6.「もう取り返しのつかない、大きな間違いだ」

 二学期の期末考査が目前だった。


 僕は自室で試験に向けて勉強し、佐伯さんは現在夕食の準備をしていた。


「……」


 僕だけが勉強し、佐伯さんは僕の分まで家事を引き受けている。毎度のことながらどうも好きじゃないな、こういうのは。


 勉強机から離れ、部屋を出る。


「佐伯さん、何か手伝うことは――」


 ゴンッ


 僕の発音に重なるように、何やら破滅的な音が聞こえた。ぎょっとしてそちらを見る。と、キッチンにあるダイニングテーブルの下で佐伯さんが突っ伏していた。


「きゅう……」


 短いスカートから伸びる足をこちらに向け、うつ伏せで倒れている。さっぱり状況が飲み込めなかった。


「佐伯さん、そこで何を……」

「あ、うん、ちょっとね」


 匍匐前進をするようにして一度向こう側に抜け、「んしょ」と立ち上がる。


「や、テーブルの下に計量スプーンを落として拾ってたんだけど、ほら、ミニスカだからそっちから見ると破壊力抜群の挑発ポーズだったんじゃないかなと」

「あー……」


 なるほど。そこに僕が出てきてので、慌てた末にテーブルの裏で頭をぶつけたわけだ。


「それは悪いことをしましたね」

「ううん。別にいいんだけど、でも、考えたらそこまで慌てなくてもよかったかなと思いました」

「いえ、テーブルをひっくり返してもいいので、次も迅速に立ち上がってください」


 あなたは僕の心臓を止める気ですか。


「それで、どうしたの。晩ご飯まだなんだけど、お腹すいた?」

「そういうわけではありませんが、君に家事を押しつけてひとりだけ勉強というのもね。何か手伝うことはありませんか?」


 僕は聞きながらテーブルの上で倒れている調味料を立てる。幸いにして倒れていたのは塩とこしょうと七味唐辛子。醤油のような液体のものは無事だった。


「そんなの気にしなくていいのに」


 佐伯さんは小さく苦笑。


「じゃあ、すぐに作るから、そこで待ってて」


 彼女は改めて食事の準備に取りかかる。僕としてはただ待っているだけというのも手持ち無沙汰なので、台拭きでテーブルの上を拭いておく。


「そうそう、クリスマスのことですが、夕方に学園都市の駅前で待ち合わせにしようかと思うのですが」

「おお、夕方。メインイベントは夜だと思っていい?」

「思うのは勝手ですが、僕が考えていることと大きな相違があると思ってください」


 ちぇ、と舌打ちする佐伯さん。どこまで本気なのやら。


「それならもっと早くからでもいいのに」

「お互いクラスメイトとのつき合いは大事にしないと」


 クリスマスイブは僕も佐伯さんもクラスメイトから誘われていた。あっさり断ってしまうのもどうかと思うので、ちゃんと顔を出し、できる限りつき合うつもりでいる。少し早めに抜けさせてもらうことになりそうだが。


「わかった。それでオッケー」


 と、そこで佐伯さんは切っていた野菜を中華鍋に投入。するとひときわ大きな音がキッチンを埋め尽くした。どうやら野菜炒めを作っているようだ。声も届きにくいので、話を中断して僕は食器棚から皿を二枚取り出した。


「ありがとー」


 炒め終わったところですでに皿が出ているのを見つけ、佐伯さんが嬉しそうにお礼を言ってくる。


「でも、クリスマスが終わったらしばらく離ればなれかぁ」


 野菜炒めを皿に移しながら、彼女はそんなことを口にする。


 年末年始はお互い実家だ。今のところ予定では大晦日に帰って、三日の夜にまたここに戻ってくることになっている。足掛け四日。


「それなんですが、元旦に佐伯さんの家に挨拶にいこうかと思ってるんです」

「え、そうなの? 娘さんを僕にください、みたいな?」

「違います」


 何が悲しくて新年早々あちこちで家族会議が開かれそうなことをせねばならんのか。


「単なる新年の挨拶ですよ」


 佐伯さんのご両親とはそれなりに顔見知りで、特に小父さんには僕と彼女が一緒に暮らしていることを認めてもらっている。挨拶くらいはしておくべきだろう。


「もしかして家族で田舎に帰ってたりしますか?」

「あ、それはないから大丈夫。そういうのはいつもお盆だから。とは言っても、今年も含めてここ何年かは行けてないけど」


 トオル氏の海外赴任で、家族全員日本にいなかったから、という意味か。


「そうですか。じゃあ、昼過ぎくらいに伺いますよ。挨拶がすんだら初詣にでも行きましょう」

「それいい。うん、そうしよう」


 不意にオーブントースターが、チーン、と甲高い音を鳴らした。そんなものが使われていたとは思ってもいなかった僕は、いきなり耳を襲ったその音にかなり驚いてしまった。


「はい、グラタン完成ー」


 佐伯さんがトースターの扉を開けると同時、グラタンの香ばしい香りがこちらまで漂ってきた。そして、中には確かにグラタンの皿がふたつ窮屈そうに並んでいる。


「これででき上がり。さ、食べよ」

「そうですね」


 彼女がミトンの鍋つかみでグラタンを取り出している間に、僕は茶碗にご飯をよそっておくことにしよう。


 とりあえず約束がふたつ。

 クリスマスと正月。

 約束があることはいいことだ。日々を過ごす上での道標になるから。


 尤も、まずは目の前に迫った期末考査か。





 そんなわけで試験も無事に乗り切り――ついにクリスマスイブ。


 今、僕はいつものメンバーでカラオケボックスにいた。


 滝沢がロックバンドの曲を歌い上げ、矢神が意外にもヒップホップでラップを刻んで盛り上がれば、宝龍さんが日本人女性シンガーの妙に恨みのこもったバラードを歌って叩き落す。趣味が違う人間が集まったカラオケは混沌を極めるという見事な証明だった。


 因みにその昔、宝龍さんが一度スクリームをやったときは、あまりの怖さ……もとい、迫力に全員が仰け反ったものだ。あれは未だに伝説であり、暗黙のうちにこのメンバー以外には他言無用となった上、以来そのときのことは誰も口にしようとしない。


「はいはい、次あたしです」


 滝沢が歌い終わったところで雀さんが手を上げて立ち上がった。そのままその手でマイクをもらいにいく。聞こえてきたイントロは僕が期待していたものではなかった。


「天城越えじゃないんですか? そろそろ出るころかと思っていたのですが」

「あれは弓月君がいろいろ言うから、今は練習中です。目にもの見せてやるから、もう少し待ってなさい」


 それは残念。あのギリギリ越える感じが好きなのだが。


「もしかして所謂ヒトカラですか? さすがナツコさん、デラックスですね」

『ヒトカラなんかしません。あとナツコ言わない! デラックス言わない!』


 マイクで怒鳴られてしまった。


 そんな言い合いをしているうちに短いイントロは終わっていて、雀さんは慌てて歌に入っていった。なかなか熱のこもった歌いっぷりだ。


「ずいぶんと気合い入ってますね」

「この前の期末であなたに負けたからじゃない?」


 隣の宝龍さんが顔を寄せてくる。この部屋に響く大音量を考えれば仕方のないことなのだろうが、僕はあからさまにならない程度に警戒する。


「そんなに勝ってませんよ。勝った科目もあるという程度です」


 一昨日の終業式の日に期末考査の成績が発表されたのだが、開けてみればいくつかの科目で雀さんに勝っていたのだ。別にいつも負けっぱなしの雀さんに対抗しようとしたわけではなく、ただ単に中間考査の成績が悪かったのでそれを取り戻そうとしただけの話なのだが。


「ずいぶんとがむしゃらに勉強していたわね。まるで何かを忘れようとしてるみたい」

「……勉強なんて少なからずそんなものでしょう。周りにはノイズが多いんですから」


 そして、僕の周りはどうしてこうも鋭い人が多いのだろうな。意味もなく無常を感じてふと壁の時計に目をやれば、なかなかにいい頃合いだった。


「すみません。そろそろ抜けさせてもらいます」


 雀さんの歌が終わるのを待って切り出す。


「あ、もうそんな時間なんだ。早いね」


 矢神が腕時計を見て驚きの声を上げる。。


「あーら、何やらお忙しそうでいらっしゃいますこと」

「前からそう言っておいたでしょうに。また改めて嫌味を言いますか、雀さんは」


 僕が抜ければ人数的にも組み合わせ的にも丁度いいんじゃないですか――と言おうと思ったが、方々に波紋を呼びそうな発言なのでやめておくことにする。


「今年はこれで最後ですかね」

「かもな」


 と、今度は滝沢。


 狭い部屋のスピーカーからはもう次の曲が流れていたが、誰もマイクを取らずに見送ってくれる。誰だ、このポップスっぽいのは。まさか雀さんの連チャンか?


「年が明けたら初詣にでもいこう」

「いいですね」


 尤も、こっちは初じゃなくなっているかもしれないが。


 それじゃまた来年――と、クリスマスとは思えない挨拶を残して、僕は仲間たちのもとを後にした。





 今までいたのが一ノ宮で、電車に乗って学園都市へと帰る。


 これでまた佐伯さんと一緒に一ノ宮に戻ってくるというのもまぬけな話なので、今日は別のところにしようか。たまには地下街を通って海側に行くのもいいかもしれない。大きなショッピングモールもあることだし。


 一ノ宮を出たときはまだ明るかったが、学園都市に着くころには夕闇が迫りつつあった。


 待ち合わせ場所は、駅前広場の中央にある巨大クリスマスツリーの前。佐伯さんはもうきているだろうか。一度家に帰ると言っていたが。


 改札口を抜けて駅舎を出たところで、ポケットの中の携帯電話が鳴り出した。


 佐伯さんとの待ち合わせの直前だからか、何の根拠もなく嫌な予感を感じてしまう。しかし、端末を取り出して見てみれば、そこにあった名前は父のものだった。


 思わず重いため息が漏れた。

 足を止め、通行の妨げにならないよう端に寄ってから電話に出る。


「もしもし」

『恭嗣か? こんな時間にすまないな。今話せるか?』

「人と約束がありますので。手短にしてもらえると助かります」


 どうしても口調が刺々しくなってしまう。振り返ってみれば、このところずっとそうだな。何も好き好んでこんな冷たい態度をとりたいわけじゃないのに。


『そう、か』


 歯切れの悪い父の声。


「どうかしたんですか?」

『その、な……悪いんだが、今からこっちに出てきてくれないか?』

「……」


 把握した。またその話か。


「例の病院ですか?」

『ああ』


 ため息再度。

 ロータリィの鉄柵に尻を乗せ、軽く体重を預ける。


「父さん、何度も言わせないでください。僕はもう――」

『たぶん、これで最後だと思う』

「え?」


 最後? その単語が意味するもの、つまり病床のあの人は今……。


 不意に胸が締めつけられるような感覚を覚え、僕は目を閉じた。―― 一拍。再び目を開けて、声を絞り出す。


「それでも僕は……」

『恭嗣、むりを言ってるのはわかっている。だけど――』

「僕には関係ないって言ってるだろっ」


 思わず声を荒らげ、端末のボタンを乱暴に押した。父の声を振り切るように、一方的に通話を終わらせる。そのまま端末もどこかに叩きつけてやろうかと思ったが、僕の中の常識と自制心がそれを思いとどまらせた。


 周りを見れば行き交う人の何人かがこちらを見ていて、僕はその目から逃げるように歩き出した。


「くそ……」


 なんて勝手な話だ。だってそうだろう? 実質的にも、書類の上でも、そうすると決めたのは父さんたちじゃないか。だから僕だって、事実を知ってしまった今もそれに従おうとしているのに。それなのに何を今さら……。どうして僕に知らない振りをさせてくれない? どうして僕を惑わそうとするんだ。


 僕には関係ない――今まで何度も口にしたその言葉をもう一度心の中で唱え、約束の場所へと向かう。


 だけどその足取りは重く、壁前広場の巨大クリスマスツリーが見えてくるころには完全に立ち止まってしまっていた。広場の端から目を凝らせば、ライトアップされたツリーの下にはたくさんの人がいた。誰かを待っているらしい人たちや、友達同士、恋人同士、あるいは家族でツリーを見上げている人たち――。


 そして、その中に佐伯さんもいた。


 白いコートを着た彼女は、先にきてこの僕を待ってくれている。


「……」


 この後の僕は、佐伯さんとどう過ごすのだろう。


 彼女のもとに行けば僕は約束を守れて、そして、時々あの人のことを気にして上の空になっては佐伯さんに怒られつつ、一緒の時間を過ごすのだろか。もしかしたらあの人のことは頭から追いやって、案外楽しく過ごすかもしれない。それも十分にあるような気がしている。


 気がつけば僕は再び携帯電話を手にしていた。

 メモリィから佐伯さんのアドレスを選んで――コール。クリスマスツリーの下の彼女に目をやりながら、耳では呼び出し音を聞く。


『あ、もしもし?』


 すぐに佐伯さんの声。当然、僕の視線の先の姿も端末を耳に当てている。


「佐伯さんですか? 僕です」

『どうしたの? こっちはもう着いてるよ?』


 そう言いながら彼女は振り返ってクリスマスツリーを見上げる。背中に背負った赤い小さな鞄が見えた。


「すみません。今からどうしても行かないといけない場所ができました」

『え? どういうこと?』


 寝耳に水の僕の言葉に、佐伯さんが慌てた調子で聞き返してくる。


「本当にすみません。埋め合わせは今度しますから」

『ちょ、ちょっと弓月くん――』


 佐伯さんの言葉が終わるのを待たず電話を切る。そして、彼女がいる約束の場所に背を向け、僕はきた道を戻りはじめた。


「なにもこんな日に……」


 急ぎ足で駅を目指しながら毒づく。


 切符を買って改札口を通り、ホームに上がったところで丁度電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。何かに導かれているようなタイミングのよさだ。間髪入れず滑り込んできた電車に乗り込む。


 乗客を乗せた車両のドアが閉められようとする――が、しかし、閉じかけたそれは、一度開いてから改めて閉まった。


『駆け込み乗車は危険ですのでおやめください』


 注意するような車掌のアナウンス。ギリギリで飛び乗った莫迦がいたようだ。


「まったく」


 こっちは急いでいるというのに。

 再び僕は悪態をついた。





 電車に揺られながら考える。

 僕はいったい何を望んでいるのだろうか、と。


 間に合うことだろうか。それとも着いたころにはもうすべてがすんでしまっていることだろうか。


「……」


 佐伯さんとの約束をすっぽかしたというのに、そんなこともわかっていないのか、僕は。呆れるな。


 ラッシュアワーの電車の中、吊り革につかまったまま窓の外に目をやる。車窓に切り取られたクリスマスイブの夜景は、いつもより緩慢に流れている気がした。


 遅い電車だ。





 最初の乗り換えを終えたときにはすっかり日は沈んでいた。そこからもう二回ほどの乗り換えを経て、病院に着いたころには時計の針の上でも夜と呼べる時間になっていた。


 外来のロビーの照明は必要最低限のものだけを残して落とされていたが、面会時間は午後八時までらしく、まだ猶予はあった。尤も、状況が状況なら時間外でもおおめに見てもらえそうだが。


 暗いロビーを通って病棟へと抜ける。前にきたときの記憶を頼りに歩き、その先にあったエレベータに乗る。確か五階だったはずだ。


 目的階で降りれば目の前にはナースステーションがあって――そこで僕は足を止めた。


 記憶の通りに道順をトレースすることばかり考えていたせいで、自分がここにくることの意味を考えていなかったことに気づいたのだ。


「……」


 あれだけ避けていたのに、会うつもりなのか?

 会って、それでどうする?


 語りかける言葉なんて僕は用意していない。笑いかけられる自信もない。見届けた後に涙だって流れるかどうか怪しいものだ。そんな僕が今さら会ってどうするというのだろう。


「どうかしましたか?」

「あ、いえ……」


 通りかかった病棟看護師に声をかけられ、僕は再び足を前に踏み出した。


 廊下をゆっくりと歩く。

 世間と隔絶されたような病院の中でもクリスマスの雰囲気を味わうためか、壁などにささやかながらそれらしい飾りつけがされている。先ほど前を通ったナースステーションにも、ツリーや雪の結晶のかたちをしたフェルトが張られていた。


 そうして辿り着いた病室。

 ここでいいのかと中を窺えば、そのベッドにだけ間敷居代わりのカーテンが前よりも閉められていて、まるで世間の目から覆い隠しているようだった。足音を忍ばせて静かに近寄ると、その入り口あたりに父の姿があった。父も僕に気づき、わずかに驚いたような顔を見せた。


「聞こえるか? 恭嗣だ。恭嗣が君に会いにきたぞ」


 顔を寄せて語りかける父の横を通り、僕はカーテンの中と踏み入った。


 決して広いとは言えないそこには四人の人間がいた。ブラインドが下ろされた窓際には、医師と看護師がひとりずつ。ベッドの脇の椅子には奥さんだろうか、年配の女性が沈痛な面持ちで座っていた。


 そこに漂う雰囲気を僕は正しく察する。もう後は見送るしかないのだと。


 そして、ベッドの上にはあの人がいた。

 この前以上にやつれた様子の彼は、父の声で目を開けると、僕の姿を見て微笑んだ。


 そこに言葉はなく、

 ただ満足げな笑みを見せただけで、再び目を閉じる。


 やがてその体から力とともに何かが抜けていって、代わりに彼の中を死が満たした。


 傍らの女性が項垂れ、すすり泣く。


 父が僕の肩を叩いた。


「ありがとう、恭嗣。彼も最後にお前の顔を見れて、きっと喜んでると思う」

「……」


 そうか、間に合ったのか。


 いや、違う。そうじゃない。これじゃまるで……。


「あ……」


 そこで唐突に、僕は自分がしてしまったことの意味を理解した。


「……外に、出ています……」


 ようやくそれだけを言い、ベッドを離れた。


 病室を出て、廊下を行こうとして――はっと息を呑む。


「どうして君がここに……」


 そこに佐伯さんがいた。

 壁にもたれて、どんな顔をしていいかわからない顔で、少し視線を落として立っている。彼女は僕を見て、申し訳なさそうな発音で口を開いた。


「弓月くんからの電話が切れた後にね、振り返ったら後ろ姿が見えたから。だからついてきたの」

「そうでしたか」


 まぁ、ろくに理由も言わなかったからな。むりもないか。思わず自嘲的な笑みがこぼれる。


「場所を変えましょう」


 病棟の廊下で立ち話というのも迷惑な話だ。それにここはすぐにバタバタしはじめるだろう。





 前にここにきたときに父とそうしたように、僕と佐伯さんは照明の落とされたロビーの椅子に並んで腰を下ろした。


「今日はすみませんでした」

「ううん、いい」


 彼女は怒った様子もなく、首を横に振る。


「さっきの病室って、前に言ってた……?」

「ええ、父の知り合いです。でも、先ほど亡くなりました」

「うん……」


 今度は小さな動きでうなずいた。やはり知っていたようだ。会ったときの佐伯さんの様子からしてそうだろうと思っていた。病室の外から少し覗いただけでも、中がどういう状況かわかっただろうし。


「父の、知り合い……?」


 僕は今自分が発したばかりのその単語をつぶやく。


「……違う」


 そうだ、違う。


 違う。

 違う。

 違う!


 その人は……!


「あの人は僕にとってかけがえのない人だった」

「それってどういう……?」

「またいつか話します。確実に言えることは、あの人はそういう存在で、あの人にとっての僕もそうだったということです」


 だから、あの人は僕を待っていたんだ。僕が間に合った? 何をおこがましいことを言っている。彼のほうが僕を待っていて、間に合わせてくれたんじゃないか。


「なのに、僕はあの人のことをずっと避けていた。いなくなってしまえば、もう話すこともできなくなるのに」


 僕はバカだ。そうなってから気づくなんて。


 言葉が堰を切ったように溢れ出てくる。感情の制御もきかない。


「ちゃんと向き合うべきだった。余命幾許もないあの人と、ちゃんと言葉を交わすべきだったんだ。それなのに僕は自分を守ることを優先して……。もうあの人はいなくなってしまった! もう会えない! もう話すこともできないっ!」


 体を前に倒し、頭を抱える。


「僕は間違いを犯したんだ。もう取り返しのつかない、大きな間違いだ」

「弓月くん……」


 佐伯さんの小さな声。

 やがて彼女は黙って僕の頭を引き寄せ、その胸の中に抱きしめた。


 僕は一瞬驚いたものの、何も聞き返さずに彼女の優しさに身をゆだね――大きな後悔に泣き続けた。

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