――#13

1.「父です」

 月曜日の朝。


「おはよう、弓月くん」


 佐伯さんの呼ぶ声に目を覚ませば、すでに彼女の顔が目の前にあった。ノックの音や、彼女が入ってきた音にまったく気がつかなかったようだ。そんなギリギリまでよく眠っていたものだ。


「……おはようございます」

「うん、おはよう」


 太陽のように笑う佐伯さん。

 それから彼女はベッドを離れ、カーテンを開けた。差し込んでくる早朝の陽射しが目にまぶしい。


「朝ごはんできてるよ」

「……わかりました」


 僕は体の上の布団を押しのけ、上体を起こした。少し寒い。十二月ももう目の前なのだから当然か。佐伯さんの部屋着も季節に合わせて長袖のフード付きパーカーになっているが、ボトムのほうはなぜか相変わらずショートパンツだ。脚のラインがきれいで目の保養ではあるが、今は見るからに寒い。


「あれ?」


 と、佐伯さんが何かを見つけたように声を発した。


「これ止まってない?」


 それはベッドの宮に置いてある目覚まし時計だった。アナログの文字盤のオーソドックスなもの。その笑ってしまうほど古典的なデザインが気に入って買ったのだ。しかし、現在針はストライキ状態で、はたらくことを拒否している。


「電池切れ?」

「いえ……」


 そんな一時的なものではない。


「前に落としたときに壊れてしまったようです」


 僕の口調は自然と早口になる。


 佐伯さんは「前?」と首を傾げていたが、程なくしてその顔が赤くなった。


「あ、あー、そうなんだ……」


 それがいつのことか思い当たったらしい。お互いいろんな意味であまり思い出したくない出来事だ。


「じゃ、じゃあさ、新しいの買いにいこうか、今日」


 気を取り直すように言いながら、彼女は僕の勉強机のイスを引っ張り出し、背もたれを抱きかかえるようにして座った。


「新しいの、ですか?」


 しかも、今日ときたか。


 目覚ましが壊れたからといって、特に困ることもないのだが。文字通りの目覚ましとしては使ったことがないし、時間の確認なら首を巡らせれば壁掛け時計がある。


「そうですね。また君が寝坊するかもしれませんからね」

「もぅ。春からもうしてないでしょー」


 佐伯さんは頬をふくらませるが、もちろん、そんなのは振りだけのことで、すぐに笑顔に戻る。


「どんなのがいい? 最近は録音できるのもあるらしいし、わたしが色っぽいの吹き込んであげよっか?」

「やめてください。一日のはじまりにそんなのを聞いたら、体の調子がおかしくなります」


 実は、その手のは前にさんざんゆーみに玩具にされて、ひどい目に遭ったことがあるのだ。爆発音とか蚊の飛ぶ音とか。ゆーみ自身の声で「……兄さん、兄さん」というのもあったが、あれがいちばん堪えたというのはどういうことだろうか。そのへんの怪談より怖い。


「今ここで決めることもないでしょう。店で考えますよ」

「ん、わかった。じゃあ、帰りに駅のショッピングセンターでね。……さ、ごはん食べよ」


 と、本日の予定がさっそく決まってご機嫌の佐伯さんは、弾むような足取りで部屋を出ていった。





 いつもより早めに登校すると、下駄箱から少し行ったところにある保健室の前で、養護教諭の藤咲先生と出くわした。


「あら」


 僕と佐伯さんに気づく。

 スーツに薄手のコートというスタイルで、今まさに保健室の鍵をあけようとしているところを見るに、出勤してきたばかりか。


「おはようございます」

「おはよう」


 藤咲先生は手を止め、こちらに向き直って僕らを見た。


「今日もふたり仲良く一緒に登校ね」


 先生には前に僕と佐伯さんの家が近いと言ってあるが、単にそれだけでなく僕らがどういう関係に至ったか知っているのだろう。保健室に多くの生徒が出入りするのもあるが、生徒にとって話しやすい先生だという理由も大きい。藤咲先生のもとにはいろんな情報が集まってくるのだ。


「不思議なものね。こう言っちゃ何だけど、弓月君がここまでモテる子だと思わなかったわ」

「正直、僕にも不思議ですけどね。でも、佐伯さんに関して言えば、ある種のインプリンティングだと考えれば、ひとまず納得できるのではないでしょうか」

「なるほど」


 と藤咲先生は納得しているが、


「人をひよこみたいにゆーなっ」

「痛っ」


 佐伯さんには脇腹をつねられてしまった。


「ああ、でも、大丈夫ね。これはこれでお似合いよ」

「……」


 笑いながら言われても説得力に欠けるのだが。


「ここからは保健体育の先生としてだけど――何か相談ごとがあればいつでもきなさいね」

「は?」

「『困ったこと』という意味だけじゃなくて、わからないことや真面目な質問にもちゃんと答えるから。いちばんいけないのは行為そのものよりも、知識がないことや間違っていることよ」


 先生としては、中高校生あたりがいちばん注意すべき年ごろなのだろうけど、しかし、これは……と、返答に窮してしまう。


 と、そこで答えたのは佐伯さん。


「大丈夫です。弓月くん、がっかりするほどそんな素振りがありませんから」

「……優等生なのに大胆なことを言うわね……」


 藤咲先生も引き気味である。


「まぁ、ないのならないで、そのほうが高校生らしくていいわ。学生の本分は勉強よ」

「そうですね」

「それじゃ失礼します」


 僕と佐伯さんはそれぞれ頭を下げ、保健室前を後にした。


 少し歩いて、


「優等生だって」


 佐伯さんが可笑しそうに笑う。


「いったい誰がでしょうね」

「大丈夫。学校ではちゃんと優等生だから」


 まぁ、そこは認めるところではある。ひかえめながら明るくて華やかな美少女。それが佐伯貴理華だ。


「学校では、ね。それが家では……」

「ちょっとぇろいのです」

「……」


 まったく呆れるばかりだな。


「昨日の弓月くんはステキでしたー」

「君、学校で変なことを口走らないように」


 周りに誰もいないからいいようなものの。


 そして、何より問題なのはそれが冗談でも何でもなく、本当のことだという点だろう。詳しくは省くが、昨日家に帰ってからまたいろいろあったのだ。それもこれも帰り道、僕が彼女を焚きつけてしまったせいなのだろうけど。


 だんだん自分の自制心に自信がなくなってきたな。


 尤も、改めて思えば、そんなもの最初から持ち合わせていなかったのかもしれない。僕はその昔、苛立ちまぎれに暴れていたような人間なのだから。





 昼休みになって僕のところにやってきたのは雀さんだった。その後ろには「やれやれ」といった様子の宝龍さんがいる。あまり乗り気でない彼女を、雀さんが牽引してきたのだろう。


 そのとき僕は、僕にとってメインの話し相手である矢神もおらず、借りたばかりの漫画に見るともなしに目を通している最中だったのだが、彼女が近づいてくることには気がついていた。


「ふっふっふっふ……って、何それ? 漫画?」


 何やら勝ち誇ったように笑いながらやってきた雀さんは、僕が読んでいるものを見て声を上げた。


「借りものですよ」

「なんだっていいんです。そんなもの読んでないで勉強しなさい、勉強を」


 委員長口調の雀さん。


「昼休みくらい好きにさせてください。教科書や文学全集を読んでるほうが偉いわけじゃないでしょうに」


 因みに、これは滝沢が貸してくれたものなのだが、それを知ったら雀さんはどんな顔をするだろうか。


 滝沢はあれでけっこう漫画好きだ。本屋に入って気になる本があると、すぐにそのままレジに持っていってしまう。面白かったら翌日頼みもしないのに貸してくれる。何も言わなかったら、それはハズレだったということだ。


「だいたい、僕が小説を読んでいたって、それはそれで何か疑うんじゃないですか」

「……弓月君ならいやらしい小説でも、カバーをつけて堂々と読んでいそうね」

「……」


 彼女の中の僕とは、いったいどんな人間なのだろうな。


 雀さんの後ろでは、宝龍さんがこのやり取りを聞いてくすくす笑っている。


「それで、何か用ですか? さっき九蓮宝燈をテンパったみたいな何やら気持ち悪い笑い方をしていましたが。うっかりアガって死んでも知りませんよ」

「……九蓮宝燈はよけいよ」


 気持ち悪いほうはいいのか。


「それはそうと――昨日、佐伯さんとデートに行ったでしょう?」

「そりゃあ彼女とは曲がりなりにもつき合っていますからね、それくらいはしますよ」

「しかも、大学の学園祭で」


 ん? ああ、なるほど。そういうことか。


「情報源はいったいどちらで?」

「それは内緒です」


 ふふん、雀さんは鼻で笑う。どうも人の弱みを握って強気になっているようだ。……別に弱みでもなんでもないが。


「相変わらずおアツいことね。彼女がステージに上がって鼻高々だったんでしょう?」


 ずいぶんと詳しいな。よほど確かな情報源を持っていると見える。


 ふと僕は昨日のことを思い出した。

 ステージの上にいる佐伯さん。髪は未来のカリスマ美容師の手できれいにセットされ、司会者のインタビューに少し照れながらも、しかし、物怖じせずに答えていた。皆、彼女に注目していた。


 果たしてあのときの僕は、彼女を誇らしいと思っていただろうか。


「……別に」


 僕の発音は、自分でも意外なほど硬質なものになっていた。


「え? ああ、そう?」


 雀さんが目をぱちくりさせている。しかも、宝龍さんのほうはそれ以上の何かに気づいたようだ。


 失敗したな。

 僕は雰囲気をもとに戻すべく次句を継いだ。


「わざわざやっかみにきたわけじゃないんでしょう? 用件は何ですか、ナツコさん」

「あ、ごめん。そうだったわ」


 彼女は『やっかみ』にも『ナツコさん』にも触れず、本題に移ろうとする。僕の態度がずいぶんと雀さんの調子を乱してしまったようだ。


「今日の放課後なんだけど、みんなで遊びにいかないかなと思って。一ノ宮のほう。弓月君は遠回りっていうか、わざわざ足を運ぶことになるけど」

「ああ、いいですね」


 たぶんみんなというのはここにいる僕を含めた三人と、後は滝沢と矢神だ。いつものメンバー。きっとうまく都合がつきそうなのだろう。


「でしょ? まだ具体的にどこに行くかは決まってないんだけど。テキトーにぶらぶらと――」

「残念ですが、僕はパスです。今日は佐伯さんと約束がありますから」

「なに、まだデートし足りないの?」


 言葉を遮るようにして即断即決で断った僕に、雀さんのヤブ睨みが飛ぶ。


「ほっといてください。それにただ一緒に目覚ましを買いにいくだけですよ。部屋の目覚ましが壊れてるのを彼女に見られましてね」

「なんでそんなことをあの子に知られるのよ」


 何やら戦慄する雀さん。だいたい何を考えたか想像はつくが。


「そりゃあ高校生らしいつき合い方をしてるからでしょう」

「不潔だわっ」

「おや、僕は『高校生らしい』と言っただけですよ。雀さんの『高校生らしい』はなかなかオトナですね」


 すぐに彼女は引っ掛けられたことに気づき、怒りのあまりみるみるうちに顔を赤くした。落ち着いて考えれば、僕だってオトナだとしか言っていないのだ。


「行きましょう、宝龍さん。弓月君なんて金輪際誘うことありませんよ」


 しかし、冷静さを欠いた雀さんはついにはそう言い放ち、歩調も荒く帰っていった。ちょっとからかいすぎたか。委員長体質で真面目だからな。ほとぼりが冷めたころに謝っておこう。


 問題はこっちだ。

 雀さんが去った後も残っているお方がひとり。宝龍さんだ。


「恭嗣、何かあったの?」

「何かと言いますと?」

「らしくない態度があったわよ」


 言いながら彼女はひとつ前の席――今は部室に行って不在の矢神の席に腰を下ろした。やはり見抜かれていたか。


「その言葉のままですよ。どうにもらしくないコンディションのようです、今の僕は」


 僕は確認するように気持ちを吐露していく。


「どうやら僕は自分で思っていた以上に欲張りな人間だったみたいです。争わず欲しがらず――『無欲の勝利』が僕の座右の銘だったはずなんですけどね」

「立て続けに私とあの子とつき合った恭嗣が言うと、無欲の勝利もなかなか説得力があるわね」

「……」


 ……いや、冗談だったのだけどな。


 それは兎も角。


「昨日、雀さんが言ったように佐伯さんはちょっとしたイベントでステージに上がったんですよ。そのときの僕が鼻高々だったかというと、ぜんぜんそうじゃなかった。内心では、そんなところにいないで僕の近くにいてほしい、誰にも渡したくないと思っていましたよ」

「それって独占欲?」

「でしょうね」


 そこはもう自覚している。九月から十月にかけてのあの件の反動が、ワンテンポ遅れて今ごろになってやってきたのだろうか。


 宝龍さんは小さく笑ってから、


「恭嗣もようやくあの子に追いついたっていうことかしらね」

「……」


 知らなかったな、僕は今まで佐伯さんに後れをとっていたのか。


 まぁ確かに、子どもっぽい独占欲が未熟さの表れであるとは一概に言えないのかもしれない。少なくとも愛情をろくに表現しない男よりは上位か。


「それで、今日は本当にパス? ナツコ、怒って行ってしまったわよ?」

「申し訳ありませんが、もうしばらくは佐伯さん優先になりそうですよ」

「そう。仕方ないわね」


 呆れ気味に言って、宝龍さんは立ち上がった。


 そして、


「自覚してる? あなた、ずっと前からあの子が最優先よ?」


 ……それは、初耳だな。





 そのまま無事に放課後を迎え、先にきて待っていた佐伯さんと昇降口で合流した。


 彼女は朝と変わらぬ生き生きとした笑顔を見せてくれる。一方の僕はというと、きっと六時間の授業を終えて疲れ切った顔をしているのだろうな。


「ついでだから晩ごはんの買いものもしていこっか」

「そうですね」


 道々話しながら、ごく間近の予定が決められていく。


「弓月くん、何かいいことあった?」

「え? いえ、別に。どうしてですか?」

「なんか楽しそうだから」

「……」


 これはまた重症だな。


 と、そのとき、スラックスのポケットの中で携帯電話が振動し、着信があったことを告げた。取り出してサブディスプレィを見てみる。音声通話だ。相手は――弓月篤嗣。


 父だった。


「誰から?」


 僕が変な顔でもしていたのか、横から佐伯さんが聞いてきた。


「父です。妙な時間にかけてくるものだと思いまして。……もしもし」


 通話ボタンを押して電話に出る。


『ああ、恭嗣か? すまないな、こんな時間に』

「いえ。こちらはもう学校は終わっていますから。父さんこそいいんですか。まだ仕事中でしょう?」


 歪んでしまった僕は、母に対してはあんな態度でも、父とは普通に話す。


 父、弓月篤嗣ゆみづき・あつしは別段ユーモアがあったり話し上手だったりはしないが、真面目な性格で子どもともちゃんと向き合って話をしてくれる人だ。こんな僕をここまで育ててくれ、一時期荒れていたときも見限るようなこともしなかった。僕は父を尊敬し、感謝している。


 そんな真面目な父の就業時間中の私用の電話を珍しいと思い、同時にこっそりやっているのかと思うと少しおかしかった。


『それなんだがな、』


 父は声を硬くして、こう告げた。


『悪いが今から言う病院にすぐにきてくれないか。詳しいことは後で話す』

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