継章 「これからもよろしくお願いします」と僕らは言った
それからしばらく後のことだ。
僕はもらった鍵でそのドアを開けた。
中には十ほどのテーブル席と、カウンター席。テーブル席の椅子は、今はすべてテーブルの上に乗せられている。掃除がしやすいようにだろう。
カウンターの向こうにはカップやソーサーが収められている食器棚が見えた。ここから見えないところには業務用のコーヒーメーカーやサイフォンが置いてあるのだろう。
「わあ」
後から入ってきた佐伯さんが、僕の前に出て感嘆の声を上げた。
ここは喫茶店だった。
ただし、一年ほど前から休業中の、だ。
そのわりには手入れが行き届いているのは、いつか再開するときのために定期的にメンテナンスをしていたからなのだそうだ。
「けっこういい感じじゃない?」
「そうですか?」
僕にはそのまま休業中、あるいは撤退準備の整った喫茶店にしか見えないのだが、もしかしたら佐伯さんの目には何かしらのイメージが見えているのかもしれない。
ここの所有者は、あの人だった。
そう、『だった』。
僕はそれを二重の意味で過去形を使って表現しなければならない。
あの人はもういない。
そして、
「ここを弓月くんに?」
「らしいです」
いまや所有権は僕にあった。
あの人は結局、生涯独身を貫いたのだという。そして、彼は経営していたここの所有権を僕に譲ると言い遺して亡くなった。
なお、あの日、ベッドの脇にいた女性は彼の妹さんなのだと、後になって聞いた。休業中のこの店の手入れをしていたのも彼女だったそうだ。それならば彼女に譲ってあげればよかったように思うのだが、あの人の遺志を尊重した結果として、僕にこんなたいそうなものが与えられることとなったのである。
さて、この件に関して触れないわけにいかない話がある。
それは僕の母のことだ。
こんな大きなものを譲り受けたことを隠せるはずがなく、母は彼の死と、そして、今までひた隠しにしてきた事実を僕がすでに知ってしまっていることを知り、おおいにショックを受けていた。母は僕のこれまでの素っ気ない態度の理由を知って、僕との接し方が前以上にわからなくなり、僕は僕で相変わらずの態度。――結果、僕と母との関係はさらにぎくしゃくしたものになってしまっていた。
これはきっと母の罪と罰なのだろう。
とは言え、僕はもう同じ過ちを繰り返すつもりはない。いずれ気持ちの整理がついたら、再び母と向き合うつもりだ。
改めて店内を見回す。
「ああ、そうか」
「ん? どうしたの」
僕が思わずこぼしたつぶやきに、佐伯さんが聞き返してきた。
「思い出したんですよ」
「うん?」
と、彼女は首を傾げる。
「僕はこの店に何回かきたことがあるんです」
中学に上がってから何度か、父につれられてここにコーヒーを飲みにきた。あれはきっと僕の姿を彼に見せるためだったのだろう。いつからかそれもなくなったのは、彼が入退院を繰り返すようになってからだと思われる。
もちろん、思い出したのはそんなことではなく。
「前に僕に聞きましたよね? いつからコーヒー好きになったのか、と」
大学の学園祭を見にいったときのことだ。
「その答えを思い出しました。ここで飲んだコーヒーがきっかけだったんです。それまではただ苦いだけでしかなかったものが、ここのはぜんぜん違っていて。それ以来ですね、コーヒーが好きになって、自分でも美味しいコーヒーを淹れられるようになりたいと凝りはじめたのは」
「そうだったんだ」
自分でもまさかこんなところにいろんなルーツがあるとは思わなかった。
「それで――どうするの、ここ」
「さて、どうしましょうかね」
僕はカウンターのハイチェアのひとつを半周回し、そこに腰かけた。
ここを譲り受けるにあたって、好きにしてくれていいと言われている。つまり処分してしまってもいいということだ。そうしたらいったいどれくらいになるのだろうな。
「……」
まぁ、実はもうどうするか決めていたりするのだが。
「ね、覚えてる?」
店の中を興味深そうに歩き回っていた佐伯さんが問うてくる。
「わたしがその後に言ったこと」
「何でしたっけ?」
もちろん、覚えている。
「将来、喫茶店でもやってみたらどうかなって言ったの」
「言ってましたね」
そのときの僕はそれを否定し、国公立の大学へ行って就職という実に堅実で無難で、面白味に欠ける回答をしたはずだ。
「実を言うとですね、あの人の跡を継いでこの店をやってみるのもいいかと思っているんです」
口で言うほど簡単ではないだろうが。
下手の横好きか、はたまた好きこそものの上手なれか。素人に毛が生えた程度の僕にどれだけ務まるかわからないけれど。最大の懸念である資金面に関しては、こうして丸々引き継いだことで大幅に軽減された。今のまま高校に通いつつコーヒーについて勉強して、卒業と同時に新装開店できればと思っている。
どうでもいいことだが、先日この考えをゆーみに話したら、僕のよりもひと桁額の大きい預金通帳を見せられた。いったいどうしてこんなに持っているんだと目を丸くしていたら、彼女はひと言「……株」と言った。……そんなことをしていたのか、僕の妹は。とりあえずそのお金に頼ることのないようにしたいものだ。
「いいんじゃないかな」
僕のそんな無謀な考えを聞いて、佐伯さんは嬉しそうにそう言う。気がつけば店内を見回っていた彼女は、僕のそばまで戻ってきていた。
「ところで、君こそ覚えてますか? その後に自分が言ったこと」
「何だったっけ?」
言いつつもも笑う彼女。
「そうなったときは手伝ってくれるって言ったんですよ」
「うん、言った」
「その言葉に嘘はないですか?」
「もちろん」
佐伯さんは迷いもなくうなずく。
まったくもって、どこまでも物好きだな。
「どうなっても知りませんよ」
「大丈夫、何とかなるって」
気楽に。
「というか、どうなっても最後までつき合ってもらいます」
「まかせて」
そして、気安く。
「……」
「……」
しばしの沈黙の後、僕はため息を吐いた。
そんな僕の行動の意味がわからないようで、佐伯さんは首を傾げる。
「本当に、君は時々鈍くなりますよね」
普段はとても聡いのに。
「僕はこれからもずっとそばにいてくださいって言ってるんですよ」
「え……?」
一瞬きょとんとする彼女。
しかし、すぐに何を言われたか理解し、赤くなって顔を伏せてしまった。
「あ、あの……わたしで、いいの……?」
「何を今さら。ほかに誰がいるというんですか」
佐伯貴理華らしからぬ自信のなさだな。
「じゃ、じゃあ……」
と、彼女は顔を伏せたまま、遠慮がちに左手を差し出してきた。
「何ですか、これ」
「えっと……、指輪?」
ひっくり返りそうになった。
「用意してるわけがないでしょう、そんなもの」
それくらいわかりそうなものだがな。学生の身ではさすがにそこまではむりというものだ。尤も、それ以前に学生が言うことではないという話もあるが。
「そ、そか……」
そう言って手を引っ込めた佐伯さんは、まだ顔は上げず、その指を自分の目許に当てた。
僕はそれを見なかったことにし、再び店内に目を向ける。
「……」
僕がこの店の跡を継ぐのか。ずいぶんと思い切った決断をしようとしているな。果たして、この僕に務まるのだろうか。
そして、そこまですることがあの人の望みだったのだろうか。
今となってはそれももうわからない。それを知る機会を僕が自ら潰してしまったのだから。
だから、償い半分、自分のため半分、といったところか。
「これから大変そうって思ってる?」
佐伯さんが顔を上げ、僕を真っ直ぐ見ていた。目は赤いものの、体勢を立て直したようだ。
「それもあります」
「大丈夫。どうにかなるって」
『それ』以外については聞かず、あっけらかんとして言う。
「ふたりなら」
「なるほど。ふたりなら、ね」
根拠もないのにここまで心強い言葉も珍しいな。
とは言え、確かにそうだ。僕はひとりじゃない。佐伯さんとならきっとどうにかなるだろう。
僕たちは少しの間お互いの顔を見合い、
「「これからもよろしくお願いします」」
そして、同時に頭を下げ、一拍おいてまた同時に笑い出した。
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