Aパート 阿保(ABO)と阿呆(AHO)は字が違う

A‐1.計画

   A‐1.計画


 増場ますば知恵ちえ

 増場ますば美憐みれん


 それが、姉妹の名前だった。

 姉は文字通り『知恵ちえ』のある才媛、妹は『美しく可憐』に育つよう祈りを込めた名前。

 姉は、もう死んだけど。

 妹はその前夜のことを、今しがたのことのように思い出せる。


 月が昇り、夜の帳が下りた時分。

 外灯を点け忘れた薄暗い家屋の玄関。

 そっと踏み入る靴音。

 生気のない足音。


「ただいま……」

「お姉ちゃんお帰り……って、ええっ? どうしたの、その体!」

「あはは……ちょっとね……私おっちょこちょいだから……」

「何したらそんなに制服がボロボロになるのよ! 顔とか痣だらけだし……腕も、足も、血が出てるじゃない!」

「な、何でもないのよ……何でもないの……だから」

「手に提げてる画材もめちゃくちゃに壊れてる! お姉ちゃんの宝物でしょ! こんな粗末に持って帰るなんてあり得ない……何があったの? 事故?」

「だから、気にしないで……本当に、何でもないから……」

「そんなわけないじゃん! どうしたのよ、ねぇ!」

「ごめん、肩を掴まないで……痛むから」

「!」


 慌てて離れる。加えてそれは、姉の進路を通せんぼしていた美憐が、たじろぐように道を譲る格好にもなった。

 知恵はそのまま、無言で廊下を歩いて行く。

 体を引きずるように。

 息も絶え絶えに。

 ぼさぼさに乱れた漆黒の長髪をなびかせて。

 妹の他に、それを迎える家族は居ない。

 台所には親の書き置きと、冷たいレトルト食品が並べられている。

 ――今日も遅くなるようだ。

 子供にかまける暇などない、留守がちな家庭。

 せめて親がもっと、目をかける時間さえあれば。

 姉の危険信号を察知してやれば――。



「次の日、お姉ちゃんは居なかったわ」妹の述懐。「見付かったのは、遺書と靴。町外れの海岸、波打ち際の崖に置かれてたわ」

「飛び降りたんだな」鼻を鳴らす男子。「死体はまだ見付かってない、と」

「空っぽの棺桶で葬式を挙げたわ。あの虚しさは、言葉じゃ表現できないわね。文字通りの空虚よ。到底信じられなかったし、実感も湧かなかったわ。どこか夢心地で」


 日が暮れた屋上で、なおも二人は語らいでいる。

 秋の香りが漂い始めるこの季節は、まだ若干暖かい。

 衣替えを経て、夏服こそ着収めになったが、長袖のブレザーは二人の男女をにわかに汗ばませた。否、ただの汗ではない。両者にせめぎ合う緊迫と緊張が、寒暖とは別種の汗を誘発させている。


「姉妹という割に、あまり似てないな」


 男子は、皮肉混じりにあしらった。

 描きかけだったキャンバスを布でくるみ、絵の具を片付け、画材を畳み始める。

 撤収の時間だ。

 これ以上この女子と雑談をする必要はないし、そんな義理も本来はない。思わず長話になってしまったが、さっさと帰宅するに限る。

 怜悧な二つの眼差しは、無駄話の原因となった増場美憐を正面から捉えた。両手で器用に荷物を整頓しつつ、彼の想い人――姉の知恵――とは似ても似つかない赤毛と黄色い肌の妹を正視する。


「お姉ちゃんは黒髪と白い肌が綺麗だったわね」肩をすくめる妹。「あたしは至って普通よ。ていうか血は繋がってないし」

「繋がってない?」

「再婚したお母さんの連れ子なのよ」


 美憐は事もなげに呟いた。

 眼前の男子へ向けて告知しているのに、独り言のような語気だった。


「お父さんもお母さんもバツイチなの。あたしとお姉ちゃんは、再婚で初めて知り合ったわ。そのお母さんも、血の繋がりはなくて養女だったみたい」

「なるほどな。似てないわけだ」

「似てたらどうする? お姉ちゃんの面影をあたしに見出して、惚れちゃう?」

「それはない」

「即答かょ」


 男子は荷物を肩から背負って、美憐の横を素通りする。

 本当に眼中にないのだと態度で示された美憐は、反射的に後を追った。頬を膨らまし、真っ赤に上気しながら男子の肩を掴む。

 引き止められた男子は、幽霊部員どころか本物の幽鬼さながらに、無機質かつ無感情な面相で振り返った。

 肩越しに彼女を睨む。


「性格が全く違う。僕が好きだった知恵先輩は、こんな風に話を持ちかけないし、引き止めたりもしない」

「……あっそ」


 至近距離で凄まれては、それ以上は美憐も反論できない。言われてみればそうかもね、と口の中でもごもごもぬかして、肩から手を離すより他にない。


「そりゃあ、あたしはお姉ちゃんと比べたらガサツかも知れないけどさ……」

「何が言いたいんだ?」


 改めて苛立つ。

 男子は屋上の扉に手をかけた。ろくな内容でなければ即刻立ち去るというポーズだ。もはや美術部崩壊という目的は果たしたのに、なぜ美憐が食い付いて来るのか、不思議で仕方がないと言った風体だった。

 ――それに、懸念もある。

 色彩原理の『イリュージョン』について、この妹がどれだけ知っているのか――。


「お願いがあるの」


 美憐は回り込んだ。

 屋上から出て行かれぬよう、男子の正面に立ち塞がった。

 互いにまじまじと見詰め合う。今度はどちらも目を逸らさなかった。たじろぐこともなかった。

 美憐は意外と上背が高い。さすがに男子ほどではないにしろ、女子の平均身長よりは上である。見据えた目線の高さが近い。姉の知恵の方が小柄だった。

 その分肉付きは細く、手足はひょろ長い。赤毛も地毛だろう。相応に長いが襟足で左右二つに分けて結んでいるため、野暮ったくはない。つぶらな両眼は視力が良さそうだ。姉の知恵は楕円形のシャープなメガネをかけて理知的だったのに対し、妹は愛嬌がある。

 やはり似ても似つかない。

 男子が好きだった先輩は、もう居ない。


「あなたの『手品』イリュージョンで、さらなる報復を遂げて欲しいの」

「何だと」


 男子は耳を疑う。

 この子が何を言いたいのか、咄嗟には判断が付かなかったし、いかにも厄介そうな――面倒臭いこと極まりない――話になりそうだったので、脳が情報処理を拒絶している。

 さらなる報復?

 それは、誰の報復だ?

 誰が報復するのだ?

 誰を報復するのだ?

 誰に対して報復するのだ?


 初めて男子の顔色が変化した。

 困惑。

 狼狽。

 逡巡。

 そんな彼の剣幕を見上げた美憐は、まだ脈ありと見抜いたのだろう、そうよ報復よ、と自身を奮い立たせるように発言した。


「お姉ちゃんを自殺に追い込んだ主犯格は、まだピンピンしてるわ」

「どういうことだ」

「あなたが病院送りにしたのは、飽くまで『現役の美術部員』だけでしょ?」

「現役の……ということは、まさか」


 ようやく気が付いた。

 ――そういうことか。


「賢明な『手品師』イリュージョニストのあなたなら、判ってくれると信じてたわ」微笑む妹。「一学期で部を引退した三年生が、まだ無傷で生き残ってるじゃないの」

「三年生――」かぶりを振る男子。「元部長と副部長か。どっちもプライドの高そうな優等生だったな。あの二人もグルだったのか」

「いけ好かないクズどもよ。どっちも外面だけは品行方正だから余計に腹立つ」

「何にせよ盲点ではあった。そいつら、知恵先輩と同級生だったな。僕も大して面識はなかったが――」

「あなたは幽霊部員だったもんね」

「部室が騒がしかったからな。美術なんて名ばかり、その実態はかしましい女どもの溜まり場だ。まともに創作していたのは、僕と、知恵先輩と、美術の課題に追われる生徒や、締切間際のコンクール参加者など、数えるほどしか居なかった」

「だから一人で屋上デッサンに勤しんでたわけ?」

「そうだ。特に知恵さんが死んだ今、なおさら部に戻る理由はない」

「そんなことだから、肝心の首謀者を見逃すのよ」


 美憐は追い討ちをかける。

 ここぞとばかりに畳みかける。

 すっかり目的を果たしたつもりの手品師に、これは沽券に関わる落ち度よ、と思い込ませようとする。


「あなたは、その数少ない活動者であるお姉ちゃんと親しくなったんでしょ? そして、熱心に創作するお姉ちゃんの真摯さに魅かれた」

「その通りだ」堂々たる返答。「真面目な知恵さんは美しかった。市の美術コンクールでも毎年、優秀な成績を収めていた。この人はイリュージョンの『素質』があると直感した。なのにまさか、部員の嫉妬を買ってイジメられるなんて――」


 優秀。

 素質。

 惜しみない賛美。

 知恵には類まれな才気があった。

 それは少なからず関心を集める。注目を寄せる。

 この男子よろしく好意を向ける者も居れば、やっかみを宿す者も居る。良くも悪くも、稀代の精鋭には人波が絶えない。

 だから、才能を隠そうとする。

 力があるのに、この世から逃げてしまう。


「イジメを先導してたのが、部長たちよ」妹の断言。「そうじゃなきゃ、仮にも最上級生のお姉ちゃんを一・二年生の平部員が手を出すわけないでしょ? 部長も今頃、恐々としてるんじゃない? たまたま部室に居なかったから助かったけど、部員をことごとく病院送りにしたお姉ちゃんの幻影が、いつ自分たちの所にも現れるか――ってね」

「僕にそれをやれ、ってことか?」

「手段は問わないわ。奴らも病院送りに……いいえ、主犯格はいっそ息の根を止めちゃってちょうだい」


 美憐は語尾をことさら強調した。

 息の根を止める。

 ――殺す、ってことだ。

 怪我させるだけでは心が晴れない。姉を死に追いやった張本人どもなのだから、同等の死罰をもって償って貰わなければ釣り合わない。

 少なくとも美憐は、そういう思想を持っている。


「穏やかじゃないな。気持ちは判るが」


 男子は釈然としなかった。

 美術部壊滅こそ自分の意志でやったことだが、さすがに殺人までは考えていなかったし、あまつさえ引退した元部長たちも標的だったなんて想定外である。

 正直、これ以上はやる気がしなかった。一定の成果は上げたのだ。

 その先は、物事を押し付けられているようで気分が悪い。

 そもそも――。


「お前は、僕の『幻術』イリュージョンについてどれだけ知っているんだ?」

「え?」

「この『幻術』イリュージョンは、秘密の技能だ。世間一般では知られていない。今回は特別に使ってしまったが、そう何度も披露して良い部類ではない」

「部長どもを野放しにしてもいいの?」

「それとこれとは話が別だ」

「同じことじゃないの! 私も詳しくは知らないわ。あなたの持つ謎の力も、お姉ちゃんが持ってた才能も。だけど――」

「知らない奴に口出しされても、気分が悪い」


 突き放した。

 美憐を脇に押しのけ、今度こそ屋上の扉をくぐる。

 閉ざされているはずの扉を、すり抜ける。その拍子に空気が揺らぎ、扉を形成していた幻影が潰えた。

 立入禁止の縄張りと施錠は、実在しない『蜃気楼』だった。

 傍らには、封鎖されていた頃の扉が写真に残され、懐中電灯で照らされている。さらには簡易バッテリーで動く加湿器も稼動中で、湿度差による光の屈折を利用して、縄張りの幻覚を映し出しているのだった。

 ――通常ではあり得ない。


 普通、こんな仕掛けで立体映像など生じようもないが、男子が用意したときに限ってのみ、忠実に虚像を再現するのだった。

 写真をいじれば、扉の虚像もうねうねと動く。

 色と光を操る『手品師』イリュージョニスト

 色彩原理を駆使する男子。

 謎の幻惑――。


「お願い! その『手品』イリュージョンがあれば報復を完遂できるのよ! 話を聞いて!」

「もう充分に聞いた」


 男子は淡々と階段を降りる。とっくに下校時刻は過ぎていた。あまり騒がれて用務員や警備員に聞き付けられたら面倒だった。

 それでも美憐は諦めない。彼女もまた扉を抜け、階段を飛び降り、踊り場で両手を広げた。男子の進路を妨害し、彼が鬱陶しそうに足を止めたのを確認すると、深々と頭を下げる。必死に下げる。それはもう、みっともないくらい下げ続ける。


「頼れるのは、あなたしか居ないの! 美術部は集団パニックで注目されてるし、いずれイジメ問題も明るみになるとは思うけど、そんなんじゃ、あたしの腹の虫が納まらないわ! 奴らへ今、この瞬間に、直接、目にモノ見せてやらないと気が済まないの!」

「僕は、しつこい奴が嫌いだ。どんなに共感できようとも、分をわきまえない乞食には同情できない」

「お願い! 行かないで! 何でもするから!」

「……何でも?」


 男子に、思わず笑みがこぼれる。

 他人にモノを押し付ける女が、何でもすると言ったのが滑稽なのだ。

 ――何でもするなら自分でやれよ、って思う。

 美憐もそれは重々承知していたが、彼の力なくして目的は達成できないため、堪える。


「あのな。勢いだけで物を言うと後悔するぞ」

「そ、そんなことないわ! 本当に何でもする、何でもするから!」

「お前に何が出来る?」そびやかす肩。「体で払う、とでも言うつもりか?」

「え」


 体で払う。

 体?


 美憐の顔面が噴火しそうになった。

 さっきまでの雄弁はどこへやら、たちまち萎縮する落差が激しすぎる。


「ええ? え、ほ……本気で言ってるの?」


 顔が熱い。途端に全身をくねらせ、もじもじし始める。

 男子からの容赦ない視線を浴びて、妙に意識し出すのも浅はかだった。


「か、かかカラダって、そんな、私が」

「何だ。やっぱり口だけじゃないか」

「だ、だって私、ほら、あんまりスタイル良くないし……お姉ちゃんは小柄で綺麗で胸とかも大きかったけど、私はさっぱりだし」


 聞かれてもいないことを勝手にぺらぺらとまくし立てる。

 凄まじい動揺だった。

 美憐にも人並みの羞恥心があったのか、と今さら発覚する。

 姉に似ても似つかないのは、性格だけではなかったようだ。言われてみれば確かに見劣りするなぁと、在りし日の知恵と見比べた男子が、わざとらしくがっかりした様子を見せた。


「覚悟のない奴が、気安く報復を語るな」

「わ、判ったわよ! すればいいんでしょ! 払うわ!」双肩を掴んで迫る美憐。「あなたの手を煩わせるんだもの。そ、それくらいのお礼はしないとね」

「本気で言っているのか」

「もちろんよっ。か、体なんて、そんな要求されたの初めてだけど――」

「そうか」


 男子は背負っていた画材を、床に置いた。

 え、と驚く美憐を尻目に、男子はその場に片膝を落とす。

 それはすなわち、しゃがみ込んで美憐のスカートを下から覗く姿勢だった。


「お前の体、ね」


 言いながら、美憐のスカートを指でつまんだ。

 そのまま、めくり上げる。

 ずっと、めくり上げる。

 スカートの中身を、じっくりと観察する。

 パンツと太ももを眼前で眺める。

 濃い赤ワインレッドのストライプだった。


「わひゃあっ!? な、何するのよ!」


 両腕をじたばたさせながら、美憐は反射的に男の手を叩き落とそうとした。

 ――が、出来ない。

 振り下ろせない。

 男子の腕は強靭だ。細腕なのに、スカートを握る手は力強い。

 何より、美憐が本気で叩けそうにない。

 なぜ?

 自分の発言が嘘になってしまうから?

 美憐は頭から湯気を煙らせるほど赤面しながら、男子の品定めが終わるのを待った。

 待つしかなかった。


 見られ続ける。

 スカートの中を、至近距離から堂々と。

 足が震える。

 スカートがご開陳されているせいで、股下が妙に涼しい。風が吹き込んで来る。ぶるぶる震える内股すらも、その男子にほぼゼロ距離で視姦されているのだから、涼しさに反比例して美憐の顔面は熱く火照ってしまう。

 たまらず汗が噴き出た。

 嫌な脂汗のようなものも流れた。

 へその辺りが薄ら寒い。

 パンツも汗で濡れる。

 そのパンツを、目と鼻の先で凝視される恥辱。


 こんなことなら、見られても平気な下着を穿いて来れば良かった、とかどうでもいい後悔に見舞われる。

 否、元より美憐はそんな派手派手しい代物など持ち合わせていなかったが、姉のタンスを漁ればもっとしなショーツを借りられたかも知れない。

 ああもう本当にどうでもいい。


「……ふん、度胸もないくせに我慢するな」

「な、何よっ!」

「恥ずかしいんだろ? まぁよく耐えたな。褒めてやろう」


 ようやく男子は指を離した。

 スカートがはらり、と舞い落ちる。

 美憐のパンツが、彼の視界から隠れる。

 視線を上げた男子と、見下ろす美憐の目がもろに合った。にわかに飛び散る火花など構いもせず、美憐は耐え切れずに顔を逸らした。

 面と向かってスカートをめくられるなんて、前代未聞の人生経験だった。あってたまるかそんなもん。美憐は脳味噌の処理が追い付かない。

 語るべき言葉も完全に失って、あーとかうーとか意味不明な喘ぎ声を搾り出すのが関の山だった。とにかく顔が熱い。冷やしたい。


「普通の肢体だな。そんなんじゃあ裸婦画のモデルにもなりゃしない」

「あ、あんなにガン見してその言い草ってないんじゃない?」


 美憐はせいぜい、照れ隠しに吼える。

 だが、言うまでもなく狼狽はごまかしきれない。およそ隠し通せるものではないし、美憐は虚勢を張るのが苦手のようだ。そんな度胸があれば、男子の言う通り、とっくに自力で報復を果たしているだろうから。

 出来ないからこそ、頼っているのだ――。


「よく見れば、お前の口紅も濃い赤ワインレッドだな。靴下も赤い。髪留めも赤い。ネイルも赤い。色彩心理学において、赤は情熱と執念の色だ。しかもドス黒いワインレッドは、腹黒い怨念や報復の意味合いも含んでいる」

「だ、だから何よ。それだけあたしは必死なのよ。女の子をそんなジロジロ観察して、恥までかかせて、情けないと思わないの?」

「どの口がほざいているんだ、何でもすると言ったのはお前だろう」

「そ、そりゃーあたしは貧相な体だし、色気もないし、む、胸とかも小さいけど」

「ああ、本当に凹凸がなくて、審美としては最低点だ。顔立ちは悪くないが――」

「え」


 思いがけず褒められた気がして、またも美憐はどきりとよろけた。

 しかし当の男子は意にも介さず、特別な含意があったわけでもなく、さらりと流して続きをぼやく。


「――が、それだけだ。細面につぶらな瞳、スレンダーな輪郭は、翻せばまだまだ子供だ。あいにく、僕はお前に興味がない。何度も言わせるな」

「そんな! お願い! 今のは不意打ちで焦っただけよ、心の準備が出来てなくて――」

「準備もないくせに舌先三寸で対話したのか。見下げ果てた」

「じゃあどうすればいいのよ! あたしはあなたの秘密を握ってるのよ、謎の『手品』イリュージョンを世間に言いふらされたくなければ、私の命令を――」

「ほほう?」立ち上がる手品師。「言っておくが、僕がその『幻術』イリュージョンを使えば、お前なんか一瞬で始末できるんだからな?」

「う」

「知恵さんと違って厄介な妹だと思ったが、あまり賢くなさそうだ。本気で僕を脅迫できると思ったか? 身の程知らずとはこのことだな」

「うう」


 しばらく睨み合ったが、その眼力は天と地ほどの差があった。

 もはや美憐に、さっきまでの気勢はない。完全に意気消沈した様相で、力なくうなだれてしまった。うつむき、目を逸らし、放心し、肩を落とす――。


「そうだ。その態度だ」

「え?」

「最初からへりくだれば良いんだよ。さっきのは、人に物を頼む態度じゃない」


 思いも寄らない天啓だった。

 美憐は試されていたのだ。彼の言わんとしていることを直感した彼女は、今しがたの羞恥など吹っ飛ばして、ぱっと表情を輝かせた。


「それじゃあ――」

「ただし条件がある」


 美憐は男子から人差し指を突き付けられた。


「僕も知恵さんの報復にやぶさかではないが、相応のリスクを背負うことになる。だからまずは、手始めに一人だけ……そうだな、元部長に標的を絞って、病院送りにしよう」

「病院送り? 甘いわね。殺してよ」

「その先は、お前次第だ」

「あたし?」

「お前が現時点で、どのくらい知恵さんやイリュージョンに理解があるのか審査したい。僕と手を組むのに値する素質があるかどうか、をな」

「もっと具体的に言ってよ」

「僕はこれから、元部長に『幻術』イリュージョンで報復する……一体どんな色彩原理トリックを使ったのか看破できたら、副部長も始末してやる」

「わぁ、本当!?」

「男に二言はない。それに、美術的にはごく初歩的な幻覚症状を起こすだけだから、決して難易度は高くない」


 色のイリュージョン。

 普通の人には真似できない、特殊な色彩原理。

 次に行なわれる報復で、そのカラクリを見破れば――。


「お前が正解すれば、この力の秘密も話してやる。せいぜい頑張るがいい」


 男子はそう言って、手を差し伸べた。

 美憐は夢見心地で握り返す。

 繊細で柔らかい、芸術家にふさわしい手先だった。


「改めて自己紹介しよう。僕はお前と同じ二年三組、阿保あぼわたるだ」


 阿保。


「えっ、アホ?」

「アホじゃなくて阿保あぼだ」こめかみに浮かぶ青筋。「阿保あぼ阿呆アホは似ているが、異なる漢字だ……今のでだいぶ心証は悪くなったぞ」

「ああっごめんなさい、えーと、あ、あぼ……くん?」

「発音が危なっかしいな。いっそ下の名前で呼べ」

「いきなりファーストネーム呼びは、ちょっと恥ずかしくない?」

「……もういい。好きにしろ」


 阿保渡は立ち去った。

 若干の怒りを隠せない様子だった。

 きっと今まで何度も苗字を間違われたり、アホとからかわれたりした経験があるんだろうなぁと美憐は勝手に推測を立てる。

 渡は調子が外れたように何度も荷物を抱え直し、階段を踏み潰すようにずかずかと遠ざかった。その足音は壁にも反響し、美憐の雑念すらも騒々しく掻き消す。


「あぼ……わたる、か」


 美憐は反芻する。

 忘れないように繰り返す。

 色彩学原理を惑わす男、阿保渡。


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