第1話-4『私の始まり』
――これは、わたしの日常が変わる話です。
夜の路地裏を、わたしは走っていました。
九月上旬の空気はまだ残暑の熱がこもっていて、普段なら走ったりすると汗が滲んできます。
でも、今は一滴の汗もかきません。
スラリと伸びた長い足はカモシカのように地面を蹴ってぐんぐんと進んでいきます。黒くて長い髪は、夜の闇をそのまま抜き出したようにしっとりとした輝きをたたえています。
切れかけの蛍光灯がまたたき、窓ガラスにわたしの姿が映ります。そこには、見たこともないような美しい少女が居ました。
うぬぼれではありません。わたしはパッとしない女の子です。
髪はくせっ毛がひどいし、背は無駄に高いし、そのくせスタイルは良くないし、だからといって運動が出来るわけではないし。
夜闇を切り裂くように走る足も、烏の濡羽色の長髪も、ため息のでるような美貌も、そして、右手に生えた刃物のような爪も、私にはなかったものです。
ふいに、私の前に何かが飛び降りてきました。それは猫の頭がついた人間のような生き物でした。
あの日、私がこの姿を貰った日から、このような獣人とは時々会うことがありました。
獣人は私を威嚇するように唸り声をあげます。
当然だと思いました。彼らは私と相容れないと、この姿を貰った時にそう言われていました。
突き出された猫の爪を右手の爪で受け止めました。猫の爪はバターのように裂け、そのまま拳の辺りまで私の爪が食い込みました。猫は苦しそうに呻きました。
そのまま右手を振りぬくと、猫の腕が斜めに切れました。噴き出る血がやけにスローモーションで見えます。
続いて猫の首に向けて爪を振るうと、喜劇のようにあっけなく猫の首がとれました。
首と右腕がなくなって動かなくなった猫の身体を手で触れました。
私の変身はとても強力で自分の身体以外の色々なものも作り変えることができると聞いていました。だから、死体の始末もお手のものです。
「これで、おしまいですよね……」
独り言をつぶやくと、違和感がありました。
こんなに美しいのに、こんなに強くて、なんでも出来るのに、しゃべり方がわたしのまま、というのはおかしなことだと思いました。
「おっと、いけないいけない。ふぅ……いや、まあまあ楽しめたが、私の方が強かったね」
「私」は「わたし」ではありません。だからこうやって、出来るだけ「私」にふさわしい振る舞いをしなければいけないと思います。
壁を蹴り、軽やかにビルの屋上まで登りました。空を見上げると半月が浮かんでいました。
遮るもののない風が屋上に吹きました。晩夏の空気は生ぬるかったけれど、それでも、高揚した身体には心地よく感じました。
「ああ……夜風が気持ち良いな……」
火照った身体を冷やしながら、わたしはぼんやりと先月末のことを思い出しました。
遊ぶ人も居ない、楽しくなかった夏休み。夏期講習の帰りで出会った人は、わたしに「私」をくれました。
「その姿をどう使うかは君の自由だ。けれど、いくつか注意しなければならないことがある」
驚くわたしに、あの人は色々なことを教えてくれました。姿を変える怪物、ジャバウォックの話。ジャバウォックを狩る人々も居ること。変身能力の使い方。
長い間話していたような気もしますし、そうでもないような気もします。大事な出来事だったはずなのに、何故かあの時の記憶にはうっすらと霧がかかっています。
「最後に。ヴォーパルには気をつけなさい。君の力は強力だが、それでもあれの前では無力だ」
確かその時、わたしはヴォーパルとは何かと問うた気がします。少しだけ、ムキになっていたような気もします。
こんなに素敵なものを無力だと言われて、楽しい気分に水を差されたから、ついつ反抗的になっていたのだと思います。
「言葉だよ。現実と言っても良いかもしれない。絶対に会ってはいけないものだ」
抽象的で掴みどころのない表現にわたしは困惑しました。言葉も現実も、避けるようなものでも会うようなものでもないと思いました。
「そうだね。たしかに気をつけてどうこうなるものでもないかもしれない。だが、知っておくにこしたことはないさ」
あの人と会ったのはそれが最後でした。夢かとも思いましたが「私」は残っていました。
ヴォーパルとは未だ会っていません。それが良い事なのかどうかはわかりません。
確かなことはただ一つ。
「ああ……楽しいな」
夜風に吹かれても覚めない胸の高揚を抱いたまま、「私」は夜闇を駆けていきました。
―――――
二月が経ちました。わたしは少し、ほんのすこしだけ「私」に退屈を感じていました。
獣人とは今も時々会うことがあります。蹂躙の高揚は私に満足をもたらしてくれます。
美しい姿も、夢のように動く身体も、とてもとても、素晴らしいものです。
でも、それはわたししか知らないことです。
あの人は「私」のことは出来るだけ他の人には知られないようにしなさい、と言っていました。
それは守るようにしています。
でも、こんなに素晴らしいものを持っているのに誰にも自慢ができないというのは、少しだけ不満なものがあります。
わたしは平凡な女の子です。とりたてて語るようなことなど何もありません。ヘタしたら、隣の席のクラスメイトすらわたしのことを覚えていないかもしれません。
お姫様に憧れていました。ヒーローに憧れていました。主人公に憧れていました。
褒められてみたい、尊敬されてみたい、平凡なわたしは人並みにそんな望みを抱いていました。
だから……誰かに「私」のことを褒めてもらいたいと、そう思っていました。
そんなある日、わたしは……いえ、「私」は彼に出会いました。
彼とは旧校舎で出会いました。いつものように獣人と戦っていて、いつものように止めを刺して、ふと見たら、彼が倒れていました。
見られるのは良くないし殺してしまおうか、そう思ったところで思い出しました。
そういえば、確か彼はクラスメイトだったはずです。
それに気づくと、少しだけ心の底にためらいが生まれました。
獣人は獣人でした。人とはかけ離れた姿をしていたから、ためらいなく殺すことができました。
でも、彼はまごうことなき人間で、喋ったことはない程度ですが知り合いでした。
「最期に何かあれば、聞くだけ聞くけど」
なんとなく、ためらいをごまかすようにそんなことを聞いてみました。知り合いなら遺言ぐらい聞いておくべきだろうと思ったのです。
「……綺麗だ」
その言葉が、まるで雷のようにわたしの心を撃ちました。
私を見る彼の眼。羨望と、恐怖と、期待。それはわたしの中に甘く染み込んでいました。
こぼれそうになる笑みを抑えきれませんでした。わたしは出来るだけ「私」を演じたまま、彼に語りかけます。
「……この状況で、いうことがそれか?」
「正直……何がなんだか。何を言えばいいか、良く分からない」
「まあ、それならそれで構わないさ。君が見たのは悪い夢だ。目を覚ましたら忘れるといい」
彼を殺す気はすっかりなくなっていました。
そんなにも、彼の言葉は私の心を潤してくれたのです。
「いや、とてもじゃないけど、忘れられそうにない」
「そんなに私は綺麗だったかな?」
彼は頷きました。わたしは「私」のふりをするので精一杯でした。
これ以上はいけない。いくら甘美でも、これ以上味わうと毒になる。
「ふむ、どうにもこういうのは駄目だな……まあいい。君、私は君を逃がすことにした。今日のことが外にもれなければ、君を生かしておいても特に問題はないしね。だから、今日見たことは誰にも言わないでくれよ。もっとも、言ったところで誰も信じないだろうが」
言い訳をするように告げて、わたしは彼の意識を絶ちました。
後始末をして、ついでに何故か縛られていた彼を開放して、わたしは立ち去りました。
その日の晩は出歩く気には慣れませんでした。ベッドの上で、彼の言葉を何度も思い出していました。
ああ……認められることがこんなにうれしいなんて。
じたばたと手足を動かしますが、一向に気持ちは収まりません。
結局、その日は朝になるまで一睡も出来ませんでした。
翌日の学校では心底驚きました。彼は、わたしの隣の席の男子でした。
意識しないようにしているのに、チラチラと姿をうかがってしまいます。
どうやら昨日彼があんなところに居たのはクラスの不良とトラブルがあったからのようでした。
今日も彼は、不良に絡まれていました。彼はビクビクしていました。
なんとなく気分がよくありませんでした。彼のそんな姿を見ていると、昨日彼に褒められた「私」まで馬鹿にされているように思えました。
気づかれないようにこっそりと席をたったわたしは「私」に姿を変えました。
何をするつもりでもありませんでした。ただ、彼の前に姿を現した時の反応が見たかっただけでした。
あんな奴らよりも「私」のほうが凄いと主張したい、そんな幼稚な意地でした。
効果は抜群でした。彼はあいつらを無視して「私」を追いかけてきました。
追いかけっこはすごくドキドキしました。彼に追いつかれないギリギリの早さで屋上に出て、演出のための小道具も作って、最高の出会いを用意しました。
「普通じゃないものが、欲しかったんだ。普通の、平凡で、息が詰まる毎日なんかよりも、その……君のことが、気になって」
そんな計画は、彼のまっすぐな言葉一つで消し飛んだけれど。
こうして、わたしは最高のパートナーを手に入れました。
私に憧れ、私を褒め、私に惚れ、私を畏れてくれる。私の願いを全て満たしてくれる、最高のパートナーを。
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