第1話-5『わたしの終わり』
それから、彼と過ごす日々はとてもとても楽しかったです。
深夜の街に彼を連れだしてみました。
人気のない公園で待ち合わせをして、タイミングを見計らって彼の隣に現れてみました。驚きの混じった彼の表情に胸がすっとしました。
ジャバウォックなどのことについて語ってみせたりもしました。聞きかじりの知識でしたが、それらしく説明できたと思います。
ただ、全身変身と部分変身について説明した時は
「それは、爪だけ変身できる自分はすごい、って言いたいの?」
と彼が聞いてきたので、自慢気な様子が見て取れてしまったのかもしれません。反省です。
夜の街を彼と連れ立って歩いている時は、早く獣人が来ないかいつもそわそわしていました。
獣人と出会うと、彼は怯えたような表情をします。でも、それも少しだけです。
私が獣人に爪を突き立てれば、すぐに彼は驚きと尊敬の混じった眼で見てくれます。それが嬉しくて、ついつい派手にやってしまうことも多くなりました。
あれは、獅子の獣人を殺した日のことでした。
いつもより興がのってしまい、派手に獣人をバラバラにしてしまいました。
もしかしたら引かれたかもしれないと彼を見ると、やはり彼は羨望と敬意の混ざった視線で私を見ていました。
「全く……毎度毎度、飽きないね」
「飽きなんてするもんか。だって、こんなもの……見たことがない」
「君の言うところの"普通じゃないもの”だっけ?」
彼はこくりと頷きました。
「"普通じゃないもの”ねぇ。私もそう見えているんだっけ?」
私がそういうと、彼は大きく首をふりました。
「そうだけど……でも、君は別格だよ。君だけは、特にすごくて、素敵だ」
彼の答えを聞くと、私のお腹の底からゾクゾクと快感が湧き上がってきます。
そんな風に、彼と私は夜の街の徘徊を続けました。
彼に尊敬されるため、わたしは工夫を凝らしました。どうしたらすごく見えるか、何を話せば普通じゃなく聞こえるか。
そのためには、少しだけ嘘もつきました。
「わたし」は「私」とは別の存在です。「わたし」と「私」に連続性なんてありません。「私」は何にでも変身できる凄いジャバウォックですが、「わたし」は「私」にしかなれません。
そのことは、彼には伝えませんでした。
でも、これぐらい大した嘘じゃないと思います。だって彼は「私」を求めているし、「わたし」は「私」を褒められれば満足なんですから。
だから、何も間違っていないんだと思います。
きらめくような「私」の夜とくらべて昼の「わたし」は退屈でした。
今日もまた、代わり映えのない日々を過ごしています。
隣の席の彼は眠そうにしています。「私」が毎夜連れ回しているから寝不足なのかもしれません。
彼は「わたし」に見向きもしません。「私」と彼は面識があっても「わたし」と彼に面識はないのだから当然です。
眠そうにしている彼に、こないだの不良達が近づいてきました。
彼らはニヤニヤしながら彼を小突き、小馬鹿にした声をだし、反応しないことに苛ついて、強引に彼を起こしました。
「無視してんじゃねえよ」
不良は不機嫌そうでした。トラブルの臭いがしました。クラスの人達が、彼を遠巻きにみていました。
彼があくびして、不良が彼を殴りました。彼が床に倒れ、血が流れました。
彼と眼が合いました。
「ばっ、何やってんだよ!」
「うわっ、血ぃ出てる!」
「先生呼べ先生!」
不良たちがいなくなって、誰かが先生を呼びに行って、彼が連れて行かれました。
教室はしばらくザワザワとしていて、次第に高揚はおさまっていきました。
その間、わたしは何も出来ませんでした。
倒れた彼と眼が合った時、彼の眼には何の感情も浮かんでいませんでした。
彼は、わたしに、何も期待していませんでした。
吐き気がこみ上げてきました。もう、こんなところに居たくありませんでした。
かばんをつかみ、駆け出しました。少しだけクラスメイト達がわたしの方を見ましたが、すぐに興味を失ったようでした。
当然です、わたしはなにも持っていません。
わたしは何もできません。
わたしは凡庸な女の子です。
誰かに期待されるようなものなんて、何一つとして持っていません。
でも「私」は全部持っています。
だからわたしはわたしでなんか居たくありませんでした。一刻も早く「私」になりたいと、そう思いました。
「私」は彼を帰り道で待ち伏せしていました。彼の家は以前確認していたので問題はありませんでした。
そう待たずに、彼の姿を見つけることが出来ました。彼はいつもどおりの制服姿でかばんを持っていました。頬が痛々しく腫れていました。
その姿を見ると、胸が痛みました。何も出来なかったわたしに怒りを感じました。
でも、「私」にはなんでも出来るのです。一刻も早く、それを彼に知ってほしいと思いました。
彼に声をかけました。彼はいつものように私と会話しました。彼の眼には、喜びが浮かんでいました。私を、何の感情も浮かばない眼で見ることなんてありませんでした。
「ああいうの、ウザいだろう?」
「まあ、そりゃね」
「消したいなら手伝うけど」
私はあいつらを殺すことを提案しました。だって、私ならなんでもできるから。
ただの人を殺すのは初めてだけど、何も問題ありません。わたしと私は違います。
あんな奴らの命より、彼が向ける一欠片の敬意と、期待と、喜びの方が私にとっては重要でした。
私は彼に詰め寄りました。彼が頷いてくれれば、わたしは精一杯の私を彼に見せることができるのです。
彼の眼には、ためらいが浮かんでいました。彼は確実に、私との間に距離を感じていました。
「……いや、ごめん。君に負担をかけたいわけじゃないんだ」
ありきたりな言い訳が私の口から出てきました。
「ただ、そういうことも出来る。それだけは覚えておいてくれ」
凡庸な懇願が、私の口から出てきました。
彼は逃げるように去って行きました。
私はどうすればいいのか、わかりませんでした。
――――
その夜、私は待ち合わせの時間よりずいぶんと早くに公園にやってきていました。
ベンチに腰を掛けました。古びて明滅を繰り返す街灯を、ぼんやりと眺めていました。
彼のことを思い出しました。
彼は「わたし」には期待してくれません。わたしは何も出来ないからです。
彼は「私」に距離を感じていました。私は彼に出来ないことが出来るからでしょうか。
どちらが正しいのか、わたしにはわかりませんでした。
いえ、本音をいえば正しさなんてどうでも良かった。ただ、褒められたかった。唯一のパートナーである彼に、「私」を認めて欲しかった。もう二度と、私を褒めてくれる誰かを手放したくなかった。あの時の行動は、ただその一心から出てきたものでした。
それが間違いだったのでしょうか。だったら、わたしは、私は、どうすればよかったのでしょうか。
どれだけ考えても、答えはわかりませんでした。
街灯が、ふっと消えました。次についたとき、私の前には大きな影が立っていました。
背の高い、男の人。街灯が逆光になって顔は見えません。夜なのにかぶっているつば広の帽子と、マスクのように顔に巻いている灰色のストールが少しだけ印象に残りました。
「―――」
男の口から、何か言葉が出てきました。私はなんと言われたかわかりませんでした。
「―――」
男はもう一度、同じ言葉をいいました。聞き覚えはありました。何のことだか、わかりませんでした。
「答えろ、―――」
いいえ、聞き覚えはありませんでした。だって「私」は「私」だからです。だからそんな。
「答えろ、―――」
「私」は「わたし」の名前なんて知りません。知りません。だから答えることなんて出来ません。
夜風が吹きました。男のコートがなびきました。茶色のコートの裾には、黒っぽい染みがいくつもついていました。
「目をそらすな、お前は―――だ。お前の姿は、お前そのものだ。お前の成すことは全て、お前の物だ」
「違う!」
私は、叫んでいました。
「私は私だ!わたしじゃない!わたしには、私のようになんて出来ない!」
男は首を横に振りました。
「お前は、お前だ。その行為も、その殺意も、その欲望に醜く歪んだ顔も、すべてお前だ」
どこかから、叫び声が聞こえました。それは私の口から出ていました。
「違う。それはお前の意思が起こした行為だ」
マリオネットのように私の手が動きました。いつの間にか爪が生えていました。爪は自動的に男の首へと吸い込まれていきました。わたしにはこんなことできません。
「違う。それは」
爪は勝手に決してわたしの意思ではなく男の首をはねようとしました。
「お前の成す、行いだ」
ガキン、と硬質な音が響きました。爪が折れていました。こんなこと、初めてでした。
男は錆びた鉄パイプを構えていました。爪を折ったのはその鉄パイプでした。
「―――」
男は誰かの名前を呼びました。鉄パイプを振り上げました。
私は飛び退って避けようとします。身体が思うように動きません。こんな惨めな動きを「私」がするはずがありません。
振り下ろされた鉄パイプが、私の腕を打ちました。腕が、半ばから折れて曲がっています。断面から血が溢れ出しました。
腕を斬る傷は何度も見たことがあります。私がそうしたからです。断面は綺麗で、まるで初めからそうであったような気すらしたものです。
折れた私の腕は違いました。肉がちぎれ、骨がくだけ、ささくれだった断面は、もうどうしようもないほど壊れてしまったことを実感させました。
恐怖がこみ上げてきました。私が死ぬ、それが迫り来る現実として感じられました。
「―――」
男は誰か知らないけどわたしの名前を呼びます。私の身体が壊れていきます。
泣きたくなりました。わたしは何も出来ない女の子です。何も出来ないんです。何が悪かったというのでしょうか。
視界の端に、彼の姿が映りました。わたしはつい、助けを求めるように彼を見てしまいます。
彼は恐怖に歪んだ顔を見せて、踵を返して走り去っていきます。
去り際、彼の瞳が見えました。その中には醜く卑屈な笑いを浮かべる、矮小な誰かの姿が見えました。
あんなのは私じゃない。私じゃない。だったら、仕方ない。彼が求めていたのは私なのだから。私じゃないものがいたら逃げてもしかたない。
鉄パイプが破壊していきます。私が潰えていきます。私が消えていきます。私は……わたしは……
――こうして、わたしの日常は、終わっていくのでした。
――――
あの夜以降、彼女と会うことはなかった。
どれだけ待っても、彼女が現れることはなく、いつしか俺は待つことをやめていた。
彼女がいなくなっても、俺の日常はたいして変わらない。
不良共は停学をくらった。傷害事件となるとそれぐらいは仕方ないのだろう。
風のうわさでは彼らは停学中にトラブルを起こして退学していったらしい。今はどうしているのかは知らない。
隣の席の女子が行方不明だという話を聞いた。よく知らない人だったので、そうかとしか思えなかった。
結局……俺の日常は、何も変わらなかった。
「最近、寝不足じゃないみたいだね」
前の席のやつが話しかけてきた。
「特になにもないからな」
俺はそう答えた。
第一話「血塗れた少女と平凡な少年」 おしまい
第二話「ぼくとボクと僕の場所」へ つづく
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