと勘違いされても仕方のない状況だ。
そうでなくとも高校生、浮いた話には敏感に騒ぎたくなる年頃だ。ましてや、女子ならなおのこと。
(そもそも、あいつはお姉ちゃんが好きなのよ……あたしになんか見向きもしないわ)
「えっと、あのね、あいつはほら、一応美術部だし、あたしのお姉ちゃんも――」
と、言いかけた所で思いとどまる。
咄嗟に口を塞いで、危うく自爆を回避できた。
姉のことはタブーである。自殺の話に触れてはいけない。姉の自殺と美術部パニックはワンセットで扱われている「腫れ物」なのだ。
高校は今、非常に神経質になっている。全校生徒が熟知しているし、昨日は再び警察が来訪して強制下校と相成ったほどだ。
さすがに何度も休校にするのは学校側も気が引けたのか、今日は平常通りに授業をしたが、日中はずっと警察が現場検証していたし、ただならぬ匂いを嗅ぎ付けたマスコミのハイエナ連中が、校門前で生徒らにインタビューしたり、ワイドショーの中継をしたりと、うざったい喧騒を振りまいてやまない。
「と、とにかく、いろいろあるのよ。色々」
「あー……そうなんだ」
級友たちも察したらしい。
美憐が「姉」や「美術部」関連で最もとばっちりを食った身内であることは周知の事実だったから、潮が引くように会話を打ち切ってくれたのは、さすがクラスメイトと言った所か。感謝せねばなるまい。
「そうよ。ちょっと約束があるだけ。それが終われば、あいつに未練はないんだからね!」
自分でも誰に吐いているのか判然としない愚痴を呟きつつ、教室を去る。
本音は未練たらたらで、照れ隠しや強がりにしか聞こえないのがますます恥ずかしい。
(確かにあいつ、見た目の良さはお姉ちゃんも絶賛してたけど……)
渡のご尊顔が、脳裏に浮上する。
無愛想な仏頂面だが、どこか気品のある孤高な佇まい。つっけんどんで冷淡な物言いは人を寄せ付けないが、翻せばそれだけ落ち着いた客観的な思考の持ち主でもある。
明敏かつ底の知れない英才なのは間違いない。
(目立たないネクラ野郎かと思ってたけど、ウチの女子どもも注目してたのね)
本当に垢抜けない不細工ならば、女子の噂には上らない。
密かに阿保渡の隠れファンとか居るのかも知れない……って、ああもうどうしてこんなにあいつのことばかり考えてるのよ、と美憐は泥沼に嵌まった遭難者のごとく、手足をじたばたと悶絶させた。誰も居ない放課後の廊下で助かった。
(とっとにかく、アホくんが居ないのは残念だけど――)
目指すは一路、三年生の教室である。
(――せめてあたし一人だけでも、計画実行に向けて元副部長の動向を把握しなくちゃ)
来たるべき報復のために。
(馬里月乃――お姉ちゃんのイジメを古都歩に持ちかけた発案者――へ天誅を下すのよ!)
かつて渡も驚いていたが、こうして美憐が地道に諜報活動することで、標的の身辺情報を洗い出していたのである。
あいにく渡は不在だが、ならば一層、今後の成功率を上げるためにも、馬里月乃の生活パターンを追わないといけない。
が――。
「馬里? あいつは今日来てないぜ」
「え……」
残っていた三年生が、教えてくれた。
これもまた巧妙に、美憐のあてを外してくれた。
「昨日、警察が来てたろ? 馬里の親友が自習室から転落した事故でさ。今日は付きっ切りで病院に看病しに行ってるんだと」
「そう……なんですか」
看病。
美憐はしょぼくれた。
考えてみれば、充分にあり得る話だ。馬里月乃が調査通り古都歩に思慕する百合っ子ならば、想い人の怪我を放っておくわけがない。一日くらい学校を休み、見舞いに通い詰めても不思議はない。
およそ勉学に忙しい受験生とは程遠い行動だが、心情的には理解できなくもない。
(だからアホくんも来なかったのかな? 標的が居なきゃ意味ないもんね……もしかしたら、病院で馬里を毒牙にかけてるのかも)
都合の良い希望的観測を思い描くが、そんなうまい話はそうそうない。
自分でも冗談半分で打ち消しながら三年生のクラスを後にすると、後ろから「また馬里のファンか」だの「同性から人気あるんだよなー馬里って。レズって奴? 類は友を呼ぶのかねぇ」だのと噂されていて気分が悪い。
(あたしが馬里のファン? そうじゃないわよ! レズでもないし。どいつもこいつも、勝手に色恋沙汰にしないでくれる……?)
美憐は純粋な怒りが先に立った。
憤怒で顔が熱くなる。
渡と違って、馬里月乃は『姉の仇敵』だ。憎んでも憎み切れない抹殺対象であり、どう転んでも好意など抱きようがない。
ましてや、そんな不倶戴天の敵に気を揉んで訪ねるほど、美憐は尻軽でもないし無節操でもない。というか初恋もろくにしたことがない……ってこれもまた誰に言い訳しているんだと美憐は自己嫌悪に陥った。
(何なのよ一体……今日は調子が狂うわね……本当に……)
とんだ肩透かしを食らった体裁で、美憐は家路に着いた。
やることがないのだから仕方がない。報復は思わぬ所で座礁した。まだ中断しただけであって、完全な中止ではないものの、水を差されたのは間違いなかった。
(それもこれも、アホくんのせいだわ)
イライラが募る。
茜色の通学路を下校しながら、拳を何度も握り締めた。
「もう、どこに行ったのよあのアホ! 昨日、あいつに何があったって言うの――」
「呼んだか?」
「――よ?」
曲がり角から、見知った影法師が伸びた。
美憐が咄嗟に目線を引き上げると、そこには見慣れた長身の細面が立っている。待ち焦がれた男子生徒に邂逅して、美憐は我知らず満面の笑みを浮かべていた。
しかし、すぐにそんな己の表情を自覚して、むすっと膨れっ面を演じてごまかす。
尤も、バレバレの演技だったとは思えども――。
「あなたねぇ! なんで今日、欠席してたの!」
「ああ……ちょっと、用事があってな」
言い繕う渡には、いつもの歯切れがなかった。
服装も、いつもの
確かに私服だが、どこか取り澄ましたような、カジュアルではあるがパッとしない、目立たない外見を心がけていた。
「用事って、何よ?」
美憐はことさら問い詰めた。
容赦なく渡へにじり寄る。それはもう通学路の塀でぴったりと密着する体勢で、見知らぬ通行人に口笛で冷やかされ、美憐は即座に飛びのいた。
顔が溶けそうなほど熱い。
でも、構ってなんか居られない。
美憐はせいぜい肩を怒らせた。
「あたしとの約束をほったらかしてまで、優先しなきゃならない用事があったの?」
「そうだ」
「あっさり肯定されるとショックなんだけど……」
「仕方ないだろう。僕の家に監査役が来たせいで――」
「あっははーぁ! そーぉだねーぇ、昨日はお邪魔しちゃったかなーぁ?」
――居た。
そいつが、居た。
すぐ近くに居た。
曲がり角の向こう、美憐からは見えない死角に、ひっそりと潜んでいた。
物陰からひょい、と顔だけ覗かせて、嘲るようにそいつは立っている。
非現実的なメンズゴシックを着こなす、小柄な優男。
笑顔を絶やさない童顔で、愛嬌こそあるものの、その瞳は刺すように鋭い。外見とは裏腹に大人特有の気性と威厳を内包している危険人物。
「あ、あんたは昨日の!」
「おぉーっと、ごめんよお嬢さん。今日も元気に勝負パンツを穿いて来たかーぃ? パンチラに備えて恥ずかしくない柄を心がけるといいよー」
「アホ一族ってセクハラ野郎しか居ないの?」
「ははっ、怒った顔も可愛いなーぁ。渡くぅんも隅に置けないねーぇ」
「だからそういう仲じゃないと言っただろう」
「二人して怒るなよーぉ。いやー、実は昨日、どーぉしても外せない急用があってね、君を眠らせて、家まで送らせて貰ったのさぁ」
――眠らせた?
ひょうきんな間延びした語り口だが、さらりととんでもない説明をされた。
あの強烈な視線で?
やはり『色彩術』による精神作用なのか。
――だとしても、美憐の自宅をどうやって知ったのだろう?
どのように家まで送り届けたのか、気色悪くて虫唾が走る。
「何よ、アホ一族のお家騒動で手が離せないってこと?」
「察しがいーぃねーぇ。なでなでしてあげよぉーか」
「結構です!」
細腕を伸ばした監査役から逃げるように、美憐は渡の背中へ隠れた。
「僕を盾にするな」
「何もないよりは益しでしょ!」
「そういう問題じゃなくてだな……」
「いいから早く説明してよ! 用事って何よ? あたしの約束はいつ果たすの?」
「それが……しばらくは無理だ」
「は?」
渡が実に素っ気なく断定したので、美憐は耳を疑った。
聞き間違いではないかと思い、耳の穴に小指を突っ込んで掃除なんぞをしてみるが、内容は一向に変わらない。
「聞いての通りさーぁ」
監査役が進み出る。
ますます美憐は渡の背後に顔を引っ込めた。
男のくせに美憐といくばくも変わらない目の高さで、その監査役は飄々と語る。
「阿保家は今、厄介なトラブルに瀕しているのさーぁ。それも渡くぅんに関わりのある、将来的な大問題でねーぇ」
「……一族から抜けるって話?」眉をひそめる美憐。「それならとっくに話が付いたんじゃなかったの?」
「ところが、そうも行かないのさーぁ」
優男はニコニコ顔のまま語気を荒げた。
表情と声の落差が激しい。体のあちこちに取り付けた十字架のアクセサリと、裾や袖口にフリルをあしらった真っ黒なメンズゴシックが、どうも彼の印象を
引き継ぐように続きを述べたのは、渡だった。
「僕は気にしていなかったが、許婚の消息が見付かったらしいんだ」
「え!」
渡が肩を落とす。のみならず、観念したように溜息を吐いた。
許婚。
渡の従姉。
阿保一族の『色彩術師』という優秀な遺伝子を残すための、長きに渡る悪しき因習であり、しきたりであり、ならわしであり、掟――。
「ふ、ふーん……なるほど、あなたには一大事かもね」
美憐は虚勢を張った。
しかし、渡には見え見えだっただろう。優男も全てを見透かすような眼光をたぎらせ、美憐の反応を観察している。
「で、アホくんはそっち最優先ってわけ? 今さら? 未練たらたらに? アホなの?」
「とっくに破談した話ではあるが、やはり発見された以上は気になるんだ。あと、アホと阿保は字が違うぞ」
「あたしの約束はどうなるの!」
「報復はいったん見送ろう。どのみち学校はしばらく騒がしくなる。少し間を置き、ほとぼりが冷めた頃に実行するのが最良だ」
「けど、あたしは――」
「馬里月乃を襲撃する手立ては、すでに考えてある。あとは時機を待つだけだ」
「……本当に?」
「ああ。何なら作戦と段取りくらいは教えてやる。直接会うことは難しいが、電話やメールで打ち合わせは出来るからな。ただし、くれぐれも一人で先走るなよ?」
「え、ちょっと待ってよ。本当にしばらく登校しないの? あたしを放置するつもり?」
「済まない」美憐から離れる渡。「馬里を罠に嵌める色彩理論は確立しているから、日程に余裕が出来次第、遂行しよう。ただし僕が居ないうちは駄目だ。絶対に駄目だからな?」
「何よそれ――」
「用件はそれだけだ。じゃあな」
「さーぁ、行こっかー」
渡は監査役に背中を押され、路地裏へ消えて行った。
夕闇に溶けて消えるかのような、まさに色のイリュージョンを見せられたような喪失。
「何なのよ一体……あたしを一人にする気? こんな唐突に? 勝手すぎない? お姉ちゃんもアホくんも……みんな、あたしを置いて遠くへ行っちゃうの? 冗談でしょ!」
美憐は未練がましく、途方に暮れるしかなかった。
(ふんだ……あたし一人でやってやるわよ。方法さえ聞き出せば、こっちのもんよ――)
*
――数日後、午後八時。
それは、馬里月乃にとって生死を左右する時刻となった。
月乃は高三、一八歳である。取りたての運転免許証を携帯しつつ、親から借りたファミリーカーを駆って、市内の総合病院を訪れていた。
理由は言わずもがな、入院中の古都歩に面会するためだ。
高三の受験シーズンだというのに、学校を休んでまでお見舞いに明け暮れた月乃は、面会終了時間まできっちり居座った。それでも名残り惜しそうに、しぶしぶ病院を去る。
夜空は、月明かりが眩しい。
あいにく星明かりまでは見えない。都心は大気が汚れている。
月だけが煌びやかだ。月だけが健在だ。
(まるで、あたいのようだね)
月乃だけに。
なーんてね、と月乃はほぞを噛む。
皮肉りたくもなる。美術部員で健在なのは、もはや月乃だけなのだ。夜空に唯一浮かぶ、今宵の月のように。
やる瀬なく車に乗って、エンジンをかける。
正面に見据えた車窓は、心なしか曇って見えた。
(ん? 気のせいかな、フロントガラスが暗く感じる……月光も急に翳ったような?)
月乃はゆっくりと駐車場を発進しながら、車道に繰り出した。
必ずまた明日来るからな、と心の中で古都歩に誓う。
五分後、永遠に叶わなくなるとも知らずに――。
(何だろ、目が疲れる……目がチカチカする……視界がぐらつく……頭が回る……)
みるみるうちに、月乃の容体に変化が現れた。
体調が優れない。悪化している。吐き気まで催す。視野がぼやけ、やけにチラつく。対向車のヘッドライトが妙に眩しい。車の安全講習で教わった気がする。確か、グレア――。
光だけが、やたら網膜を刺激する――。
「わああああっ!」
――我に帰ると、目前にガードレールが迫っていた。
車体が全速力で突っ込む。
車道を飛び出し、横転して、火花を散らしてもんどり打って、病院の外壁に激突する。
そして……炎上した。
*
「計画通り」
夜にまぎれて姿が見えない、増場美憐の声だけが染み渡った。
どんな
*
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