2.「……僕はもうここにはこない」

「病院?」


 父からの電話を切った後、簡単に今の話を説明すると、佐伯さんはそう聞き返してきた。


「とりあえず、言われた通りにしようと思います」

「わたしも一緒に行ったほうがいい?」


 心配そうに尋ねてくる。


 僕は彼女がそう言い出した意図をすぐに理解した。きっと何かあったときのために――例えば身内の不幸が待っていた場合に、僕のそばにいてくれようとしているのだろう。


「たぶん大丈夫です」


 彼女の気遣いに、僕は笑って答える。


 父はそういう人ではない。あの人は隠しても無駄なことを、わずかな時間稼ぎのために黙っているようなことはしない。仮に家族に何かあったとしても、現時点でわかっていることをちゃんとおしえてくれるはずだ。


 ありそうな事態としては、父に末期ガンが見つかって、それについて電話ではなく面と向かって話したかった、というものだろう。それはそれであの人らしいと言える。


「何かあったら電話してね?」

「わかりました」


 歩きながら話しているうちに交差点に差しかかった。


「悪いのですが、鞄を持って帰ってもらえますか?」

「あ、うん。サイフはちゃんと持ってる?」


 サイフならいつもポケットに入れているのだが、改めてスラックスの上からそれに触れて「ちゃんと持っています」と返した。


 そうしてから鞄を預け、その交差点で彼女と別れた。


 僕は真っ直ぐ駅へ。

 佐伯さんは左に折れて家へ。


 佐伯さんは僕が駅のほうへ歩いていくのを見送ってから、横断歩道を渡ったようだった。





 父から指定された病院は少々遠かった。


 学園都市から二十分ほどかかる一ノ宮に出て、そこからさらに電車をふたつほど乗り継いだ後、今度はモノレールに乗ることになるようだ。


 そして、そこは同時に我が家からも遠く、家族が利用するには不自然だった。そのことからも父はもちろんのこと、ゆーみや母に何かあったとは考えにくかった。だからこそなぜ僕がそんなところに呼ばれたのかがわからなくもあるのだが。


 夕方のラッシュ前のまだ空いている電車の中、シートの端に座りながらふと父のことを考える。


(ああ、そう言えばひとつだけ例外があったな)


 そうだ、まだおしえてもらっていないことがある。僕はもう知っていて、そして、父も僕がすでに知ってしまっていることに気づいているであろう事実。父はどうするつもりなのだろう。いずれ僕に話すつもりなのか。それともこのまま黙っているつもりなのか。


(きっと父さんも困っているのだろうな……)





 病院の名前がついたモノレールの駅を降り、目的の大学病院へと辿り着いた。

 すっかり日も暮れている。


 途中で一度父から病院のロビーで待っているとのメールがあり、僕からはだいたいの到着時間を計算して返信しておいた。


 ロビーを見回してみる。

 二階まで吹き抜けの構造になっていて、清潔感と洒落た雰囲気があった。初診・再診の受付や計算などの窓口を構えたカウンタに加え、自動清算の機械が並んではいるが、見ようによってはホテルのロビーのようでもあった。しかし、もう時間が時間だけに人の姿は疎らだ。


「恭嗣」


 すぐに僕を見つけ、父が寄ってきた。会社から直接ここに足を運んだらしくスーツ姿だった。


 父の印象は、残念ながら特にこれといった特徴のない人、というのが正直なところだろう。若いころから文学の研究者のような老成した雰囲気があり、最近になってようやく年のほうがそれに追いついてきた。しかし、この人をこの人たらしめているのは、その人柄にあると僕は思っている。多弁ではないがちゃんと向き合って話してくれる誠実さと、ずっとひとつの企業に勤めてきた忠誠心と勤勉さを持ち、健全な家庭を作ろうと努力してきた人だ。これらは口で言うほど簡単なことではないだろう。


 僕は父のようになりたいと、いや、息子として誰よりも父に似たいと、ずっと思い続けている。


「すまないな。急に呼び出したりして」

「それはかまいませんが、いったいどうしたんですか?」

「まぁ、とりあえずついてきてくれ」


 父は言いにくそうにそれだけ言って、先導するように歩き出した。珍しくそんな態度だったもので、僕も黙って後をついていく。次に父が口を開いたのは、乗り込んだエレベータの扉が閉まったときだった。行き先として押したのは五階のボタン。上昇をはじめると体に軽い圧力がかかった。


「お前に会ってほしい人がいるんだ」

「僕に、ですか?」


 いまいち事態が飲み込めず、僕は聞き返す。


「ゆーみは?」

「いや、お前だけでいい」

「じゃあ……」


 と言い淀んでいると、父が次にくる単語を予想して答えてくれた。


「母さんも呼んでいない。それと、このことは母さんには言わないでくれ」

「……」


 僕だけが呼ばれ、しかも、内緒だと言う。いよいよ意図が読めなかった。


 エレベータが止まった。降りると目の前にはナースステーション。階の数からして行き先は病棟だろうと予想していたが、ここが内科病棟なのか外科病棟なのか、はたまた眼科病棟なのか。それを判断するわかりやすい材料は見当たらなかった。


 父がそうしたのを真似て、僕はナースステーションに詰めている看護師たちに軽く会釈をしてその前を通り過ぎた。面会者の記帳のようなものはいらないらしい。


 少し歩いたところにある病室が終着点だった。四人部屋で、ネームプレートには僕の知らない名前ばかりが書いてあった。


「顔を見せてあげるだけでいい」


 そう言った父と一緒に病室へ入る。


「左の窓側だ」


 手前の廊下側にいる入院患者に軽く頭を下げながら奥へ進む。間敷居代わりのカーテンが少し引かれていて、ブラインドの下りた窓のそばまで行ってやっとベッドを見渡すことができた。


 ベッド周りのサイドボードや戸棚にはタオル類や替えの寝巻き、ブックカバーのついた読みかけの本などの雑多なものが置かれていて、入院生活の長さが窺える。


 ベッドにはひとりの男性が眠っていた。

 父よりいくらか若いくらいの人。しかし、ずいぶんと痩せている。いや、やつれていると言うべきか。そして、何より――死の匂いがした。


 初めて見る人だ。

 だけど、僕にはこれが誰かわかった。


 わかってしまった。


「父さん、この人は……」

「私の友人だよ」

「……」


 その回答に僕は思わず絶句する。……何を言っているんだ、父さんは。


「よく恭嗣の話をしていたら、彼がお前に会いたいと言ってくれてな」


 そうじゃなくて――と言おうとしたとき、ベッドの男性が薄く目を開いた。力のない、焦点も合っていないような目で父と僕を見、そして、少しだけ笑った。


「ああ、きてくれたんだね。……ありがとう」


 消え入りそうな声でそう言い、改めて僕を眺めて満足げに二度三度うなずくと――静かにまた目を閉じた。


「っ!」


 僕は慌てて隣の父に目をやった。


「大丈夫だ。眠っているだけだ」


 見れば体を覆う掛け布団の胸のあたりが弱々しい寝息に合わせて、かすかに上下していた。ほっと胸を撫で下ろす。


「見ての通りだ。今ではもうすっかり体力も落ちてしまって、眠っている時間のほうが多いくらいだ」

「……」

「さあ、出ようか」


 父に促されて、僕は病室を出た。





 再びロビーへと場所を移す。


 ロビーからはさらに人気ひとけがなくなっていた。役目を終えた窓口から順々に閉められていて、十機ほど並んでいる自動清算機も二機を残して電源が切られている。照明もいくらか落とされたようで、きたときよりも暗くなっていた。


 僕らはその薄暗いロビーで、並んでイスに座っていた。父の手には缶コーヒーが握られていて、僕の手の中にはミルクティ。自販機で買ったものだ。


「父さん、あの人とはいつから……」


 僕は言葉を絞り出すようにして問いかけた。


「ずっと前からだ。友人としてつき合っていた」

「どうしてですか。理解できません。あの人はあの人と一緒に父さんを裏切った人です」


 頭が混乱していて、言っていることが滅茶苦茶になっている。

 ひとつめの『あの人』は今さっき会った男の人。そして、ふたつめは母のことだ。僕はあるときを境に母のことを『あの人』としか呼べなくなっている。


「やはり知っていたんだな」


 父は確認するように聞き返してきた。


「はい」

「中学三年の、あのときか?」

「……はい」


 もう一度うなずく。


 僕がその事実を知ったのは中三のときだ。真夜中に偶然、父とあの人――母の話を聞いてしまったのだ。口論ではなかった。どうやらその件についてはとうの昔に解決しているらしく、すべてを知った上で赦し、受け入れた父に母は感謝しているというふうの、少し特殊ではあるが落ち着いた夫婦の会話だった。


 それでも僕にとって大きなショックであったことには変わりなく、僕は以降、自分ことや母のことなど、やり場のない苛立ちを抱えてしばらく荒れた。


「そうだろうと思っていたよ。お前が変わったのもそれがきっかけなんだろうな。誰とでも他人行儀に話し、時々世の中を遠くから見ているような目をお前はするようになった」


 しかし、そういうのは僕には不向きだったようで、荒んだ態度も一ヶ月ほどしか続かなかった。


 そして、そのときに決定的に僕は歪んでしまった。血のつながった母を許せず、そうでない父に対してはそれまでと変わらず尊敬の念を抱き、それまで以上に父として慕うようになっていたのだ。歪な逆転現象。以来、僕は父と母への接し方と適切な距離がわからなくなり、今のような自分になってしまった。


「それにしても、お前は私に似ず聡いな。私が恭嗣の半分でも周りに気を配っていれば、母さんのことに気づいてあげられただろうに」

「あの人の裏切りにですか?」

「気持ちにだよ」

「……」


 そこは自分を責めるところじゃないはずだ。


「父さん。父さんはどうしてあの人と?」

「さぁ、どうしてだろうな」


 父の声に苦笑が混じる。


「かわいそうだと思ったのかもしれないし、私にも責任があると思ったのかもしれない。当時の私は仕事にばかりかまけていたからな」

「……」


 父のことだ、きっと結婚したばかりで、いずれは子どもも作るつもりで家庭のために仕事に打ち込んだのだろう。


「だから、三人で話し合って結論を出した後も、彼とは友人としてつき合っていたんだ。お前の姿を見せてやったりもしていたよ」


 振り返れば父は僕を誘って出かけることが多かったように思う。そのうちのいくつかは、あの人と時間や場所を決めた上でのことだったのかもしれない。


 でも、だ。


「僕は父さんの誠実で真面目な人柄を尊敬しています。でも、こればかりはお人好しだと言わざるを得ません」


 百歩譲って母を赦したことは理解できても、これに関してはいくら話しても僕と父は相容れないだろう。


 僕は残っていたミルクティを喉に流しこみ、立ち上がった。


「わかってくれ、恭嗣。彼はもう長くない」

「関係ありません」


 冷たく、言い切る。


「帰ります。……僕はもうここにはこない」


 そうして父に背を向け、病院を後にした。

 もう二度とここに足を運ぶことはないだろうと思って。

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