>>the third term

――#15

1.「そのほうが君らしいです」

 三学期初日の朝だった。


「グッモーニンッ! 弓月くん、朝だよ。起きて」


 意識が限りなく覚醒に近づいている僕の耳に飛び込んできたのは、佐伯さんの声。


 身に染みついた習慣とは恐ろしいもので、昨日まで冬休みだったというのに、今日にはもう普段通りの起床時間に合わせて目が覚めはじめていたのだ。


 ぎし、という音とともにベッドのスプリングが軋む。佐伯さんが体重をかけたのだろう。


 瞼を開ければ、彼女が上から覗き込んでいた。


「……おはようございます」

「うん、おはよう」


 佐伯さんが笑う。


 懐かしいやり取りだった。

 冬休み中は起こされるまでもなく自分から起きていたし、時々遅くなって佐伯さんが声をかけにくることもあったが、実際のところむりに起きなくてはいけないわけでもないので、彼女もここまではしなかった。佐伯さんの声を時間の目安にしていただけ。


 僕が緩慢な動きで上体を起こすと、覆いかぶさるようにしていた佐伯さんが後ろに下がった。


「……眠い、ですね」

「だらしないなぁ」


 腰に手をやり、呆れた様子の佐伯さん。


 朝なのだから仕方がない。僕は寝起きは悪くないほうだが、それでも朝は眠い。特に今日は昨日までと違い、時間的にも早いのだから。


「……そして、寒いです」

「リビング、エアコンつけてあるから、寒いならむしろ早く起きたほうがいいよ」


 そう言った佐伯さんは、上にはゆったりとしたフード付きのパーカーを着ているものの、足のほうはショートパンツだ。うっかりすると見惚れてしまうほどすらりとした足が剥き出しになっている。寒くないのだろうか。


 彼女は寒がる僕の様子に小さく笑い、部屋を出ていった。





 朝食前、


「そんな恰好で寒くないんですか?」


 何となく聞いてみた。


 ふたり用のダイニングテーブルについた僕の前には和風の朝食がひと通りそろっていた。佐伯さんは最後となる自分のご飯を炊飯器からよそっているところだ。


「これ?」


 彼女は足を後ろに跳ね上げるようにしてみせる。スリッパは床に残したまま。裸足の足の裏が見えた。


「冬だからこそ足を出さないと」

「どういう発想ですか」


 ファッションのためなら多少の寒さも我慢する、といったところか。健康のためなら死んでもいいに通じるものがあるな。


 ご飯をついだ茶碗をもって佐伯さんが席に着いた。いただきます、と一緒に食べはじめる。


「夏には隠してたわけでもないでしょうに」

「もちろん。夏は勝負に出ないと」


 佐伯さんは力を込めて言い切った。


「結局夏も冬も一緒じゃないですか」


 目のやり場に困るような格好でうろつかれるこっちの身にもなってほしいものだ。


 僕はひとまず気持ちを落ち着かせてから、諭すように切り出す。


「家では多少ラフな格好も目をつむりますが、外では気をつけてくださいよ」


 僕が心配してそう言うと、佐伯さんは意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「独り占めしたい?」

「……前言撤回。家でも気をつけてください」


 家では無防備極まりないのだから。やはりこのあたりでしっかり注意しておいたほうがいいのかもしれない。


 すると佐伯さんは腕を組み、何やら考えはじめた。いったい今のどこに考える余地があったというのだろうか。やがて彼女は何か閃いたように、ぽん、と手を打った。


「たまに見えるのがいい!」

「君、日本語に不自由するほどアメリカ生活は長くなかったはずでしょう」


 彼女のたわごとは無視し、焼き鮭に箸を突き入れる。佐伯さんも食事を再開した


「大丈夫、安心して。外じゃわたしは完璧に鉄壁。帝国の双璧です」

「だったらいいですけど」


 というか、帝国の双璧とはなんだろう。


「あ、いい機会だし、せっかくだから聞いとこう」


 ふと何かを思い出したらしい佐伯さん。


「何ですか?」

「弓月くん、ナマ足派? それともストッキング派?」

「……そんなところで派閥や主義を主張した覚えはありませんよ」


 何を聞かれるのかと思えば、とてつもなくどうでもいいことだった。僕はきっぱりと言い切る。


「でも、好みくらいあるでしょ?」

「ありません」


 なぜあることが当たり前みたいな言い方なのだろう。


「仮にあったとしても、君には関係のない話です」

「大アリじゃん」


 佐伯さんは心外そうに発音のボリュームを上げた。


「好みの恰好をしてほしいのとしてあげたいのとで……いわゆる戦略的互恵関係?」

「たぶん使い方を間違ってますよ。それに君が戦略と言うと罠に嵌められそうで怖いです」

「え? 弓月くんってこっちがわざわざ戦略とか立てなくても、勝手に罠でもなんでもないところに嵌まり込まない?」

「は?」

「……」

「……」

「……」


 認識に相違あり。

 寝耳に水だ。まさか僕がそんなふうに見られているとは思わなかった。


 軽くショックで、この後、僕は黙って朝食を食べ続けた。





 そうして三学期最初の登校。


 当たり前のように佐伯さんと一緒に家を出て、学校へと向かう――のはいいのだが、こういう状況にすっかり慣れてしまって、もうぜんぜん疑問をもっていない自分がいるな。振り返ってみれば、学校がらみで佐伯さんとの接触を避けていたのは最初だけで、ぜんぜん長続きしなかったというのが正確なところだ。


 僕たちの通学路は、途中から学園都市の駅と水の森高校とを結ぶ道に合流する。


 多くの生徒が学校へ向かって歩いていて、その様子は長期の休み明けで気だるげだったり、久しぶりにクラスメイトと会ってはしゃいでいたり、と様々だ。僕も佐伯さんも、周りに知った顔はないようで、その流れに乗って学校へと向かった。


 そして、辿り着いた昇降口。


「む……」


 それまで機嫌よく話をしていて佐伯さんが、いきなり発音を途切れさせた。


 理由は前方、我がクラスの下駄箱付近にあった。そこに宝龍さん――宝龍美ゆきがいたのだ。上履きに履き替えるところのようだ。


「それじゃあね、弓月くん。また放課後」


 佐伯さんは何ごともなかったかのように――そう、宝龍さんなど見なかったかのように、体の向きを変え、自分のクラスの下駄箱へと向かった。今朝はここで別れるようだ。いつもならこの後も一緒に廊下を歩くことも多いのだが。


 もちろん、このやり取りは宝龍さんも見ていた。


「相変わらず嫌われてるようね」


 彼女は近づいてきた僕に声をかけてくる。僕は靴を履き替えながら答えた。


「そのようですね。でも、宝龍さんも佐伯さんのことはよく思っていないのでは?」

「そうね。少なからずそういうところはまだあるわね」


 このふたりはあまり仲がよくない。


 原因のひとつは一昨年、かなりいいかげんな理由から宝龍さんが僕とつき合いはじめ、挙げ句、三か月もたたないうちに別れたことだ。その際、スクールカースト的な力学により僕のほうに少々悪評が立った。その誤解を解こうとしなかった宝龍さんを、佐伯さんはまだ赦していない。


 もうひとつは、去年の学園祭のころ、佐伯さんが情緒不安定になっていたことだ。そのとき宝龍さんは、周りを振り回す佐伯さんの態度に激怒し、手をあげそうにもなっている。そのしこりがまだ残っているのだろう。


 見事に双方向。


 上履きに足を突っ込んだ僕は、待ってくれていた宝龍さんとともに歩き出した。


「でも、そろそろ水に流すべき時期だとも思ってるわ」


 向こうはどう思ってるか知らないけれど――と、宝龍さんはつけ加える。


 これには少なからず驚いた。

 この、人の目を奪いながらも人を寄せつけない冷たい美貌の持ち主は、その見た目の通り人に好かれる努力とも人を好きになる努力とも無縁だと思っていた。好かれようが嫌われようが、本人は意に介さないのだとばかり。


「意外?」


 僕の心中を見透かしたかのように、宝龍さんは微苦笑する。


「これでもあの子には一目おいてるつもりなのよ」

「そうなんですか?」


 今度こそ僕は口に出して問い返していた。


 常に周りから一歩引いて、世間を睥睨しているような宝龍美ゆきの台詞とは思えなかった。


「恭嗣、あなた彼女とああいう出会い方をしなかったら、今ごろどうなっていたと思う?」


 不意に彼女は問うてくる。


「そうですね。別にどうにもならなかったんじゃないでしょうか」


 学校においてはひかえめながらどこか華やかなものをもった佐伯さんに対して、僕のほうはというと多くの生徒の中に埋没する平々凡々な一介の男子生徒。多少悪評がついて回っていたものの、新入生にまで伝わるほどではないだろう。


 まず接点はなかったはずだ。


 一方、僕が彼女の噂を聞く可能性は十分にあっただろうとは思う。事実、滝沢は僕に、トップの成績で入試をパスした帰国子女の話題をもってきたわけだし。だけど、僕の性格では、そんな話題沸騰の新入生と自分は住む世界が違うと思ったに違いない。彼女は僕とは無関係な人間だと。もし仮に、だ――何かの拍子に僕が彼女に好意を抱いたとしても、何のアクションも起こさなかっただろう。なぜなら佐伯さんの目には、僕は何ら特別なところのない、たくさんいる生徒のひとりとしか映っていないはずだから。


「恭嗣らしい分析ね」


 僕が自分の考えを簡潔に述べると、宝龍さんはそう小さく笑った。


「でも、あの子はぜんぜん違うことを思ってるみたいよ」

「と言いますと?」

「前に言ってたのよ。こんな出会い方をしなかったとしても、この学校で恭嗣を見つけ出しただろう。恭嗣を選んで声をかけただろうって」

「……」


 佐伯さんがそんなことを。僕には初耳の話だ。


「まぁ、言うだけなら簡単ですよ」


 特に佐伯さんには宝龍さんへの対抗心もあっただろうし。


「そうね。でも、残念だけど私はクラスや学年が違っていたら、恭嗣には気がつかなかったかもしれない。自信のないことは言えないわ。その点、あの子は言い切った」

「佐伯さんらしいです」


 彼女ならもしかしたら本当に、と思わなくもなく――僕は自然、笑みを浮かべていた。


 だが、それもすぐに消える。


「でも、僕は佐伯さんの目にとまるほどスペシャルな人間じゃありませんよ」


 もちろん、今の状況を偶然の産物だと否定するもりはない。確かに知り合ったきっかけは偶然の重なりだけど、佐伯さんが僕が自分でも気づいていない僕の何かを見て好きになってくれたのも事実なのだろうと思う。


 僕が否定の言葉で断じてしまったせいで、話は途切れてしまった。


 しばらく互いに黙って廊下を歩いていたが、程なくして宝龍さんが口を開いた。


「恭嗣、少し雰囲気変わった?」


 訝しむように、そして、どこか心配するように宝龍さんは訊いてくる。


「そうですか? 自覚はありませんが」


 自覚はない。でも、そういうこともないわけがないとも思う。


 きっかけになり得るとしたら、あの人の死に立ち会ったことだろう。あの一件で僕は拭うことのできない大きな後悔を抱えてしまったし、未だ自分を赦せないでいる。そんな僕の今の精神状態が、宝龍さんには感じ取れているのかもしれない。


「冬休みに何かあった? ……ああ、あの子と」

「何もありませんよ」


 廊下で妙なことを口走られる前に、きっぱりと言っておく。


「あなたたち、一緒に住んでるわりには、よく何もなくすんでるわね」

「佐伯さんのお父さんとそういう約束なんですよ。高校生のうちは高校生らしいつき合い方をする、というね。それを条件に今の状況を認めてもらっています」

「ふうん。まぁ、あの子、芯は強いみたいだけど、そういう部分はおとなしそうよね」

「……」


 そうでもないのだけどな。僕は今朝のやり取りを振り返りながら思う。無論、そんなことはいちいち言わないし、言えば最悪ぜんぜん約束を守れていないと指弾されかねない。


 それにしても、佐伯さんは人によって印象が変わるようだ。両親の前ですら微妙に猫をかぶっているし。


 尤も、誰しも大なり小なり場面場面で自分を使い分けるものだ。友達に見せる顔を親にも見せられるかというと、きっとそんなことはないだろう。逆もまた然り。目上の人間に対する礼儀だって、TPOによる自分の使い分けだと言える。接する人間の種類によって印象が変わるのは、別に佐伯さんに限ったことではないだろう。


 歩く僕たちの前に教室の入り口が見えてきた。約二週間ぶりの教室だ。





 学期の初日にやることなんてたかが知れている。


 寒空の下グラウンドで始業式があり、教室の戻れば担任教師からの連絡事項。早急に決めないとけないことを決めれば、それで終わり。先生に明日からさっそく通常通りの授業だと言われて返すブーイングも予定調和で、ある種の恒例行事めいている。


 そして、放課後。


 終礼の後、廊下を見てみれば、待ってくれている佐伯さんの姿があった。


 手早く荷物をまとめ、僕が立ち上がろうとしたときだった。まるでそれを遮るようにして、僕の前にすっと宝龍さんが立った。


「恭嗣はもう十分待ってから帰りなさい」

「なんですか、いきなり」

「いいから」


 彼女はやんわりと、しかし、確たる意志をもって僕を制した。


 そうしてから踵を返し――向かうは教室の出口。当然、佐伯さんと鉢合わせし、二、三、言葉を交わした後、ふたりで歩き去っていった。宝龍さんが先を歩き、その背を佐伯さんが挑戦的に睨みつけながらついていった感じだ。


「……」


 心なしか校舎裏で決闘、といった雰囲気だったのだが……。


 とは言え、ふたりともそんな莫迦なことをやらかす人間ではない。むしろどちらかと言えば、ここで心配している僕なんかよりもよっぽど聡明な部類の人間である。仕掛け人である宝龍さんには宝龍さんなりの考えがあるのだろうし、ここは彼女に任せておくことにしようか。


 鞄から文庫本を取り出し、読みはじめる。そして、きっかり十分たってから、僕は席を立った。


 帰路は当然のように登校時の逆回転。

 駅への道からひとつ曲がれば、途端に下校する生徒の姿はなくなる。水の森の学校全体を見ても、ひとり暮らしをしている生徒などひと握り。多くの生徒は電車での通学だからだ。


 そして、その道を少し進んだところに、佐伯さんがいた。


 ガードパイプに体重を預けるようにして立ち、つまらなさそうに携帯電話をいじっている。人の気配を感じたのか、顔を上げて僕の姿を認めると、むっとした顔になった。どうやら僕を待ってくれていたようだが……そんな顔を向けられてもな。


「先に帰っていればよかったのに。寒かったでしょう」

「……」


 佐伯さんは何も答えない。


 こうしていても仕方がないし、とりあえず歩き出してみれば、程なく佐伯さんがぽつりとこぼした。


「もう、なんなのよ、あの美人すぎる留年生は」

「……」


 周りが触れないようにしている部分に、これまた古い修飾語をつけたものだな。


「宝龍さんとどんな話をしたんですか?」

「別に、普通。普通に話をしただけ」

「そうですか。普通でしたか」


 どうやら宝龍さんはひとまず接し方を変えただけで、今すぐにクリティカルなターニングポイントをつくる気はないようだ。


「弓月くんは知ってたの?」

「ええ、まぁ」


 宝龍さんがこういう行動に出る、ということならば。


「宝龍さんも君と仲よくしたいと思ってるんですよ」

「わたしは別に、そんなこと思って……」


 佐伯さんはうつむいたまま発音するが、その声は途中で力なく途切れた。


 思っていない、と続くのだろうな。佐伯さんはまだ怒っている。宝龍さんを赦していない。自分ではなく、人のために怒れるというのは彼女の美点のひとつではあるのだろうが、しかし、残念ながらそれは僕が望むものではないというのが正直なところだ。


 落胆しかけた僕の耳に佐伯さんのつぶやきが聞こえてきた。


「でも――このままでいいとも思わない、かな」


 思わず彼女の横顔に目をやる。


「だって、誰かを嫌いなままでいるのって自分も疲れるから」


 佐伯さんも顔を上げて僕を見、笑った。


「そうですね」


 佐伯さんがそう思ってくれるなら、関係改善の可能性は十分にありそうだ。佐伯さんだってそろそろ水に流したいのだろうし、以前の自分の態度を反省してもいるのだろう。彼女が言う通り、誰かにマイナスの感情を抱き続けるというのは、思っている以上に自分に返ってくるものだ。そして何より、


「そのほうが君らしいです」


 佐伯さんが人を嫌ったりしている姿は、あまりらしくない。


「弓月くんは? どう思ってる?」

「僕ですか? まぁ、知っている女の子ふたりが仲が悪いのは、僕としても寂しいものがありますね」

「ふーん」


 何やら訝しげに相槌を打つ佐伯さん。


「わかってる? その女の子ふたりは、今の彼女ともとの彼女だってこと」

「ああ」


 と、僕はうめく。すっかり忘れていたな。


「宝龍さんとはかたちだけで何もなかったから、つき合っていたという自覚が薄いんですよ」

「……ま、別にいいけど」


 ぷい、とそっぽを向くみたいにして、佐伯さんは歩く速度を上げた。僕が二歩分ほどおいていかれる。が、すぐに彼女は振り返った。


「じゃあ、何かありまくりのわたしと、そろそろ新しいことする?」


 いたずらっぽく笑って、そんなことを言う。


 僕は思わず黙り込んだ。

 もちろん、考えてしまったのではなく、呆れたのだ。


 トオル氏との約束を積極的に破らせようと誘いかけてくるこの佐伯さんを、誰かどうにかしてくれないものだろうか、と。佐伯さんこそが最大の障害のような気がしてならない。

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