2.「僕は君のことが好きです」
五時間目が終わった後の休み時間。
なんとなく教室のいちばん後ろに行って窓から外を見てみると、そこには一面の曇り空が広がっていた。
「ひと雨くるかな」
天気予報はどうだっただろう? よく覚えていないな。
こういうはっきりしない天気は、どことなく今の佐伯さんに似ている。
佐伯さんが帰ってきた日からもう間もなく一週間がたとうとしていて、彼女の調子も次第に戻りつつある。よく話すし、笑いもする――のだが、僕にはまだどこかあのときのことを引きずっているように見えて、心配でならない。……特に何かある、或いは、あったというわけではないのだが。
ふと思いついて、佐伯さんにメールを送ってみる。
『今日一緒に帰りませんか?』
お互い部活に所属していない身なので、こんな申し合わせをしなくても半々くらいの確率で昇降口で一緒になったりするのだが。
メールが送信されたことを確認してから画面を待ち受けに戻し、端末を閉じる――と、それをポケットにしまう暇もなく、着信を知らせる振動があった。誰からだろうと思ってサブディスプレィを見れば、それは佐伯さんからのメールだった。……さっきの返信か、それとも偶然にも同じタイミングでメールを打っていたか。
『おっけー!』
そんな短い文章の後に、指を使ったOKサインの絵文字が添えられていた。
本当に返信だった。速いな。小学生の間だと三分ルールだとか五分ルールがあるらしいが、それ以上だ。
「……」
しばし考え込む。
ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン曰く『語り得ぬものについては沈黙しなくてはならない』。
少し思いついたことがあるが、今は置いておくことにしよう。
さて、何か返したほうがいいだろうかと考えていると、再度端末が振動。またも佐伯さんだった。
『どこで待ち合わせる? 昇降口? それとも教室にいったほうがいい?』
返信なんて一回ですませればいいものを、と苦笑してしまう。
『昇降口で。』
『おっけー!』
話はまとまった。これ以上返信をしても無意味に話が長引くだけだろうと思い、僕は端末を閉じた。
こんなふうにメールでのやり取りはごく自然。
もちろん、面と向かって話をしても、だ。
ならば、僕の心配も単なる杞憂ということだろうか。それならそれでかまわないのだが。
端末をポケットに突っ込みながら顔を上げると、そこに山南さんがいた。因みに、フルネームは
「何か?」
「あ、うん。えっと……」
半歩ずつ近づいてくる彼女。
「これ、食べます、か?」
か細い声でそう言いながら手を開いて見せたのは、銀色の包み紙に包まれた小さな四角いもの。
「何ですか?」
「ぷっちょです。コーラ味の」
「ああ」
ソフトキャンディにグミの粒を突っ込んだ、あのお菓子か。
「いいんですか?」
僕が問うと、山南さんは小さくうなずいた。当然いいから持ってきたのだろうけど。
「じゃあ、せっかくなのでもらいます」
ここで断ってしまうと彼女が困るだろうし。僕が手を差し出すと、山南さんはそこにぽとりとその小さなお菓子を落とした。さっそく包み紙を開いて口の中に放り込んだ。ひと噛みすると舌の上にコーラの味が広がった。
「ありがとうございます。美味しいです」
僕の言葉に彼女は嬉しそうに笑顔で応える。
食べながら僕は山南さんが口を開くのを待った。何か話があるからこうして声をかけてきたのだろう。
「さ、佐伯さんと、仲直り、したんですね……」
程なく彼女が言いにくそうに切り出してきた話題は、しかし、少々意外なものだった。まさか彼女の口から佐伯さんの名前が出るとは思わなかった。
「よくご存知ですね」
「昨日の朝、ふたり一緒に歩いてるの、見たから……」
「なるほど」
確かに佐伯さんが帰ってきてからこっち、学園祭以前と同じように一緒に家を出て登校している。ひとつの判断基準にはなるな。
「このところ少しゴタゴタがありましたが、どうにか仲直りというか、まぁ、もと通りになりました」
根拠薄弱な懸念はあるが。
「やっぱりそうなんだ。よかったです」
「心配させていたようですね。すみません」
山南さんはうつむき気味に、ふるふると首を横に振った。リボンも揺れる。
「わたしもがんばらないと……」
彼女は自分に言い聞かせるようにつぶやく。
何をですか? と、聞こうとしたところでチャイムが鳴った。休み時間終了。本日最後の授業、六時間目のはじまりだ。先の言葉の意味を聞きそびれたが……まぁ、いい。彼女とて誰かに聞いてほしくて発したものでもないのだろう。
「これ、ありがとうございました」
僕は指で挟んだ包み紙を見せながらそう言い、席に戻った。
そして、放課後。
靴を履き替えて昇降口を出ると、そこにはすでに佐伯さんの姿があった。笑顔とともに小さく手を振ってくる。
「早いですね」
こっちだって終礼が終わって、真っ直ぐここにきたというのに。
「うん。待たせたら悪いと思って。いちばんに教室を出て、走ってきたから」
道理で早いわけだ。
「桜井さんは? いつも一緒なのに置いてきたんですか?」
「わたし、弓月くんが最優先だから」
屈託のない笑みを見せる佐伯さん。
「それは光栄ですね。でも、友達は大事にしないといけませんよ」
「うん。二番目くらいには。それにお京にはちゃんとひと言言ってきたから大丈夫。……さ、帰ろ」
彼女に誘われるようにして足を踏み出し、さっそく校門を出た。
学園都市の広い歩道を並んで歩く。終礼が終わってまだいくらもたっていない時間で、こんなに早く学校を出る生徒はあまりいなかった。同じ制服を着た姿は疎らだ。
「弓月くん、晩ごはん何がいい?」
佐伯さんが隣から問うてくる。
「僕は何でも」
「そう? じゃあ、このまま買いものに行こっか? 回ってる間に食べたいもの思いついたら言って。わたし何でも作るから」
別にそこまでしなくても――と、僕。
「弓月くんの好きなもの作るよ?」
なおも食い下がる佐伯さんに、僕は一度空を見る。
「……今日は寄り道せずに帰りましょう」
「でも……」
不満そう、というよりは、どこか不安げな声。
ちらと横目で彼女を見てみれば、心配そうな目でこちらを窺っていた。
「……」
何もそんなに焦らなくてもよかろうに、と僕は心の中でため息を吐く。いや、佐伯さんにしてみればそれも無理からぬことなのか。
とは言え。
「『でも』じゃなくて――ほら」
空を指さしてみせる。
教室から見た一面の曇天はさらにその雲を厚くして、すでに雨雲と呼べるものへと変わっていた。空は灰色。空気も雨が降る前の独特の匂いがする。
「今にも降り出しそうですから」
今日は折り畳み傘も持ってきていないから、降られると面倒だ。
「家に何もないわけじゃないでしょうし、あるもので作ればいいじゃないですか」
「うん……」
「別に僕だって投げやりな気持ちで何でもいいと言ってるわけじゃないんですよ。まぁ、言ってみれば『君が作るものなら何だって美味しい』といったところですか」
なんとも歯の浮く台詞だ。
「ほんと?」
「本当です。嘘は言いません」
ま、こんなときくらいサービスは必要か。
「わかった。じゃあ、あり合せのものですっごいの作ってみせるから」
「期待してますよ」
僕らはちょうど青だった横断歩道を渡って左に折れた。
駅ではなく我が家へと。
家に帰り着くのと同時くらいに降り出した雨は、夕食後には激しい雷雨へと変わった。
横殴りの雨はベランダの全面窓を叩くほどで、その音に混じって風と、風が揺らす木々の音が聞こえてくる。季節外れの台風でもきているのだろううか。
「すごいね、外」
食休みにふたりしてリビングで熱茶を飲んでいると、佐伯さんの口から堪らず感嘆の言葉がこぼれた。
と、そのとき、窓の外が一瞬光り、体の芯に響くような重く大きな音が耳を叩いた。――どこかに雷が落ちたようだ。
「おおー」
感嘆再度。
「君、雷は怖くないんですか?」
「ううん。平気」
「そうですか。うちのゆーみは、あれで雷が怖いんですよ」
口では怖くないと言って、表情も変わらないが、雷が鳴り出すと少しずつ近寄ってくるのだ。そして、気がついたらぴたりと真横にいたりする。それでもなお怖くないと言い張るのだからたいしたものだと思う。
思い出したら笑いがこみ上げてきた。
「あ、もしかして弓月くん、雷で怖がる女の子のほうがよかった?」
うん?
「そういう子のほうがかわいいと思う?」
見れば両手で包むようにして湯飲みを持ち、上目遣いに聞いてくる佐伯さんがいた。悪戯っぽい笑みを浮かべて人の好みを聞き出そうとしているが、でも、その奥には……。
「そうですね……」
僕は少しばかり言葉を探す。
「確かにそういう様子を目の当たりにしたらかわいいと思うかもしれませんが、でも、それはその女の子を評価するものではありません」
ましてや――と僕は言い加える。
「それを判断基準にして好きだ嫌いだと言うつもりはないです。……僕はそういう人間ですよ」
「え?」
一瞬びっくりしたような顔をする佐伯さん。
「あ、うん……」
そして、うなずきながら湯飲みに視線を落とした。……果たしてこれで伝わるだろうか。
「さて、そろそろ部屋に戻って勉強しないと」
僕は湯飲みに残っていたお茶を飲み干し、立ち上がった。佐伯さんが顔を上げる。
「中間テストもう目の前だしね」
「実はついこの間までろくに勉強が手につきませんでした」
「あ、わたしも」
そう言って彼女は苦笑する。お互いなぜそうなったかは言わずもがなだ。
「それ、下げとくから置いといて」
「そうですか。じゃあ、お願いします」
僕は佐伯さんの言葉に甘え、湯飲みをそのままにして部屋に戻った。
自室で机に向かう。中間考査は来週後半からだ。
外は相変わらず風雨の音が激しい。
そう言えばさっきまで点けていたテレビのニュース番組の最中、暴風か何かの警報が出ていたように思う。この調子で朝まで続けば学校が休みになるだろうか、などと少々期待しなくもない。
そして、ついに。
ひときわ大きな落雷の音が響き、部屋の照明が消えた。停電か? 勉強机から顔を上げ、意味もなく天井を見上げる。
と――。
「ぅきゃーっ」
耳を劈く佐伯さんの悲鳴。僕は落雷よりもむしろこちらに驚き、思わず立ち上がっていた。
直後、バタン、ドドド、ダン、ドド、バタン――と、かくも賑やかな音が聞こえ、
「ゆ、弓月くーん!」
ノックもせずに佐伯さんが飛び込んできた。
そのまま真っ直ぐ躊躇いもなく僕の腕にしがみついてくる。
「ててて、停電! 真っ暗!」
「わかってますよ」
あまりの彼女の慌てぶりに、逆にこっちはおそろしく冷静になった。どうやら佐伯さんは雷は大丈夫でも、暗闇がダメだったらしい。寝るときだって電気を消しているだろうと思うが、自ら消すのと停電によっていきなり暗闇の中に放り込まれるのとでは意味が違ってくるのかもしれない。
「ど、どうしようっ!?」
「佐伯さん、ここに引っ越してきたときに懐中電灯を用意した覚えは?」
「……ない」
僕もない。
「非常用の蝋燭は?」
気配だけで彼女が首を横に振るのがわかった。もちろん、僕もそんなものを用意した覚えはない。ついでに言えば、仮にあったとしても火をつける道具がないことに今気がついた。しまったな。こんなことなら煙草を吸う習慣を身につけておくんだった。
「とりあえず離れませんか?」
さっきから佐伯さんが僕の腕を抱えるようにしてしがみついているせいで、同年代の女の子と比べて幾分か豊かであろう胸が押しつけられているのだ。
「む、むりに決まってるじゃない、真っ暗なのに! 弓月くんのいじわるっ」
「……」
もうしばらくこのままらしい。
それにしてもよく自分の部屋からここまでこられたな。月は厚い雨雲に覆われていて、窓から差し込む天然の灯りはほんのわずか。真の暗闇ではないにしても、目が慣れていない状態で躓いたりしなかったのだろうか。リビングの真ん中にはテーブルもあるのに。特殊な才能か何かか?
なお、先ほどの音を解説するなら、ドアを開ける、走る、テーブルを飛び越える、走る、ドアを開ける、だろうと思われる。
「仕方ないですね。よっぽど深刻な停電でもない限り、すぐに復旧するでしょうし。何もできないなら話でもしましょうか」
「話?」
「ええ、まぁ」
ひとまず曖昧に答えておいて、僕らはベッドに腰かけた。相変わらず佐伯さんは僕の腕を抱えたままだ。
「唐突ですが――僕は君のことが好きです」
「え? え、あ、あの……」
いきなり飛び出した今の場面には似つかわしくない言葉に、佐伯さんが慌てふためく。彼女にしては珍しいことだ。顔を赤くしていたりするのだろうか。顔が見えない今だから言おうと思ったのだが、これなら明るい場所で言ってもよかったかもしれない。
「このところいろいろありましたが、それは今も変わっていません」
「ぁ……」
僕の言わんとしているところを理解したらしい佐伯さんは、小さく声を上げる。
「気づいてたんだ」
「漠然とですが」
ピンときたのは学校で五分返信ルールを思い出したときだ。佐伯さんはなぜあんなにも早くメールを返してきたのか。
ほかにもある。
大急ぎで待ち合わせ場所にきたり。
僕の好きな料理を作ることに妙に拘ったり。
女の子の好みを気にしてみたり。
「ちょっと前からね、急に不安になったの。弓月くん、もうわたしのこと好きじゃなくなってるかもって」
あんなことしちゃったから、と佐伯さん。
「僕の気持ちは今言った通りですよ。だいたい君にしては弱気なんじゃないですか」
「弱気?」
彼女は僕の言葉を鸚鵡返しにしながら見上げてくる。少し目も慣れてきた闇の中で、僕らはお互いの顔を見合った。
「僕が離れていったのなら力尽くででも連れ戻すのがいつもの君でしょうに。まだまだ一緒にいるんですから、君は君らしくいてもらわないと困りますよ」
「だってー……」
佐伯さんはむくれる――が、程なく。
「でも、確かに弓月くんの言う通りかもしれない。ちょっと弱気になってた」
「少しは元気が出ましたか?」
尤も、図らずもこの停電のおかげで、ずいぶんと佐伯さんらしさが戻っている気もするが。
「うん、もう大丈夫。弓月くんがそばにいてくれてるってわかったから」
顔は見えないが、彼女が笑みを浮かべていることは声を聞くだけでわかった。
「じゃあ、そろそろ離れてください」
「それとこれとは別!」
ぎゅっ、と再び力をこめてしがみついてくる佐伯さん。
「……」
僕はまたも無意味に天井を仰ぎ見た。
やっぱりまだこのままらしい。いいかげん腕も痺れてきたのだが。
早く直らないだろうか、停電。
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