A‐2.犯行

   A‐2.犯行


「あれが元部長よ」


 美憐は、遠く指差して見せた。

 美術部の一件で報道が騒がしかった数日間はあっという間に過ぎ去り、やっと通常授業が再開された日のことである。

 昼休みを使って、阿保渡は美憐に手を引かれて三年生の教室へやって来た。

 目指す三年一組は校舎の三階、それも最も奥側にあてがわれており、階段から微妙に離れている。緑のネクタイを締めた二年生がここに何の用だ、と赤いネクタイの三年連中に睨まれつつも、教室で学友と談笑にふける元部長の姿を遠目から補足した。


「美術部の元部長、古都ことあゆみ。確か学年首席の優等生よ。身なりも綺麗だし、才色兼備って言われてるけど、あたしの分析では単なるネコかぶったブリっ子ね」

「私怨が色濃い分析だな」

「同じく三年一組の女子、馬里うまさと月乃つきのとは小学校からの親友ね。いつも二人一緒みたい」

「その人も名前だけは美術部員だったな」


 渡が確認を入れると、美憐は鷹揚に頷いた。


「副部長だったわ。と言ってもほとんど顔を出さない『名義貸し』って感じだけど」

「そんな奴でも副部長になれる辺り、部の腐敗っぷりが痛感できる」

「古都歩が入学した当時は、今より部員が少なくて廃部寸前だったらしいから、親友が名前を貸して人数を水増ししたみたい。だから名目上は、部を再建した立役者なのよ。おかげで古都歩も幅を利かせるようになったわけ」

「名前だけなら古株なんだよな。それで副部長、と」

「馬里本人は、美術のビの字も知らない素人よ。ただし頭脳は明晰で、古都歩とは秀才コンビで通ってる。クラス委員も勤めてるわ」


 言いながら、美憐はなおも教室を睨む。

 三年一組は校舎の奥にあるため、ただでさえ日当たりが悪い。廊下側の席に至っては、輪をかけて薄暗かった。

 ――そこに、引退した部長と副部長が座している。

 古都歩と馬里月乃。

 呑気に歓談し、二人だけの仲睦まじい空間を構成している。

 憎たらしいことこの上ない。

 美憐が蛇蝎のごとく忌み嫌った眼光を投げかけるので、渡はやれやれと肩をすくめた。


「僕も元部長を見るのは久し振りだから、何とも言えないが――」

「幽霊部員だったもんね、あなたは」

「そういうお前は美術部ですらないのに、よくもまぁ調べたものだな」

「執念よ。敵討ちのためだもん」

「……そうか」


 異様な熱の入れようだった。

 渡はとりあえず納得した。美憐の内面など今はどうでも良く、さっさと目的を果たそうと考える。いつまでもこんな所に居たら目立つし、アシが付いてしまう。


「それにしても、共通点のなさそうな二人だな」


 改めて元部長と副部長をつぶさに眺める。

 廊下から遠く覗き込んだ距離からでさえ、古都歩と馬里月乃は対比的によく目立つ。

 古都歩は、全体的に色素が薄い、儚げな美人だった。白を通り越して透明のような地肌は、薄い化粧にも関わらず壮麗だし、髪の毛も一見すると錆びたような色あせた長髪だが、決して人工的な脱色ではない自然な滑らかさと光沢つやを放つ。

 両目がやや赤みを帯びているのは、カラーコンタクトか何かだろうか?

 何もかも眩しい外見のため、濃紺のブレザーが対照的なコントラストになって、とにかく人目を引いた。制服だけでなく、紫色パープルのハイソックスや同色のハンカチ、紫水晶アメジストのアクセサリが散見され、なおさら肌の白さが対照的に引き立つ。

 一方の馬里月乃は、違うタイプの眉目秀麗だ。

 組んだ足がやたら長い。やや外に跳ねた頭髪も、仕草のたびにふわりと揺れて、甘い香りを漂わせる。鼻梁は高く、こぼれる歯は白く、切れ長の目元が凛々しい麗人だ。ブラウスのインナーや靴下を黒で統一しているのは、人肌とのコントラストを意識したのか。


「まるで印象派だな」真顔で評する渡。「古都歩の読み方を変えると、古都歩ごつほになる」

「ゴッホ?」

「知らないか? 配色のコントラストやアクセントに重点を置いた『印象派』と呼ばれる色彩技法の巨匠だよ」

「名前だけなら」

「知恵さんの妹とは思えないな」

「ふん。どうせあたしはアホですよ」

「アホだと? アホと阿保は字が違うと何度――」

「そういう意味じゃないわよバカ、マヌケ」苛立たしげに爪を噛む美憐。「ともかく、下らない芸術談義は後にしてちょうだい」

「下らないものか。色彩は人を表すバロメータだ。色彩心理学を知らないのか?」

「色彩心理……って、この間あたしを分析したヤツ?」

「そうだ。赤いパンツを穿いていたときの」

「わーわーっ! それ以上は言わないで!」


 パンツを視姦された記憶が掘り返され、美憐は顔まで赤く火照った。


「思い出したか? 色や光は、人間の感情に影響を与える重大な要素だ」

「それで何が判るってのよ」

「古都歩の思考が読める」まっすぐ見据える手品師。「紫色のソックス、ハンカチ、アクセサリ。紫は高貴さを演出し、余人を寄せ付けない牽制の色だ。彼女は後ろめたい何かを抱えている。余計な詮索をされぬよう、漬け込まれないよう牽制しているんだ」

「じゃあ馬里月乃も?」

「彼女は黒ずくめだな。黒は全てを塗り潰し、個性を殺す作用がある……礼服やダークファッションが誰にでも似合うのはそのせいだ。人の欠点をごまかし、それなりの外見に仕立ててくれるからな。穏便にやり過ごしたい心理の現れなのさ」

「ふぅん……こじつけっぽい気もするけど」

「色彩原理を知らない素人がほざくな」

「ふん、どうせあたしは無知蒙昧よ。講釈も結構だけど、今は古都歩を誘い出すことだけを考えてよね。馬里の方は後回しよ」

「二人目を手にかけるのは、お前の謎解き次第だからな」

「絶対正解してやるわ。ちなみに馬里月乃はクラス委員も勤めてて、雑用で別行動を取るときがあるの……その隙に、古都を追跡して制裁しましょ」

「判った。情報は以上か?」

「んー、そうね、ないこともないわ。古都歩って、やたら色素が薄いでしょ。生まれつき虚弱体質だったみたいで、体育は免除。日に当たるとすぐ貧血起こして倒れたり、肌が赤くただれたりしちゃうんだって」

「道理で死人みたいに白いわけだ」

「目も悪いらしいわ。先天的な弱視って聞いたことがある」

「あの赤目は、カラーコンタクトか?」

「さぁ……ただ体育が出来ない分、他の技能科目で単位を稼がなきゃいけないみたいで、美術に力を入れてるのよ。絵画はもちろん、彫刻や版画、文字のレタリングなんかも秀逸よ」

「……なるほどな」


 渡は咀嚼を終えた満腹そうな表情で、鷹揚に相槌を打った。

 事前情報は出揃った。堂々とした足取りで三年一組の戸口へ接近し、そのすぐ内側に席を構えている先輩に声をかける。


「部長、いやさ古都先輩、お久し振りです」

「え?」


 突然室外から名指しされて、古都歩は弾かれたように首を巡らせた。

 歓談していた馬里月乃も、何だ一体と言いたげに顔を上げる。

 しかしそれが阿保渡だと認識するや否や、古都歩の相好は優雅に崩れた。馬里月乃もそれを確認するや、剣呑な空気を引っ込める。


「あら? あなたは確か、美術部の――」


 古都が、鈴を転がすような声音を発する。


「部員の阿保渡です」一礼する渡。「と言っても、ほとんど部活は休んでいましたが」

「入部届けを受け取ったときと、市の美術コンクールに参加したときくらいかしらね」


 古都はぴしゃりと言い当てた。

 渡は内心、かなりの衝撃を受けた。この元部長、記憶力がかなり良い。たった数度の対面、それも幽霊部員の容姿を、それだけで把握していたことになる。

 ――どうやら、一筋縄では行きそうにない。

 物言わぬ渡を見かねて、馬里月乃も声をかけた。


「幽霊部員ね。あたいも同じだったから気にするなって」


 はははと快活に笑い飛ばしてくれた。

 笑い事じゃないでしょ、と古都がとがめたものの、彼女も本気で怒っていない辺り、よほど慣れ親しんだ間柄なのだと見受けられる。


「――それで、幽霊部員が何の用だい?」


 馬里が人懐っこい声で問い質した。

 いかにも垢抜けた姉御肌という印象が強いが、渡は油断せず観察した。


「実は、先日の美術部で起こった騒動なんですが――」

「何っ?」


 言うや否や、露骨に青くなる馬里が面白い。

 一方の古都は平静を保っている。小さく眉をぴくつかせた程度で、それがどうしたのと反論したそうに渡を見つめるばかりだ。


「部長たちはすでに引退したから、ご無事だったようですね」

「そう言うあなたは、幽霊部員だから被害に遭わなかったのね?」


 古都が穏やかに聞き返した。

 おっとりとした口調だが、言質にはトゲが微量ながら含有されている。


「はい」ひるまない渡。「美術部の今後を検討したいんですが、あいにく他の部員は入院中で、僕一人しか居ないんです。そこで、引退した元部長に力を貸していただければと」

「私たちが?」


 古都はおやまぁと面食らったそぶりで、開けた口を手で隠した。

 陶人形ビスクドールのような白い体躯がなめらかに挙動する様は、まるで異世界の生物を観測するような感覚だった。ひときわ異彩を放つ真紅の瞳が、さらに虚像めいた雰囲気を放つ。


「けれど、私たちはもう引退した身だし――」

「そうそう、あたいらも忙しいんだぞ」


 馬里が太鼓持ちのように同調する。

 なるほど、古都の腰ぎんちゃくか。

 昔馴染みの利害と義理で、好きでもない美術部に名前を貸したのだろう。ワンマン部長と長い物に巻かれるイエスマン……ある意味では、群れたがる女性の習性かも知れない。


「あたしらは受験生だからね。放課後は塾や予備校に行かなきゃいけないの。それがない日は、学校の自習室に残って調べ物さ。君に協力する暇なんて、とてもとても……」

「そうですか」


 自習室。

 その語句を胸に刻んでおく。

 表面上は協力を渋られた残念そうな顔をかたどって、渡は大人しく引き下がった。


「ごめんなさいね。力になれないわ」


 古都が両手を差し出し、おもむろに渡の手をぎゅっと握りしめた。


「こら歩、下級生をかどわかすんじゃないよ」


 たちまち脇に居た馬里が色めき立つが、当の古都はお構いなしだ。

 雪のように白い手は柔らかく繊細で、渡を見つめる真摯な哀願のまなざしは、それだけで異性を籠絡しかねないほど美しかった。悪く言うと媚びていた。


「私、あなたのこと貴重な男子部員として目にかけていたのだけど……あまり出席しなかったから、お相手できなくて心残りだったのよ。途中からはその増場知恵さんと仲が良さそうだったし……今回もまた、間接的に知恵さんがらみの後始末だなんて……」

「はぁ……」

「歩!」


 ついに馬里が席を立った。まるで、古都歩が自分以外の人間へ媚を売るのが耐え切れないような、特権を横取りされたような嫉妬が見え隠れしていたのは気のせいだろうか。

 どちらも外見は天使のような造形のくせに、かすかな温度差が渡には伝わった。


「残念です」手を払う渡。「せっかく、また知恵さんのお化けに会えるかも知れないのに」

「!」


 渡がうそぶくと、古都の相貌がはっきりと乱れた。

 すぐさま元の顔色に取り澄ましたが、隣の馬里に至ってはあからさまに蒼白で、せっかくの美貌が台無しである。すらりと長い足を組み外し、がたがたと下半身を震わせている。

 実にみっともない。


「や、やめてよ、そういう冗談。あたい、オカルトの類が苦手でさ」

「馬里先輩は信じているんですか?」意地悪く追及する渡。「お化けが出て集団パニックなんて……ひょっとして、何か化けて出るような心当たりでもあるんですか?」

「あ、あるわけないだろっ!」


 馬里がまくし立てる。

 よく通る美声で叫んだものだから、教室中の生徒が振り返った。にわかに注目を浴びたせいで、馬里はなおさら取り乱す。何でもない、と手を振ってはぐらかすのが逆に怪しい。

 こんな奴が古都に次ぐ優等生だというから、世の中は不思議なものだ。

 対して古都はと言えば、そんな駄目女をなだめようともせず、すぐさま居住まいを正して渡と向かい合う。やんわりと退場を促す。


「……知恵さんのことは、私たちも痛み入るわ。お化けの集団パニックもそう。だから、しばらく時間をちょうだい。部だけでなく、学校全体のデリケートな問題だと思うから」

「そうですか」


 渡は大人しく引き下がった。

 知恵の名を出すたびに豹変する古都の態度が、何よりの収穫だった。

 教室の外へ退き、もう一度お辞儀を済ませる。次に顔を上げたとき、席を立った古都がにっこりと微笑みながら、容赦なく教室の戸を閉めた。

 完全なる拒絶――さっきの媚とは雲泥の差だ。

 踵を返して教室から離れると、物陰に隠れていた美憐が寄って来た。


「どうだったの?」

「つつがなく計画を実行する」淀みない決意。「古都歩が通う塾の休校日は、いつだ?」

「えっと」


 美憐はポケットからメモ帳を取り出した。

 律儀に調べている辺り、さすがは報復の権化である。


「月水金土に通塾してるわ。今日は火曜日だから休みね……そういう日は放課後の自習室にこもって、馬里月乃と秘密の勉強会をしてるみたい……名目上はね」

「名目上?」

「見て判らない? 二人きりで密会……ただの仲良しじゃないわ。特に馬里はガチ」

「まさか、女どうしでちちくり合っているとでも?」

「でなきゃ馬里がわざわざ、興味のない美術部に入るわけないじゃない。古都歩は友達の感情を利用してるだけっぽいけど……男も女もかどわかす小悪魔ね」

「人目も気にせずイチャつけるのか?」

「自習室は、いくつか空き部屋を開放してるの。利用者がばらければ二人きりになれるわ」

「断定的な言い方だな……お前はちちくり合ったことがあるのか?」

「はぁっ? な、ないわよそんなの!」


 たちまち美憐の頬が赤面した。

 壊れたおもちゃのように手足をじたばたさせる行程が面白くて、渡は追及する。


「何だ。確信を込めて告げたから、てっきり実体験に基づく発言かと思ったが」

「あ、あるわけないでしょ! セクハラで訴えるわよもう!」

「お前が先に言い出したんだろう」

「だ、だからって、そんな、ええと……ごにょごにょ」


 みるみるうちに美憐の語気が小さく、乏しくかすれた。

 耳たぶまで真っ赤に染まっている。彼女としては、古都と馬里の性癖をあげつらって罵りたかったに違いないが、阿保渡は必要最低限の用件しか聞く耳を持たないし、美憐の愚痴に付き合う義理もない。


「いや悪かった、お前は経験がなかったんだな。そうかそうか、お前はウブな未経験者か」

「わざと言ってるでしょ意地悪!」

「で、自習室はどこだ?」居住まいを正す渡。「僕は使ったことがないから判らない」

「渡り廊下の向こう、別棟の三階よ。受験生やテスト前の勉強部屋、もしくは赤点生徒の補習室として利用されてる。あなたには無縁でしょうね」

「日当たりは悪いか?」

「どうだろ……別棟がそもそも、校舎の脇に追いやられてるから……西陽にしびはよく射し込むんじゃない?」

「西陽か」

「いくつかの部屋に分かれてるから、日が届きにくい部屋もあるとは思うけどね」

「充分だ」


 渡の歩く速度が上昇した。

 どんな手段で標的を狙うのか、その『術式』イリュージョンが脳内に組み立てられつつあった。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが、ちょうど鳴り響いた。



 放課後を迎えた渡は、斜陽が注ぎ込む廊下を横断して、美術部に顔を出した。

 あいにく誰も居なかったが。

 当たり前だ。部員は入院中だし、肝心の美術室も荒れ放題で、先日やっと警察の捜査が終わったという段階である。片付くまで当面、使用禁止だ。

 顧問の美術教師・三輪みわ一元かずもとも、美術準備室で渋面をかたどっていた。


「ろくに美術の授業も出来ないんだ。もう少し我慢してくれ」


 モスグリーンのジャージ――学校指定で教師も生徒も共通――を着た男性教諭である。

 ついでに二年三組の担任教師でもある。まだ二〇代でありながら洒落っ気のないずぼらな髪と髭を伸ばし、およそ美的とは言いがたい。

 得てして画家や彫刻家は、作品の創作にかまける余り、自分の身だしなみには無頓着なものだ。この教師も、その部類なのだろう。


「幽霊部員の阿保が問い合わせるなんて、珍しいこともあるもんだ」

「……まぁ、僕もそれなりに衝撃的だったので」


 などと一礼して、美術準備室から去る。

 外で待っていた美憐と合流し、満足そうに頷き合う。


「機は熟した。自習室で標的を襲撃する」

「自習室で?」

「ああ。念のため、美憐はどこか別の場所でアリバイを作っておけ」

「怪しまれないように、ってこと?」

「ついでに僕のアリバイも頼む。一緒に下校したとか、どこそこに寄り道したとか、口裏を合わせてくれればいい」

「ずいぶんと慎重ね」

「念のためだ。無論、実際は怪しまれることなく遂行するがな。恐らく被害者は、何が起きたのかも判らないまま病院送りになるだろう。知恵さんのお化けが再来した、とおののくかも知れないな。それが狙いでもあるが」

「あたしがアリバイを作ってる間、あなたの犯行を観察できないわよ? あなたの『手品』イリュージョンを解明できなくなるわ」

「状況は後で説明するし、携帯電話で犯行動画を撮影しておく」

「そんな余裕あるの?」

「楽勝だ」


 言うが早いか、渡は懐から携帯電話の動画撮影ボタンをひけらかした。

 グリーンのメタリックなカラーが眩しい。

 美憐は一応の納得を見せた。


「まぁ、あたしに不利なことはしないでよね」

「僕は飽くまで公平さ。それじゃあ、行って来る……と、その前に」


 渡は廊下の片隅にある一室で、ふと足を止めた。

『男子更衣室』

 と表札がかけられている。


「どうしたのよ?」


「制服だと動きにくいから、ジャージに着替える。これが今回の肝なんでね」



 別棟は主に、家庭科室だの図書室だの理科室だの音楽室だのと言った、移動教室の設備が寄せ集められた建物である。美術室もこの一室に含まれる。

 三階部分には空き部屋が自習室として設けられ、各生徒が自由に使用できるよう机と椅子が並べられていた。

 自習や補習授業の他、保護者会や理事会、その他訪問者の寄り合いなどにあてがわれることもある。

 ――ただし、総じて採光は悪い。

 立地の都合上、窓が西側に取り付いているため、昼間であっても蛍光灯を点けないと視界が優れない。

 放課後からの夕方以降、ようやく西陽が射し込むものの、夕焼けが室内を紅蓮に染め上げるため、大抵はカーテンを閉める羽目になる。

 カーテンを閉めないと、夕焼けのせいで目がチカチカして痛むし、とても勉学に集中できないからだ。


「月乃の奴、遅いわね……」


 古都歩は単身、机に出した教材もまばらに、物憂げな頬杖を突いた。

 馬里月乃はクラス委員でもあるから、担任に別個の用事を頼まれたりすると、どうしても一緒に行動できないときがある。

 そういうときは一人で先に自習室へ立ち寄って、二人で座れる席を確保しておくのが通例だった。

 いくつかある自習室のうち、古都は出来るだけ日当たりの悪い――夕暮れの光に惑わされにくい――奥まった隅っこの席に着くよう心がけている。

 まだ誰も来ていないこともあり、机と椅子を占有するのは楽だった。今日はやや早く来すぎたかも知れない。


(生まれつき弱視だから、この夕焼けは堪えるわね)


 赤目をしきりにまばたきさせて、古都は小さく溜息をついた。

 色素が薄いこの体も、目が弱くて充血して見えるのも、彼女の先天的な賜物だった。

 劣性遺伝の一種に『アルビノ』というものがあるが、それに近い独自の体質、と言えば良いのだろうか。

 光に弱い。

 色も薄い。

 目が赤いのだって、コンタクトレンズのせいではない。瞳の色素が薄いため、眼球の毛細血管が浮き上がって見えるのだ。


(弱視で、色彩感覚に不利だと言われたけれど、私は美術部の部長を勤め上げたわ)


 待ちぼうけする間、今までのことを思い出す。

 昼休みに阿保渡が訪ねたせいで、どうしても美術部のことが脳裏に蘇ってしまう。


(弱点も、短所も、努力次第で克服できる……色の薄い私があえて美術に秀でることで、コンプレックスを払拭したかった……それなのに)


 それなのに。

 古都歩の挫折は、唐突に訪れた。

 美術部の活動で出展したコンクールにおいて、同じ部の同級生が入選を果たしたのだ。

 増場知恵。

 古都歩は、それより一つ劣る準入選だった。

 とはいえ、賞に選ばれただけでも誇るべきことだし、同校から二人も受賞するなんて滅多にない大快挙である。

 それでも、古都は不服だった。

 頂点に立たないといけないのに――トップになることが体質に打ち勝つ象徴なのに――それを達成できなかった。


(あまつさえ、数少ない男子部員まで横取りするなんて……ね)


 女子が多勢を占める美術部において、阿保渡は貴重だった。

 渡は見栄えも良く、美術の造詣にも長けており、古都が一目置くに値する異性だった。しかし当人は増場知恵に惚れたらしく、告白していたのを他の部員が目撃したそうだ。


(私だって普通の恋愛もしてみたいのに……月乃の腐れ縁だけでなく!)


 何もかも、増場知恵に奪われた。

 腹が立つ。

 特殊な生い立ちの自分が、普通の人間に負けるなんて。

 古都にはない才能と魅力を、常人の知恵が持っているなんて――。


(憎い。増場知恵が憎い。あいつなんか消えてなくなればいいのよ――)


 ――そんな折、馬里月乃がそそのかしたのだ。


『そんな女、ハブっちゃいなよ』


 これが以心伝心というものか。

 凛とした昔馴染みは、古都の思考を見抜いてくれた。

 あんな邪魔者、仲間外れにすればいい。

 部のみんなで嫌がらせをしよう。


『歩が一番優れてるよ。歩が一番綺麗なんだ。あたいは初めて見たときから、その白亜の美貌に魅せられたからね。歩の邪魔者は、あたいの邪魔者でもある』


 極上の忠臣だった。小学生の頃から古都の面倒を見てくれた親友は、ていの良い駒でもあった。古都歩の鬱憤を晴らすプランが、彼女の口から魔法のように紡ぎ出された。

 知恵がやる気を失うイジメ。

 二度と画材に触れたくなくなるイジメ。

 高校で創作活動できなくなるイジメ。

 かくして、それは大成した。

 物を隠して、道具を壊して、教師の目を盗んで殴る蹴るの暴力を加えた。

 完璧だった。

 素晴らしい団結だった。

 みんなで力を合わせるのって、素晴らしい!


(増場知恵の受難は、自業自得だわ。私の躍進を妨害したんだもの。だからイジメて、部員総出でハブってやって、私にぞっこんな月乃に相談して、部活の女子たちも同調させて、知恵を孤立させた。女特有の陰湿なイジメを展開してやった)


 古都歩はそうやって、自分を納得させる。

 自己暗示をかけている。

 すがるように思い込み続ける。

 あの女が死んで、心の底から安堵した。これほど心地良いなんて思わなかった。

 イジメは美しい。

 イジメって素敵な響きがする。

 この世には、こんなにも胸をスッキリさせる清涼剤が潜んでいたのかと感涙する。

 馬里月乃は、親友の古都歩をよく理解していた。白亜の天使が頂点に立つための方策を明示してくれる、なくてはならない相棒だ。


(先日の集団パニックも、何かの間違いよ。知恵が化けて出たですって? イジメの後ろめたさが後輩たちの不安を呼び込んで、ヒステリーを起こしただけ。そうに決まってる)


 お化けなんて、物理的にあり得ない。

 あるのは、個人の才能の有無だけだ。

 そして、古都はその才能を花開かせる。

 もはや彼女がトップなのだ。


(ええ、そうですとも。私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない。私は――)


 がたん。

 一心不乱に両手を組んで祈っていた古都は、教材に肘をぶつけて落としてしまった。

 あら、と腰を曲げて拾う間もあらばこそ、次に顔を上げたとき、彼女はとんでもないものを目の当たりにする。

 ――視界が、くらんだ。

 カーテンが全て開け放たれていた。


「きゃっ、眩しい……」


 目を覆う古都だったが、状況が判らないのでうっすらと開眼する。

 夕陽を遮っていた窓際のカーテンが、ひとりでに開け放たれて行った。

 何の力もなく。

 何の作用もなく。


「何、これ……」


 目前の光景が信じられなかった。

 室内には、古都以外の人間は居ない。

 カーテンだけが、勝手に動いている。

 ――そんな馬鹿な。


「お、お化け?」


 古都はあり得ない推測を口に出した。

 西から強烈に射し込まれる夕暮れの光が、あっという間に自習室内を赤く染めた。

 目が痛い。

 眩しさの余り、古都の視野には、緑色のモヤがかった残像が映り込んだ。

 ――誰もが一度は経験あるだろう。強い光を直視すると生じる、眼球の保護機能だ。

 視界が緑一色になる。

 緑のモヤで視界が優れず、夕焼けに目が慣れるまでしばらくかかりそうだった。


(一体、何が起こっているの? 夕陽のせいで何も見えやしないし、そもそも誰も見当たらないのに、カーテンが勝手に――)


 うろたえる古都の至近に、今度は足音が迫って来た。

 つかつかと。

 一定の歩幅で。


「だ、誰?」たまらず席を立つ古都。「どこに居るの? 姿を見せなさい! まさか、本当にお化けなの? 知恵さん!? 増場知恵さんの幽霊なの!?」


 混乱を来たす。

 パニックやヒステリーが、我が身にも迫る。

 恐慌を抑えられない。わだかまった衝動を我慢できない。


「知恵さんの亡霊なの? 私に今さらどんなご用? あなたは死んだのよ。私のイジメに屈してこの世から逃げた負け犬の分際で、今さらのこのこ、未練がましく化けて出るなんて――きゃああっ!」


 古都の眼前で、机が何者かに蹴り飛ばされた。

 壁にぶつかり、派手な音を立てる。

 上に乗せていた教材や鞄も吹き飛んで、床にばらばらと散らばった。


「ひ、ひぃっ!」


 倒錯した古都は、室内を逃げ回った。

 外へ逃げようとすると、机が投げ飛ばされて道を塞いでしまう。

 ――居る。

 誰かが居る。

 確実に、居る!

 でも見えない。

 まさにお化けの仕業だった。

 夕陽で目がくらむ中、古都は徐々に追い詰められた。

 窓際に背中がぶつかる。

 わずかに窓の鍵が外れており、吹き込む風が背筋を冷やす。

 さっきお化けがカーテンを開けたときに、鍵も外しておいたのだろう。

 つかつか。

 近付く足音。

 何も見えない。

 室内を凝視しようにも、緑一色の残像モヤが視界を覆っているせいで、確認しづらい。


「ゆ、許して……」涙目の懇願。「私が悪かったわ、私が悪かったから! イジメなんて間違ってました、二度としません反省もします! だから、お願い――」


「だ・め・だ」


 ――耳元で、囁かれた。

 吐息がかかる距離だった。


「ひっ……!」


 古都は完全に平常心を失った。

 憔悴と、焦燥と、発狂と、背徳と、根源的恐怖が錯綜する。赤い目が白黒し、透明な肌がこれほどめまぐるしく青くなったり赤くなったり引き付け起こして紫色になったりしたのは、初めての経験だった。

 反面、そのせいで今の声が到底、知恵の声には似ても似つかないことや、どちらかというと昼間に交わした阿保渡の声そのものだったことなど全く考えが及ばなかったし、忘れてしまっていた。

 混乱を来たし、慌てふためく。

 開いた窓から、身をよじらせるように逃げ出す。

 その先は虚空が広がるだけなのに。

 ここは別棟の三階だ。


・ち・ろ」


 どん。

 突き飛ばされた。

 後ろから。

 見えない誰かに。

 夕陽の赤と、緑の残像の狭間で。

 古都の肢体は、何者かの手で押し出された。

 窓から転落する。

 地上めがけて自由になる。

 別棟と校舎を繋ぐ中庭の植え込みに、古都はきりもみしながら激突した。

 思ったよりも、柔らかい感触。

 コンクリートではなく、植物の枝葉と柔らかい土壌がクッションになり、かろうじて一命は取り留めたようだ。

 しかし、一大事には違いない。中庭は人の目も多いから、再び校内は騒然となったし、後に通報を受けた警察も「またかよ」という風采だったらしい。

 全身打撲で動けない古都を最初に発見したのが、クラス委員の仕事を終えて別棟に移動中だった馬里月乃というのも、皮肉な話だ。


「歩! ねぇ、どうしたのさ! 自習室から飛び降りたの? なんでまた!」

「う……あぁ……っ……」


 薄れ行く意識の中で、古都はぱくぱくと口を開けるのが精一杯だった。

 生徒や野次馬が集まり、先生を呼びに行ったり救急車に電話をかけたりする中、古都はかろうじてこう述べた。


「お……化け……に……やられ……」

「お化けぇ?」月乃のしかめ面。「それって、増場知恵の? 冗談でしょ?」

「本当……に……」ゆっくりとかぶりを振る元部長。「突き落とされた……あいつに……怨念に……見えない悪意に……っ」

「ちょ、待ってよ、本気で言ってるの? 歩! ねぇってば、歩!」

「そんなに揺さぶるな!」


 先生が血相を変えて駆け付けるや、馬里を引き剥がした。

 それが美術部の顧問・三輪一元というのも最高に皮肉な巡り合わせだった。どいつもこいつも集団パニックの面影から逃れられない。

 モスグリーンのジャージに身を包んだ武骨な美術教師は、夕焼けを浴びて細長い影法師を植え込みに映じる。

 横たわる古都を覆い隠す、嫌な黒色だった。


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