Bパート 美(B)術に対する未練と美憐

B‐1.素姓

   B‐1.素姓


 日が沈んだ。

 家路に着く阿保渡が案内してくれたのは、彼自身の住まいだった。

 高層住宅、マンションの一室。

 それもやたら高価な、一〇階建ての最上階に構えた3LDKの間取りは、彼が一人で暮らすには広すぎる上に、家族が同居している痕跡も皆無だった。

 ――『阿保』の表札はあれども、玄関には彼以外の靴がない。

 室内は暗く、人の気配が全くしない。


「僕の家へようこそ」

「え、中に入れってこと?」

「話を聞きたいんだろう?」

「そうだけど……」


 初めて訪れる異性の家屋、しかも他に誰も居ない、という状況は、美憐を警戒させた。

 何しろ、得体の知れない男の一人暮らしである。ほいほい着いて来た美憐も軽率だったが、まさかこんな家庭環境に身を置いていたなんて思いもしない。

 渡本人が使っている寝室以外、家具一つありやしない。


「えーと、ご家族は?」


 思わず口をついて出る。

 奇妙な『幻術』イリュージョンを操る阿保家の両親がどんな御仁なのか、美憐個人としても興味が湧くのは不思議なことではない。しかしこの閑散とした全景を見るにつけ、期待した結果は得られそうになかった。


「見て判らないか? 別居中だ」


 渡は無感情に言い捨てる。

 別居。

 親が、子を置いて?

 仕事の都合か何かだろうか。

 彼の生い立ちからして一筋縄では行かなさそうで、美憐はどっと疲労感を覚えた。


「僕は、一族から出奔したからな」

「一族ぅ? 出奔……?」


 これまた時代錯誤な単語が出て来たなぁ、と美憐は眉をひそめる。

 およそ現代に似つかわしくない言葉の羅列ではないか。美憐はますます奇怪な気持ちに囚われて、それ以上立ち入るのをためらってしまった。

 玄関を上がった地点、廊下から見渡せる各部屋に視線を泳がせ、立ち往生する。


「父も母も、海外で活動している。父は色彩感覚を機能美に活用した工業デザイナー、母は世界を股にかけた画商だ。本来なら、僕も親と一緒に海外へ引っ越すはずだった」

「アカデミックな職業ね……やっぱりそれも『色彩術』の能力なのね」

「僕はそれに嫌気が差したのさ」


 話がさっぱり見えて来ない。

 一向に上がろうとしない美憐を見かねたのか、渡もまた廊下の末端で立ち尽くした。その先には台所が垣間見える。必要最低限の炊事用具は揃っているように見受けられたが、冷蔵庫は小さく、テーブルはなく、戸棚にしまわれた皿の数も圧倒的に少ない。

 飲み物くらい出すぞ、と言わんばかりに渡は冷蔵庫へ手をかけたが、正直何をもてなされるのか判ったものではないので、美憐は首を振って動こうとはしなかった。一応の遠慮も兼ねている。


「いいから、さっさと『幻術』イリュージョンについて教えなさいよ」


 要点だけ聞いて早急に帰宅したかった。

 阿保渡という人物に興味が湧いたのは事実だが、一転して警報が頭の中に鳴り響いている。まさか一人暮らしだとは思いもしなかったし、どうにも背中が薄ら寒い。


「イリュージョン……『色彩術』について、か」


 それもそうだな、と渡も思い直してくれた。

 もてなす必要などない、と察してくれたのか、身を翻すように台所を抜け、仕切りのないぶち抜きのリビングを経て寝室のドアノブに手を伸ばす。

 中から座椅子を二つ運んで来て、片方を美憐へ転がして来た。キャスター付きの座椅子は、ちょうど良い力加減で美憐の手前に停止する。

 座れ、ということらしい。

 そもそも、寝室から持って来ないとリビングに家具が一切ない、という状況が美憐には信じられない。ワンルームのアパートでいいじゃん。

 恐る恐る腰かけながら、美憐は改めて渡と向かい合う。彼もまた、似たような座椅子に浅く腰を下ろしていた。


「色彩術って、何なのよ」

「それは何度も言っただろう? 絶世の魔法だ。色の幻覚作用イリュージョンさ! 凡人には決して真似できない、色と光に特化した超常現象だよ」


 イリュージョンには二つの意味がある。

 手品。

 不可思議な幻術。

 人為的に可能な仕掛けは『手品』と呼ばれるが、物理的にあり得ない超常的な罠は『幻術』と恐れられ、古来より忌避されて来た。

 常識を持った人間ならば、普通は前者の意味で捉えるだろう。魔法だの幻術だの、この世に存在するわけがないからだ。

 でも――違った。

 存在した。


「その才能を色彩学に特化させたものが『色彩術』であり、その使い手は『光源の調整士コーディネイター』と尊称される。阿保家の一族は代々、常人にはない色彩感覚と審美眼を切磋琢磨するうち、色と光を思うがままに具象できるようになった」

「は、はぁ……」


 美憐は生返事を寄越すしかない。

 言うに事欠いて『幻術』イリュージョンである。どんなに事象を目の当たりにしても、言葉に直すと未だに実感が湧かない。


「現実問題として、色彩学はやっかいでね。現代物理学でさえ、光は未だに謎が多い。同様に、光から生じる色彩もそうだ。どんなに理論的に立証されても、物理的制約が邪魔して実践できない技法も多い……けれど『色彩術』なら、話は別だ」


 語気を強めて言い放つ。

 美憐は弾かれたように背筋を伸ばした。


「この『色彩術』で光の波長を操作すれば、物理法則に制約されることなく、技術者の考えた通りに色彩原理を顕現できる。色と光を自在に可変できるんだ」

「ち、ちょっと待ってよ!」


 耐えきれなくなった美憐が、制するように諸手を上げた。


「何だ、これから盛り上がるのに」

「いきなり口頭でそんな説明をされても、そりゃ戸惑うってば! あたしは右も左も判らない一般人なんだからね!」

「まだ序の口だぞ。具体的な詳報はこれから話すんだから、黙って聞け」

「えー……でも……うーん……」


 美憐は不審を禁じ得ない。


「思いっきり疑いの目で睨んでいるな」

「え、いや、決シテソンナコトハ」

「台詞が棒読みだぞ」苦笑する色彩術師。「お前は赤い色彩心理のせいで、すぐ感情的になって理性を失う傾向があるな。なるほど、今日は赤いレースのパンツか」

「ぇふっ……ど、どこ見てるのよ!」


 椅子に座った美憐のスカートから、中身が見えていたようだ。

 実際、椅子に座した両足はガードがゆるく開かれており、正対する渡へ大サービスをしていたことに今さら気付いた。

 以前も、スカートを堂々とめくられて、パンツを凝視されたことを思い出す。


「こ、こんなときまで色彩心理の分析とかしなくていいから!」

「お前には、精神が安らぐ緑やベージュ系の下着を薦めよう。何なら僕が見立ててやってもいいぞ? お前はどうもカッとなりすぎる。情熱の赤を多用しすぎだ。地味めの下着は落ち着くぞ」

「状況が状況ならセクハラ裁判で絶対勝てるわよね……」


 美憐は肩を落とした。しかも渡と来たら「~しよう」とか「~してやる」と言った、いかにも恩着せがましい論調で迫って来る点も癪に触る。

 全ては渡の計算なのだろう。美憐の反応を試しているのだ。


「やれやれ、融通が利かない女だ……仕方ない。半信半疑で頭が固いロートルな自称一般人にも判りやすいよう、実例を挙げて話すことにするか」

「言葉の端々に嫌味を感じるけど、それでお願いするわ」

「じゃあ、まずは一つ目だ」


 渡は指を立てて、具体例を言及した。

 二つ三つ、世界的にも認知度が高い偉人たちの名を挙げる。


「洋の東西を問わず、著名な画家は『色彩術』に開眼した『光源の調整士コーディネイター』だった」指折り数える渡。「ダ・ヴィンチ、北斎ほくさい、ゴッホ、ピカソ……例えばピカソの『抽象画キュビズム』は、被写体の死角も絵に残そうとした術式だ。三次元の造形を全て二次元に押し込めようとした『時空の歪み』が、ああいうデタラメな絵として顕現した」

「あっ、それは美術の概念として聞いたことがあるわ」

「素人にはただの変な絵にしか見えないが、どっこい『色彩術』では限りなく精密な構成であり、抽象画どころか『写実的リアリズム』なのさ」

「ひょっとして、ピカソは本当に『時空の歪み』を発生させて、それを写生した?」

「正解だ」

「正解しちゃった……」


 にわかには信じられない。


「ピカソは『色彩術』で光の角度を操り、平面世界では絶対に見えない『死角』さえも、忠実に写生してみせたんだ」

「あっそう……」

「かの『騙し絵』トロンプ・ルイユの大家だったエッシャーも、光の反射と屈折を歪曲させることで具現化させた『色彩術師』だったと言われている」


 エッシャーは、階段を登っているはずがいつの間にか下っているという不思議な作画をしたり、下流へ落下している滝の水が、なぜか上流の湖に流れ込んだりする珍妙な絵画を多数残した。あのような奇抜な情景は、現実では絶対に存在し得ない。


「けど、アホくん」

「アホと阿保は字が違う」

「えーと、阿保くん……あなたはどうして、そんな素晴らしい『幻術』イリュージョンを持ちながら、世間から隠そうとするの? まるで、人目に触れるのを恐れてるみたい」

「隠しちゃいないさ。単に世間が理解できないだけだ」

「え?」

「歴代の画家だって、情報を山ほど公開しているだろう? 作品ごとの技術論や題材、果ては創作過程の内容まで懇切丁寧に解説している。ただし、一般人には理解できなかっただけだ。何しろ『幻術』イリュージョンだからな」

「あぁ……」

「ピカソも、ゴッホも、バロック芸術も、当初はさんざん酷評された。理由は簡単だ、普通の人間には意味不明なんだよ」

「そっか……それで……」

「後世になって、同じような『色彩術』の使い手が少しずつ見識を広めたおかげで、世間もようやく評価するようになった」

「一般人は『色彩術』そのものは理解できないけど、方法論としてなら把握できるようになったのね」

「真に共感できるのは『色彩術師』だけだ。その中でも、開眼を自覚している人と無自覚な人とに分かれるから、なおのこと理解者は限定される」

「術の修得って、やっぱり色彩関連の仕事に携わるほど目覚めやすいの?」

「まぁな。だが『色彩術』に頼りすぎると、逆に心を病んでしまう危険もある」

「心を?」

「優れた芸術家ほど苦悩し、精神を蝕むことが多い……代表格は、やはりゴッホだな。ゴッホは誰にも作品を理解されず、売れた絵はほんの数える程度だった。ついには発狂寸前に陥って耳を切断したり、自殺未遂を繰り返したりなど、悲壮な晩生だった」

「色が……人を狂わせたの?」

「色彩心理学を知っていれば当然の帰結だ」


 渡は苦虫を噛み潰すように吐き捨てた。

 色は、人間の脳に絶大な影響を与える。赤を見れば興奮するし、青を見れば冷える。さらに複数の色を組み合わせれば、複合的な心理煽動を引き出すことさえ可能になる。

 術に踊らされ、色を酷使した弊害が、己の身に跳ね返って来る。

 心を病み、色を調整できなくなる――。


「ふーん。だから術師どうしで寄り添って、傷を舐め合うのね。あなたは知恵お姉ちゃんの苦悩を知ったから、目をかけようとした……?」

「あの人は、似ているんだ」

「似てる?」目を見開く美憐。「って誰に?」

「僕の、昔の許婚だ」

「いいなずけぇ~?」


 素っ頓狂に叫んでしまった。

 殺風景なリビングの壁に、わんわんと声が反響する。やがてその耳鳴りも消えうせた頃、ようやく渡が仕切り直すように溜息をついて、そうだよ許婚だよと述懐を始めた。


「阿保家は代々、一族内で『色彩術師』の血筋と純度を保って来た。日本の著名な画家や芸術家は、実は阿保家の血族も数多い」

「えっ、全然知らなかった」

「一族の子は、生まれながらに結婚相手が定められ、血統を維持することが優先される」

「……そりゃまた古色蒼然としてるわね……ならわしとか、しきたりって奴?」

「ああ。要するに親類縁者の近親婚だ」

「わ、禁断の愛?」


 美憐は頬を赤らめて言い返す。

 確かに体質は遺伝するかも知れないが、美憐にはよく判らない感覚だった。


「一応、法律は守っている」肩をすくめる渡。「イトコやハトコの合法的な血縁者から、有能な色彩術師を集めて近親婚を繰り返す……現代では人工授精だの遺伝子操作だの、過程にも手が入りまくっているようだ」

「遺伝子操作ぁ~?」


 キナ臭い話になって来た。


「僕の許婚は、従姉いとこだった。だが、身内の生殖はどうしても劣性遺伝の危険が伴う。ペットショップのブリーダーも、血統書付きの生殖は純血種どうしの近親配合になるから、常に奇形児が付きまとうと言うしな」

「……だからそういう言い方しないでってば」

「ある日、従姉は不適格の烙印を押された」拳を握り締める渡。「まだ小学生くらいの頃だった。遺伝体質的に『色彩術』の顕現が遅れていて、身体の負担も大きいと判断された」

「不適格……って、どうなっちゃうの」

「一族から除籍され、里子に出されてそれっきりだ」


 音沙汰はない、とだけ告げて、渡は歯を食いしばった。

 一族の掟。

 狂信的な選別。

 彼は、能力や適正の有無で軽々しく身内を切り捨てる一族に、抗っている。


「その子の行方、調べようとは思わないの?」

「大体の想像は付くが、調べる気にはならない。幼少期に見放されたんだ、ろくに『術』の調整も出来ず、力に関する記憶も封じられた脳への負荷で、歴代の画家のように精神を害してくたばるだろう。そんな醜い末路、知りたくもない」

「…………」


 美憐は何も言えなくなった。

 言えるわけがない。

 渡は大きく息を吐いてから、最後にとどめの結末を打ち明けた。


「だから、知恵さんには驚いた」

「……その人に似てたの?」

「面影が、あったんだ」儚く笑う渡。「加えて『色彩術』も知っていた。あの人は養女だったんだろう? もしかしたら、阿保家から巡り巡って……と思ったりもした。名前も確か、似たような響きだった気がする……幼少のみぎりに別れたからうろ覚えだが」

「名前も? 偶然じゃない?」

「無論、単なる同名の可能性は高いが……それでも僕は信じたいんだ。すがりたいんだ」

「――それで、阿保家に反抗してるってわけ? こんなマンションで、ささやかに?」

「まぁな。一族に従う気は毛頭ないから、両親にも逆らって日本にとどまった」

「ふぅん……反抗期っていうか、信念を貫くっていうか……」


 是非はともかく、渡の内面を窺い知ることが出来て、美憐は彼に対する色眼鏡を外した。

 彼の真意は、美憐にとっても複雑だ。一族の因縁を象徴する従姉と、知恵との相似性を鑑みる限り、この阿保渡という男が一族に迎合することは永遠になさそうである。


「その代わり、本家から定期的に監査役が来るのが玉に瑕だがな」

「監査……役?」

「色彩術師は皆、阿保一族の管理対象だ。本気で縁を切るなら、その術式を誰にも漏洩しないよう見張られるし、再び一族に戻るとしても相応の便宜を図らねばならない」

「……どんだけ鉄の掟なのよ」


 一族の荒唐無稽なあり方に触れて、美憐は心底うざったそうに舌を巻いた。

 渡の両親はどう思っているのだろう。息子を一人置いて、海外で『色彩術』を活かした仕事に追われているそうだが、我が子の涙ぐましい反乱を認めているのだろうか。


「そこはもう、監査役との駆け引きだな」渡の溜息。「だが、高校を出るまでの辛抱さ。親はすでに放任主義だし、あとは僕が独立して姿をくらませば、一族も追跡できまい」

「世界中で活躍する阿保一族から逃げ切るつもり?」

「やってやるさ。逆に言えば、羽目を外せるのも今のうちだ」指を立てる渡。「お前が提案した知恵さんの敵討ちで、せいぜい有終の『美』を飾ろうじゃないか」


 美術部なだけに。

 なんてことを渡は告げて、勝手にほくそ笑んだ。

 それは自嘲を含んだ皮肉だったに違いない。美憐は彼の思想を完全に咀嚼しきれなかったものの、一人の人間を彩った舞台背景に感慨を覚える。

 ますます、知恵という姉の存在が不思議に思えた。

 増場知恵。

 母の連れ子。

 ――あの姉は、何者だったのだろう。

 神秘的な雰囲気、抱擁感、繊細で優しく、菩薩か聖母のような博愛主義を宿し、どんなにイジメられて虐げられても、抵抗せず自らの死を選んだ義理の姉――。


「お姉ちゃんが、あなたの許婚かどうかは別にして」椅子を立つ美憐。「……いつかまた再会できるといいわね。ふふっ」

「再会?」

「だから、その従姉によ」悪戯っぽく微笑む美憐。「その子が好きだったんでしょ? ガキの頃からマセてたのね。色の『幻術』イリュージョンに精通すると心が歪むってのは本当だわ」

「はぁ? 何をいきなり――」

「何しろそれを引きずって、こんな傍若無人でセクハラ三昧の男子高校生が育っちゃうんだもん、よっぽど入れ込んでないと出来ないわ――ってきゃああああっ!」


 うっとりと語りかける美憐の股ぐらに、渡が身を乗り出した。間近に迫る。

 美憐はそのまま制服のスカートをめくり上げられて、またもや中身をさらされてしまった。

 赤面と黄色い悲鳴。

 身の毛がよだつ思いで、美憐は反撃の肘鉄を食らわせたまでは良かったが、あいにくその渡はすでに残像で、虚しく空振りに終わってしまった。

 変わり身が早すぎる。

 瞬間的に幻覚を見せられて、からかわれたのだと気付いた美憐がきょろきょろと首を巡らすと、部屋の片隅に置かれていた加湿器にスタンドライトが当てられているのを発見できた。

 加湿器から水蒸気が立ち込めるたびに光の屈折を発生させて、蜃気楼を投影しているのだった。

 最初のトリックにも使われた、蜃気楼現象による幻影だ。

 本物はすでに身を引いていて、美憐を蔑視している。蔑視したいのは美憐の方だ。


「すでに一度見せた手に引っかかるなよ。とはいえ、お前の下着ははっきり見えたぞ。やはり赤いスキャンティなんだな。大方ブラジャーも似たような色だろう」

「なな何するのよっ! ま、まさか家に連れ込んだのはそっち目当てなの? いかがわしいことしちゃったりするつもりなの? 変態!」

「お前が下らない能書きを垂れた罰だ」

「コ、コロス――」


(せっかく、ちょっとかっこいいなーって見直したのに!)


 はだけたスカートの裾を正しながら、美憐のたがが外れかけた。

 このまま殴りかかろうか、それとも一旦このマンションから脱出して身の安全を図るべきか悩んでいると、意外にも渡の方から先に動いた。

 渡は美憐から目を逸らすように廊下へ顔を向け、玄関めがけて大股で直進する。


「あっ、どこ行くのよ!」たまらず追いかける美憐。「玄関を塞いで、あたしを閉じ込める気じゃないでしょうね! きゃーっケダモノ! 拉致監禁!」

「誰がお前に発情するか」

「そ、それはそれで傷付くけど……じゃあ何なのよ!」

「さっき言っただろう?」玄関の上がり框で身構える渡。「、と。玄関の外に気配を感じた」

「えっ……」


 ――監査役。


「長話が過ぎたようだ。僕もパンチラの赤を見たせいで、熱が上がっていたらしい」

「まだ言うかぁ!」


 あからさまな渡の話題逸らしに、美憐もつい煽られてしまう。

 このとき冷静に対処していればと思うと、後悔してもしきれない。怒りに任せて渡を追いかけ、廊下を突っ切った美憐の面前で、マンションの玄関が第三者の手で押し開かれた。


 新たな来客――『監査役』の、来訪だった。


「やーぁ、毎度ご無沙汰だねぇ渡くぅーん?」


 ひょうきんな、飄々とした青年の声。

 途端に渡は剣幕を極め、美憐をかばうように立ちはだかる。


「まだ入るな! 先に僕の客人を帰らせてくれ」

「んー? 君んトコに来客だなんて珍しいなーぁ。今日も今日とて女性の下着の色を推理してたのかーぁい?」


 普段からしてるのかよ、と美憐は呆れた。


「案の定、女の子の靴が並んでるねー。うーん、君はてっきり、別離した従姉ちゃん一筋だと思ってたのにお盛んだなーぁ」

「そんなんじゃない!」

「いーからいーから。んで? 最近、学校でこそこそ『色彩術』を使ってたらしーけど、それと関係あるのかぁーい?」

「あんたには関係ない! 詮索は無用だ!」


 渡が叫喚にも似た金切り声を張り裂けた。

 そんな彼を嘲けるように、訪問者は構わず足を踏み込む。


 ――美憐は、その後の記憶が極めて曖昧だ。

 監査役とかいう奴が、細身で童顔めいた、人懐っこそうな優男だったのはかろうじて覚えている。奇妙なフリルやら十字架模様やらをふんだんに装飾した真っ黒な衣服を着飾っていたのが鮮烈だった。メンズゴシック、という衣装だろうか。その上、やたら十字架をあしらった銀製のペンダントやらイヤリングやらブレスレットやらアンクレットやらを装着しており、服地の黒と対照的にきらびやかだ。

 その青年の両目が、強烈な閃光を放った――気がした。


「さーぁて、部外者の女の子には、早々に退場して貰おうかなー、っと」

「え……きゃあっ!」


 直後、美憐の精神はぷっつりと断絶される。

 強い色光を視神経に焼き付けると、脳が衝撃に耐え切れず、てんかん症状などを起こして意識を失うことがある。

 美憐が次に目を覚ましたとき、そこは自宅の門前だった。

 誰も居ない、留守がちな増場家の軒下だった。


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