2.「女の子ですか?」

 三学期は短い。

 冬休みが明けたばかりだと思って油断していると、気がつけば学年末考査が目の前だったなんてこともよくある話だ。


 ――今は夜。


 早くも学年末考査を意識しはじめた僕は、自室で勉強中だった。


 取りかかるは数学。だけど、どうにも解法に自信がもてない。やっていることは一年生の範囲なのだが。少し考えた末、僕はイスから立ち上がった。


 部屋を出る。

 と、リビングには勉強の合間の休憩なのか、佐伯さんがいた。


 彼女のタンクトップにオフショルダーのトレーナーというスタイルの部屋着は、リビングに空調が効いているからいいようなものの、見る側にとっては少々寒そうに映った。


 そんな彼女は自分の座イスに座って、マグカップでコーヒーを飲んでいる。カフェオレだろう。もちろん僕のコーヒーを、などと言うつもりはない。なくなったらなくなったで、ひと声かけてくるだろうから。少なくとも一杯分は残っているはずだ。


 佐伯さんは部屋から出てきた僕を見て、「おー」とひと声。


 僕も何か返そうと思ったとき、テレビから新しいニュースが流れ、意識がそっちにいってしまった。なんでもどこかの資産家の若夫婦(と言ってもどちらも四十代だが)が不幸な交通事故で亡くなったのだとか。毎日のようにある、どこそこで殺人があったとか、与党と野党の思惑が云々とか、そういったニュースとは違い、少し珍しい種類のものだったので、思わずふたりして見入ってしまった。しかし、意外にあっさり次のニュースに移ってしまうと、僕たちは呪縛から解放されたかのようにテレビから目を離した。


「弓月くんも休憩?」

「あぁ、そうでした」


 言われて僕は用件を思い出す。


「今使ってなければでいいのですが、少し数学の教科書を貸してもらえますか?」

「いいよ。ちょっと待ってて」


 そう快諾して立ち上がる佐伯さん。


 彼女のボトムはショートパンツだった。いよいよ冬場とは思えない部屋着だ。自室のドアの向こうに消えた佐伯さんは、すぐに教科書を手に戻ってきた。


「はい」


 立ったままそれを僕に手渡し、またもとの位置におさまる。


「何かわからないこと?」

「そんなところです」


 佐伯さんがテーブルに身を乗り出すようにして聞いてくる。僕は彼女を見――そして、すぐに視線を戻して、受け取った教科書を開いた。


「何ならおしえてあげようか?」

「単なる確認ですから」


 僕は視線を下方向に固く固定したまま返す。


「残念」


 特に残念でもなさそうに、佐伯さん。


 やり取りはそれっきり。


 僕が目だけで佐伯さんを見ると、彼女は先ほどの構造のままだった。動いた気配がなかったので、案の定だ。

 仕方なく僕は指摘する。


「佐伯さん、その服でそういう姿勢はやめてもらえますか」

「へ?」


 彼女は素っ頓狂な声を上げる。


 ゆったりとしたトレーナーの下のタンクトップはずいぶんと大胆に前が開いているようで、前屈みになるとかなり奥まで見えてしまう。


 ワンテンポ遅れてようやくそのことに気がついた佐伯さんは、胸の前を手で押さえながら飛び退くようにして身を引いた。


「……み、見た?」


 そのままでおそるおそる問うてくる。


「見てませんよ」


 最初の不可抗力はあれど、少なくとも自発的には見ていない。


「……」

「……」

「見る?」

「見ません」


 間髪入れず答える。


「即答されると傷つくんですけどー?」

「知りませんよ、そんなこと」


 佐伯さん的にはここは傷つくポイントなのか。


 僕の言葉に口をへの字に曲げていた佐伯さんだったが、急に何か思いついたのか「きらーん」とわざわざ自分で効果音をつけつつ、表情を明るく変えた。


 立ち上がるのももどかしい様子で、立て膝のままテーブルを回り込んでくる。そして、最後には両手も床について、四つん這いの構造で僕の顔を覗き込んだ。また胸もとが大きく開き、奥にある豊かなふくらみが見えそうになる。不覚にも僕の視線は上と下を行ったりきたりしてしまった。


 そんな僕におかまいなしに――いや、むしろ手ごたえありとばかりに、佐伯さんは切り出した。


「ね、久しぶりにしようか?」

「何をですか、何を」

「もー、わかってるくせにー」


 少し顔を赤くし、照れているらしい佐伯さんは、肘で僕を小突いてくる。


「わかりませんし、何もしません」


 僕は彼女から体ごと顔を背け、再び教科書に向かった。隣から「む……」と不満げな発音が聞こえたが、無視。


 しかし、直後。


 ページをめくっていた僕の手首が、がしっ、と掴まれた。


「……何ですか、これ」

「あ、いや、触ってしまえば弓月くんもその気になるかなと思って」


 しれっとそんなことを言う。


「冗談じゃない、やめてください」

「因みに、わたしはすでにスイッチがオンです。あと、例の如くノーブラです」

「知りませんと言ってるでしょう。後者については、例の如くそうだとは思ってましたが」

「……」

「……」


 そのとき傍目には、僕たちはただ単に睨み合っているように見えただろう。だけど実際には、佐伯さんは僕の手を引き寄せようとし、僕は1ミリも動くまいと腕に力を込め、ぐぐぐぐ……、と静かに熾烈な争いを繰り広げていた。


 その壮絶に不毛な戦いの終了のゴングは、テーブルの上から聞こえた電子音だった。


 ふたりしてそちらを見れば、そこには佐伯さんの携帯電話が。鳴り続けるメロディは、どうやら音声通話の着信を告げているようだ。


「もぅ、いいところだったのに」


 佐伯さんは文句をひとつ吐き出し、体を起こして端末を手に取った。……いいところ、だったか?


「あ、もしもし? 久しぶりー」


 誰だろうか、相手は。久しぶりということは学校の友達ではなさそうではある。……まぁ、尤も、僕が気にするようなことではないが。


「今? うん、大丈夫。どうしたの?」


 そうして彼女は騒々しく自分の部屋に消えていった。


 ひとりになったリビングで、僕はほっと胸を撫で下ろす。まったく、佐伯さんときたら。


 これでようやく落ち着いて本来の目的を果たせる。僕は三度教科書へと目を落とした。自信がなかったところをひとつひとつ丁寧に確認していく。


 と、程なくして、もっと長電話するかと思ったが、佐伯さんが戻ってきた。


「友達だった」

「そのようですね」


 彼女はいつもの場所に腰を下ろす。


「アメリカの学校で仲がよかった子でね。今、日本に帰ってきてるから、近いうちに会おうって」

「帰ってきてる、ということは日本人の女の子ですか?」


 なるほど。会う予定が立つなら長々と電話で話す必要はないな。


「ん?」


 しかし、僕の何気なく発した問いに、佐伯さんは妙なリアクションを見せた。


 それからなぜか少し考え――、


「えっと、日本人の……、男の子?」


 言いにくそうに紡いだ言葉は疑問形。


「……」


 それを聞いた僕の中に複雑な思いがよぎった。佐伯さんに悟られてなければいいのだが。

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