2.「相応しい挨拶があるでしょう」
夢に、彼女が出てきた。
初めて見るようなどこかで逢ったような、大人にも少女にも見える、真っ黒なゴシックロリータの衣装を身にまとった――彼女。
黒い、アリス。
今日は機嫌がいいらしく、とても饒舌だった。
彼女は語る。
『彼』と『彼女』の物語。
夢幻に住まう彼女たちの役目。
等々。
なぜそんなことを話してくれるのかと問うと、僕とのつき合いもいいかげん長いからだと言う。……長いか? まだ片手で数えられるほどしかお目にかかっていない気がするが。いや、夢で同じキャラクタに三度も遭遇すれば十分と言えるか。
そろそろ朝ね、と彼女。
夢の中に出てきた人物に朝を告げられたのは初めてだ。
やがて――、
「――さん。起きる。朝。しかも元旦――」
声が聞こえ、意識が覚醒していく。
僕はゆっくりと瞼を開き――何を思ってかその言葉を口にした。
「黒いアリス……?」
焦点が定まらない視線が捉えたのは、夢の中に出てきた彼女――じゃ、ないな。
「ああ、佐伯さんですか……ぐはっ」
間違った代償はエルボードロップ。
そうだ、ここは学園都市のアパートではなく、僕の実家だった。佐伯さんが起こしにくるわけがなく、ましてや夢の産物が現実に出てくるはずもない。
僕は緩慢な動きで体を起こした。
「おはようございます。ゆーみ」
そこにいたのは僕の妹。
昨日は久しぶりに顔を合わせたこともあって、僕のこの部屋で大晦日の特番を見ながら他愛もない話をしていた。そのときは機嫌がよかったが、今はすこぶる悪いようだ。
「おはよう、兄さん。夢から覚めた?」
「夢、か……」
久しぶりの実家の、自室のベッドでの睡眠だったが、特によく眠れたわけでも、うまく寝つけなかったわけでもなかった。ただ、どうやら夢を見ていたらしい。さて、夢というのは睡眠が浅いときに見るものだったか、深いときに見るものだったか。しかし、多くの場合そうであるように、目が覚めた今では夢の内容も急速に薄れつつあった。どんな夢だったかな。
「兄さん、ふたつほど聞いていい?」
ゆーみは普段から平坦な声をさらに平坦にしながら聞いてくる。
「黒井アリスって、兄さんの新しい彼女はキラキラネームなの?」
「……違いますよ」
そもそも新しくなっていない。
「じゃあ、次。そんなによく佐伯さんに起こしてもらってるの?」
「……」
「……」
「……まぁ、よく泊まりにきますからね」
僕は吐血するみたいにして、ようやくそう返事を絞り出した。
よもや去年のゴールデンウィークに咄嗟についた嘘が、ここまで後を引くとは。嘘に合わせて何かを発言するたびに、自分を貶めているようで自己嫌悪に陥るな。
「ふうん、そう」
ゆーみの返事は短い。
その声が冷ややかに聞こえるのは気のせいではないのだろう。彼女の中で兄の株は大暴落しているに違いない。
「兎に角――とっとと着替えて家事を手伝う」
我が妹はふしだらな兄に背を向け、用はすんだとばかりに部屋を出て行こうとする。
「ああ、ゆーみ。言い忘れていました」
が、僕はその彼女を呼び止めた。
「明けましておめでとうございます」
「……明けましておめでとう、兄さん。今年もよろしく」
ゆーみは一瞬驚いたような顔を見せた後、少しだけ笑って言葉を紡いだ。
「まだまだつき合いは長くなりそうね」
我が家では正月の食事は家族一緒にとることになっている。
両親ともに働いてはいるが、元日から出勤しなければいけないような仕事ではないし、僕もゆーみもバイトをしているわけでもない。今年も例年通りの風景になりそうだ。
場所はいつも決まって十畳間の和室。ダイニングは使わない。おかげでおせち料理や皿やら何やらを運ばなくてはいけないので大変だ。
僕は着替えて顔を洗った後、キッチンへと向かった。
「おはようございます。何か手伝いましょうか?」
積極的に母の手伝いをしようと思ったのは、長男としての自覚からかもしれないし、佐伯さんにこのままではいけないと言われたからかもしれない。もしかしたらそれらとはまったく逆で、母への無意識の当てつけの可能性もなきにしもあらずだ。……いや、それはないか。母はあの人がこの世を去ったことをまだ知らない。当てつけにもならないだろう。
「え? あ、恭嗣? おはよう。えっと、そうね。それじゃあとりあえず先にポットを運んでくれる?」
「わかりました」
母は急に現れた息子に驚き、戸惑いながらも指示を出した。
僕はそんな彼女の様子には触れず、言われた通りにポットを手に取った。十畳間へ行くと、すでに座卓の上にはおせちの重箱が重ねたままの状態で置かれていて、そして、部屋の隅にはストーブの前でうずくまるゆーみの姿があった。彼女は僕に気づくと、光の薄い黒目でちらとこちらを見――それだけだった。……人に家事を手伝えといっておいて、自分はそれか。
「恭嗣が家にいるのなんて久しぶりね。三が日はこっちにいるのよね?」
僕がキッチンに戻ってくると、母は雑煮の鍋に向かったまま嬉しそうに話しかけてきた。
「そのつもりです。でも、三日には向こうに戻りますが」
それは帰ってくる前から言ってあったことだ。
「それと――今日は昼を食べたら出かけます」
「そうなの?」
「友人と約束がありますから」
こっちは急に決まった話。佐伯さんの父、佐伯トオル氏に新年の挨拶だ。
最初は昼前に家を出て、途中どこかで昼食を取るつもりだったのだが、さすがにそれは正月からあんまりな態度だろうと思い、やめた。
残念そうな母の様子を認めつつも、僕はその話題をそこで打ち切る。
「次はどれを?」
「じゃあ、このお雑煮を持っていってちょうだい」
母は言いながら鍋にかけていた火を消し、蓋をかぶせる。
僕は母と入れ替わりにコンロの前に立ち、その鍋を両手で持ち上げた。確か鍋敷きは向こうの和室にもう置いてあったな。
「気をつけてね」
「わかってますよ」
心配されるほど子どもではないつもりだ。尤も、母からすれば僕はいつまでたっても子どもなのだろうが。
そう。僕と母が親子なのはまぎれもない事実だ。
僕の都合に家族が合わせてくれるかたちで昼食を少し早めにとり、家を出たのが昼過ぎ。電車をふたつほど乗り継いで、佐伯さんの実家の最寄り駅についたのは午後二時前だった。
「ゆっみづっきくーん!」
改札を出ようとすると、その向こうから僕を呼ぶ声。佐伯さんがこちらに向かって手を振っていた。
改札口付近には彼女以外にも少なからず乗降客がいて、何ごとかと驚いた人たちが僕や佐伯さんを見る。おかげで思いがけず恥ずかしい思いをする羽目になってしまった。とは言え、そんなのは一時のこと。自分が思っているほど周りは自分のことなんて気にしていないものだ。多少注目を集めたところで、次の瞬間には違うものを見ているのだから。
「えへへー、一日ぶり」
僕が改札を出ると佐伯さんが、こっちがよろけそうな勢いで飛びついてきて、腕にしがみついてきた。べったりと体を密着させた後、上目遣いに問うてくる。
「ね? 寂しかった?」
「君、自分で言ってるじゃないですか。たった一日ですよ?」
実際のところ、時間にしたら二十四時間たっていない。
「もぅ」
僕の回答が不満だったのか、ふくれる佐伯さん。
これでも佐伯さんへの愛情はあるつもりなのだが、一日離れていただけで寂しいと思えない僕はもしかして薄情なのだろうか。彼女の反応を見ていると自分に自信がなくなってくる。
「それよりも新年なんですから、それに相応しい挨拶があるでしょう」
「あ、そだね。――明けましておめでとう、弓月くん。今年もよろしくね」
「明けましておめでとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
かわいらしくお辞儀をしてから笑う佐伯さんに、こちらも頭を下げて応じる。
僕は改めて彼女を見た。
「今日はまた大人しい格好ですね」
本日の佐伯さんは、デニムのロングパンツにセーター、その上にコートを羽織っていて、落ち着いた感じの装いだ。少し大人っぽく見える。昨日の攻撃的なスタイルとは大違いだな。
「家にはお父さんがいるからね」
昨日もいたでしょうに――と問うと、昨日はリビングに首だけ出してただいまの挨拶をすると、さっさと二階に上がったのだそうだ。
「さ、行こっか」
さっそく率先して歩き出す佐伯さんについて、僕も駅舎を出る。
この駅の回りは商業施設が少なく、閑静な住宅街が広がっている。そのせいか前回きたときは日曜だったにも拘らず人の姿があまりなく、少し寂しく感じたものだ。しかし、さすがに元日の今日はそうでもない。初詣に行くのであろう友達同士、グループ、あるいは恋人たち。はたまたショッピングモールにでも行くのか、はしゃぐ小さな子どもをつれた若い夫婦。様々だ。中には着物を着た張り切った女性もいる。佐伯さんもこういうのを着たりするのだろうか。
僕は駅舎の前に広がるロータリィに目をやった。かつて一度だけ見たクーペはそこにはなかった。
「別に期待していたわけではないんですが――てっきり前みたいにおじさんもくると思っていました」
「うちのお父さん、正月は朝からお酒呑んじゃう人だから」
なるほど。飲酒運転はできないな。
あの真面目そうなトオル氏も正月は朝から飲むのか。真面目だからこそ正月だけと決めているのかもしれない。……行ったらベロベロに酔っていたりしないだろうな。
「ちょっと歩くけどいい? バスもあるにはあるけど、休日ダイヤだから本数が少ないかも」
「いいですよ。歩きましょう」
夏なら暑さに閉口しただろうが、今なら歩いてもさほど苦にはなるまい。いい運動になる。
僕らは佐伯邸に向かって足を踏み出した。
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