――#12

1.「よかったら一緒に飲みませんか?」

 朝。

 中途半端に覚醒した意識の中で、僕はドアがノックされる音を聞いた。


 ノック?


 そういえば、ここしばらく聞いていなかったな。


 ……。

 ……。

 ……。


 ――……そうか、そうだった。


 なぜその音が立てられたのか、遅巻きながらようやく理解した。


 前に聞いていたのよりずいぶんとひかえめなノックの後、ドアがゆっくりと開いた。


「弓月くん、起きてる……?」


 おそるおそる伺うような彼女の声。


 そうだ。昨日、佐伯さんが戻ってきたのだった。部屋のドアがノックされるのも、こうやって朝起こされるのも本当に久しぶりだ。


「……今、起きます」


 僕は手の甲を目のあたりに当て、長い息を吐いた。意識も体も本格的に目覚めさせる。

 ベッドの上で上体を起こした。


「おはようございます、佐伯さん」

「うん。おはよ……」


 部屋の入り口で、ドアのノブを後ろ手に持つような格好で立っている佐伯さん。


「……」

「……」


 会話はそこで途切れた。


「じゃ、じゃあ、朝ごはんできてるから」

「佐伯さん」


 逃げるように出ていこうとする彼女を、僕は呼び止める。


「少しは落ち着きましたか?」


 昨夜の佐伯さんは冷静さを欠いていたようだった。ひと晩たって落ち着いただろうか。


 その問いに彼女は、申し訳なさそうに小さくうなずいてから。


「その――」

「そうですか。ならよかったです」


 僕はあえて発音をかぶせて、彼女のその言葉を遮った。何を言おうとしていたのかだいたい予想がつくし、そんなのはもう聞きたくなかった。欲しいのはそんなのじゃない。


 と――。


「あ……」


 佐伯さんが急に小さく声を上げた。


「どうしたんですか?」

「昨日の夜のこと、思い出しちゃった……」


 そして、顔を赤くしてうつむく。


「……いいんですよ、そんなことわざわざ口に出して言わなくても」


 こっちだってとっくに思い出している。懸命に考えないようにしているのに、そんなことを言われたらよけいに意識してしまう。


 僕は立てた片足の、その膝頭に額を乗せた。


「ほら、着替えますから出ていってください」


 彼女の顔も見ず、そのままの構造で追い払うように手を振る。


 ガチャリ、とドアノブの音。


「あ、あのね、弓月くん……」


 そこで動きを止めたらしい佐伯さんが遠慮がちに口を開く。顔を上げれば、彼女はドアのほうを向いたまま、僕に背を向けて喋っていた。


「昨日の夜のこと、だけど……」

「わかってますよ。あのときの君はどうかしてたって言うんでしょう?」

「……」


 黙り込む佐伯さん。


 そして、


「……ばか」


 ひと言言い置いて部屋を出ていった。


「……」


 どうやら正しく選択肢を誤ったらしい。……まぁ、時にはあえて間違いを選ばなくてはいけないこともある、ということだ。





 着替えてリビングへ出る。


 キッチンのテーブルにはすでにふたり分の朝食が並べられていた。今日は焼き魚定食といった感じか。――それはいいのだが。


「なんかいやに豪華ですね」


 メニューはシンプルなのだが妙に立派で、旅館やホテルの朝食然としていた。品数も多く、二人用でそう広くないテーブルいっぱいいっぱいに展開されている。


「うん。久しぶりだから、ちょっと張り切ったかも。……さ、食べよ?」

「そうですね」


 洗面所で顔を洗って戻ってくると、ご飯と味噌汁が増えていた。これで完成形だろう。


 イスを引いて席に着こうとしたとき、佐伯さんが不思議そうな顔をしているのに気がついた。


「どうかしましたか?」

「え? ううん。なんでもない」


 問うてみるが、彼女は手と首を振って慌てて否定した。多少気になるところはあるが、今は置いておくことにして、僕は改めてイスに腰を下ろした。


「では、いただきます」

「うん、どうぞ。……いただきます」


 テーブルに向かい合って座り、手を合わせてから食べはじめる。


「どう、かな?」

「美味しいですよ」


 ちょっと量が多い気もするが。……思うに張り切ったというよりは、ある種の空回りなのだろうな。


「そっか。よかった」


 言って彼女は、弱々しいながらも笑顔を見せてくれた。


 佐伯さんは僕の顔を見られない様子で、少し視線を落とし気味に食事をしていたが、それでも長く口を閉ざしてしまうこともなかった。


「弓月くんはちゃんと食べてた? その、わたしが、いない、間……」

「食べてましたよ」


 果たしてあれがちゃんとしているかは疑問の余地があるが。回数だけは一日三食を守っていたが、内容はかなりいいかげんなものだった。特に朝は前の日に買っておいたパンを、牛乳かオレンジジュースあたりで流し込むだけのことが多かったように思う。


 まるで何かの隙間を埋めるように僕らはぽつぽつと言葉を交わし、時には小さく笑い、どこかぎこちなくもゆっくりと他愛もない話をした。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさま」


 やがてどちらかがタイミングを合わせたわけでもなく、ほぼ同時に食事が終わった。


 自分の茶碗や皿を重ねてシンクへと運ぶ。いつものように後片づけは佐伯さんに任せて、僕はリビングで新聞に目を通すとしようか。


「あ、あのっ」


 と、その僕の背に佐伯さんの声。


「はい?」

「えっと、コーヒー飲まないのかなって……」


 そう言って彼女はなぜか気まずそうに顔を伏せた。


「ああ」


 確かにそうだな。佐伯さんが出ていってからこっち、ずっとコーヒーを断っていたのだが、それを知らない彼女が不思議に思って当然だ。振り返ってみれば、さっき僕が席につこうとしたときに見せた顔もこれについてのことだったのだろう。いつもなら朝食を食べる前にコーヒーメーカーをセットしていたのだから。


「そうですね」


 もう飲まない理由はないはずだ。


 さっそく久しく使っていなかったコーヒーメーカーをセットする。紙製のフィルタを取りつけ、コーヒーの粉と水はマグカップ二杯分で。


 その作業しながら僕は告白した。


「実はずっとコーヒーをやめてたんですよ」

「え?」


 彼女の反応は予想外に大きかった。


「ど、どうして……?」

「別に。特に理由なんてありませんよ」


 僕は努めてなにげない調子を装う。


 もちろん嘘だ。

 浜中君はこれを、佐伯さんが帰ってくるまでの願掛けなんて言っていたが、本当はもっと情けない理由によるものだ。ここで一緒に飲んだのを最後に佐伯さんが出ていったようなものだから、僕の中でコーヒーはいやな思い出を想起させる鍵となってしまったのだ。こうしてコーヒーメーカーに向かっている今だって、あのときのことを思い出して息が詰まるような感覚を覚える。トラウマというやつだろうか。


 さて、準備完了。


 今ふたりで飲み切ってしまえる量しか作っていないので、出来上がりまで五分もかからないだろう。実際、僕がリビングで立ったまま新聞に目を通している間に終わってしまった。


「佐伯さん、できましたよ」

「あ、置いといてくれる? これが終わったらもらうから」


 そう返事をした彼女はシンクで洗いものの最中だった。


「あ、いや、よかったら一緒に飲みませんか?」

「え? うん、じゃあ、これだけ」


 洗っていた皿を水切りカゴに置き、タオルで手を拭き拭きテーブルにつく佐伯さん。彼女の前に置いているのはぬるめに作ったカフェオレだ。


「あ……」


 不意に彼女が小さく発音した。


「どうかしましたか?」

「ううん。なんでもない」


 ちょっと前に同じやり取りをした気がする。ただ、今の彼女はほんの少しだけ笑っていたように見えた。


 それから佐伯さんは、両手でマグカップを包み込むようにして持ち、最初のひと口を飲む。


「わたしもね、家でコーヒー飲まなかった」

「そうなんですか?」


 僕もカップに口をつけ、


「それはまた、どうして?」

「別に。特に理由なんて」


 佐伯さんは今度こそ本当に、少し照れたような感じで笑いながら言った。


「……」


 まるで先の僕の台詞をなぞるように。


 ならば。

 ならば、きっと『僕と同じ』なのだろう。


「あ。弓月くんの淹れてくれたコーヒーが好きってのもあるかな」

「それは光栄ですね」


 いつの間にかずいぶんと気に入られていたものだな。


「じゃあ、これからもできるだけこうやって一緒に飲まないといけませんね」


 僕がそう言うと、佐伯さんは少し驚いたようにこちらを見――それから隠すように顔を伏せて、小さくうなずいた。


 その奥の泣き笑いのような口もと。

 何かが光る目もと。


 でも僕は、それを見なかったことにした。


 大丈夫だ。僕たちの目にはお互いの姿が映っている。

 だから大丈夫。


 コーヒーの意味だって、そう遠くない先に書き換えられることだろう。

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