6.「目覚ましが壊れました」

 その日の夜、さっそく桑島先輩から連絡があった。


 携帯電話が鳴り、僕は身が入っているとは言いがたい勉強の手を止め、電話に出た。互いのアドレスは、放課後に再度の訪問を受け、そのときに交換していたものだ。


「俺だ。桑島だ」の声を聞いた瞬間、僕の頭には眼鏡のブリッジを押し上げながら、端末を耳に当てている彼の姿が思い浮かんだ。


『キリちゃんをそっちに帰らせたんだが』

「え?」


 帰らせた?


『どうだ? もう着いてるかわかるか?』

「いや、まだこちらには……」

『返事が早いな、おい。近いとは聞いてたけど、いったいどういう位置関係ならそんなにすぐに答えられるんだ』


 桑島先輩が苦笑した。


 しまった。確かに即答してはいけない質問だった。


『まぁ、いい。……いや、なに、キリちゃんが学校近くに部屋を借りてるのは知っていたんだがな。でも、事情があってしばらく家から通ってるって言うから、それ以上は詮索しなかったんだ』

「そうだったんですか」

『だけど、実際それもおかしな話だしな。弓月が待ってるからと、どうにか言い聞かせてそっちに戻らせたんだ』

「こんな時間に、ですか?」


 もう夜だぞ。


『いや、説得に時間がかかってな。俺も途中まではつき添ったよ。だけど、一ノ宮で後はひとりで帰れるって言ったからな。電車に乗るのを見届けて別れたんだ』

「それ何時ごろですか?」

『正確ではないが八時くらいだな』


 僕は部屋の壁掛け時計を見た。もう九時を回っている。

 一ノ宮から学園都市まで二十三分。どんなにゆっくり歩いても、とっくにここに着いていないとおかしい。いや、今の彼女の精神状態を考えれば、素直にこの家のドアを開けて帰ってくるとは考えにくいか。


「もう一度彼女の部屋の様子を見て、必要であれば駅まで行ってみます」

『すまない』

「いえ」


 そうして電話を切ろうと思ったとき、桑島先輩が僕を呼んだ。


『弓月。結果的に無責任なことになってしまったが、やっぱり俺にできることはここまでだと思う』

「どういうことですか?」

『キリちゃんはお前が迎えてやらないと、ちゃんと帰れない』


 その桑島先輩の言葉にはいろんな意味が含まれている。僕が迎え入れてやらないと佐伯さんはこの部屋には帰ってこられないだろうし、僕のところにも戻ってこられない。そういう意味で、これは僕の役目だ。


「ありがとうございます」


 僕は礼を言って電話を切った。

 さっそく外出着に着替え、薄手のブルゾンを羽織る。簡単に戸締りを確かめてから、外へと飛び出した。


 十月も下旬に差しかかろうとしていたが、この夏の酷暑の影響か、夜でもあまり寒いとは感じなかった。


 マンションの前で一度あたりを見回した。どこかで佐伯さんが家に入れず足踏みをしているかと思ったのだが、ここにはいないようだ。だとすると、駅か。


 僕は歩き出す。

 駅までの道程、佐伯さんとすれ違うことはなく、念のため道路をはさんだ対岸の歩道にも注意を払っていたのだが、やはりそちらにもいなかった。


 そのまま駅前へと辿り着く。


 ――乗り直して帰ったりしてなければいいが……。


 そう思いつつ駅舎を目指していて――見つけた。佐伯さんだ。


 駅前広場の観客席の最前列に、ぽつり制服姿の彼女が座っていた。知ってか知らずか、そこは以前、僕があのマンションを出ると決めたときに、座って電話で佐伯さんと話した場所だった。


 佐伯さんは膝の上で重ねた手に視線を落とし、じっと見つめていた。


「佐伯さん」


 僕が歩み寄って声をかけると、目で見てわかるほどびくっと体を跳ねさせる。


「ゆ、弓月くん……」


 ゆっくりと上げた顔は今にも泣き出しそうな表情。


「さて、帰りましょうか」

「で、でも……」


 と、佐伯さん。


「どうしよう、わたし、ずっと弓月くんにひどいことしてた」

「……」


 彼女はまた顔を伏せてしまう。その言葉に対して僕は、「そうですね」とも「そんなことありませんよ」とも答えられなかった。どちらも適切ではない気がする。


「小父さんに頼まれたんですよね?」


 うつむいたままの彼女の首が、小さく縦に振れた。


「その話は歩きながらしましょう」


 昼間、桑島先輩が言っていたな。それを聞いてやるのがお前の役目だ、と。


 僕が促すように佐伯さんの肩に触れると、彼女は緩慢な動きながら驚くほど素直に立ち上がった。たぶん今は自分の意志が希薄なのだろう。


 僕たちは並んで歩き出した。

 ライトアップされたタイル張りの駅前広場を横切り、中途半端に明るいショッピングセンターの前を通る。確かここは飲食店だけ夜十時まで開いていたはずだ。


 横断歩道を渡り、もう駅前とは呼べない場所まで出たところで、僕は切り出した。


「確か小父さんに、社長の息子さんだから桑島先輩と仲よくするよう言われたんですよね?」

「うん……」


 僕の隣で佐伯さんが小さくうなずき、その横顔を車のヘッドライトが照らした。駅前を通る道路は行き交う車も多く、ヘッドライトの河の横を歩きながら、僕らは言葉を交わす。


「それに桑島先輩からも、ですね?」


 僕の問いに佐伯さんが再びうなずく。


「聖さんにはお父さんが決めた女の子がいて――」


 彼女の口から新しい事実が告げられる。


 初耳だ。彼が言っていた『くだらない事情』とはこのことなのかもしれない。


 佐伯さんの説明によると、桑島先輩には親が勝手に決めた許婚いいなずけとも言える女性がいるらしい。それが煩わしくて、学園祭中の予定を無理矢理にでも埋めたかったのだそうだ。そこで白羽の矢が立ったのが佐伯さんである。彼女は桑島先輩に協力を頼まれ、テニスの試合の応援にいったり、学園祭を一緒に回ったりしたのだとか。


 加えて、長くても今年いっぱいくらいでいいから一緒にいる時間をつくってほしいとも頼まれたそうだ。そこまでいけば大学受験を理由に、あとは自力でどうにかできると踏んだのだろう。


 佐伯さんとしては、小父さんの立場を考えれば、どちらの頼みもいやとは言えなかったに違いない。


 本当に賢くて、親思いの女の子だと思う。


 ただひとつ、残念ながら彼女は勘違いしてしまった。小父さんの言葉も桑島先輩の頼みも、そこまで切実な、ましてや彼女に自己犠牲を強いる類のものではなかったのだ。無論、佐伯さんだってそこはある程度わかっていただろう。だが、彼女が考えている以上に、彼らは極々軽い気持ちだった。小父さんは普通の父娘の世間話、桑島先輩は単なる女友達ガールフレンドとしてたまに何かにつき合ってくれたらいいくらいのものだろう。


「でも、そんなこと弓月くんには言えなかった。家の事情だし。かと言って、ほかにいい説明も思い浮かばなくて……。ずっとなんて言おうか考えてたら時間だけがたって、どんどん弓月くんに会いづらくなってた」


 だから電話にも出なかったし、メールの返事もなかったのか。一度あったワン切りは、思い切って電話をしてみたものの、やっぱり……というところだろうな。


「弓月くんにはわたしが聖さんと一緒にいるところを見せたくなかったの。相変わらず何も説明できないのもあって、気がついたら話しかけないでなんて言ってた。そんなことぜんぜん思ってないのに……」


 そこで佐伯さんは声を詰まらせ、ついに泣き出してしまった。


「わ、わた、し、だんだん、自分が、何してるか、わからなくなって……」


 立ち止まり、しゃくり上げながら目の周りをぐしぐしと手の甲や掌でこする。


「泣かないでください。もう終わったことですよ」


 僕が背中に触れると、彼女はうなずき、もう一度目もとを手で拭ってから足を踏み出した。


 どうやら彼女自身わからなくなっていると感じた僕の感覚は正しかったようだ。


「でも、それならそうと最初から言ってくれたらよかったんですよ」


 結局そこにつきる。

 事情さえ把握できていたなら、こんなややこしいことにはならなかったはずだ。


「……かった」


 佐伯さんが何をか言葉を発する。


「え?」

「そんなこと絶対に言いたくなかった。理由があってほかの男の人と仲よくするなんて、そんなこと絶対に言いたくなかったの……」

「……」


 何とも佐伯さんらしい発想だ。


 僕の気持ちを考えて、というのもあるのだろう。勝手に佐伯さんの思考をトレースするなら、自分が僕にそんなことを言われたら心にもやもやしたものが生まれるし、僕がほかの女の子と仲よくしている姿なんて見たくない。自分がいやなことを僕に強いることはできない、といったところか。


 そして、それ以上に彼女自身がそういう種類の台詞を口にしたくなかったのだ。


 しかし、結果として佐伯さんは妙なジレンマに陥り、追い詰められてしまった。身も蓋もない言い方をすれば自爆もいいところなのだが、それはそれで彼女の一途さの表れなのだろう。僕としては責める気にはなれない。そんな気もないが。


 道は交差点に差しかかり、横断歩道を渡って右に折れた。片側二車線で道幅も広いが、こっちは例の如く交通量は少ない。車の姿が一気に減った通りの歩道を、僕らは街頭の灯りから灯りへと渡って歩く。


「正直言えば、もっと僕のことも考えてほしかったと思いますね。あまりにも何も言ってくれないから不安になりました」

「不安?」


 佐伯さんが不思議そうにその単語を繰り返す。


「当たり前でしょう。もう君が戻ってこないんじゃないかと、どれだけ不安だったことか」


 もちろん、僕は怒っているつもりなどなく、軽く笑いすら含ませながら言う。もう笑ってすませればいい。


「ごめん、なさい……」


 しかし、つぶやくように小さな彼女の声は、力なく足もとに落ちていった。


 これ以上話しても彼女を責めているみたいになるだけと思い、もう何も言わないことにした。それこそ終わったことだ。佐伯さんも今は自分から話すことはせず、僕らは黙って歩いた。


 横目で彼女を見ると、相変わらず顔を伏せていた。顔を上げてくれるのはもう少し先だろうか。





 程なくアパートに戻ってきた。


 せまい階段を上がり、鍵は僕が開ける。ドアを開けて脇へ退き、中に入るように促すと、佐伯さんは戸惑ったように僕を見た。


「入って、いい……?」

「あまり莫迦なことを聞いてると怒りますよ」

「う、うん……」


 彼女はおずおずと玄関を上がると、僕が電気をつけたままにしておいた廊下を真っ直ぐ進み、真っ暗なリビングへと這入る。照明は後を続く僕が点けた。


 佐伯さんはリビングを見回す。


「何も変わっていませんよ」


 女の子も入れていないし――と冗談を言おうと思ったが、やめておいた。


「君の部屋はそっちで、こっちが僕」

「大丈夫。わかってる」


 彼女は弱々しいながらも笑みを見せる。


 僕が着替えに部屋に戻ろうとすると、佐伯さんが声をかけてきた。


「弓月くん」


 振り返る。


「その……ごめん、ね……」

「終わったことです」


 そう返すと佐伯さんは、申し訳なさそうにうなずいてから自分の部屋へと入っていった。それを見送ってから僕も自室に戻る。


 時計を見ると、もう間もなく十時になろうかという時間。


 ブルゾンを脱ぎ、ラフな部屋着へと着替える。再びリビングへ出れば、佐伯さんはまだ部屋に入ったままのようだ。出てくる気配もない。気持ちの整理みたいなものもあるのかもしれない。今は帰ってきただけでよしとするか。


 僕は中途半端になっている勉強の続きを再開することにした。





 しばらくして部屋のドアがノックされた。


「どうぞ」


 イスを回転させて振り返ると同時、佐伯さんが顔を覗かせた。


「あの、お風呂入れたんだけど、弓月くん、どうする?」

「僕はまだ少し勉強がありますから、佐伯さん先にどうぞ」

「じゃあ、そうする」


 小さく笑って彼女の顔はドアの向こうに消えた。


 今まで何度となく繰り返したやり取り。でも、どこかぎこちなさがある。


 今回の件で僕らの間に溝ができたとは思わない。佐伯さんが戻ってきたことでもう終わりだ。だが、彼女の中には罪の意識が残っているのかもしれない。


 時間だろうか。解決してくれるのは。





 またいくらか時間が経ち、そろそろ佐伯さんは上がっただろうかと思っていた丁度そのとき、再びひかえめなノックの音が聞こえた。


「弓月くん、入っていい?」

「どうぞ」


 と応えるが、佐伯さんは入ってこない。そのことに僕は特に疑問を持たず、何の気なしに自らの手でドアを開けた。


 かくして、そこに佐伯さんがいた。


 当然だ。

 それはいい。


 だが、問題はその格好だ。


 風呂上りでまだ乾ききっていない髪の彼女は、シルクの白いパジャマを着て――ボトムは穿いていなかった。すらりとした素足が艶かしい。豊かに隆起した胸の部分は、下に何も身につけていないことがすぐにわかった。


 あまりにも扇情的な姿。


「なんて格好をしてるんですか、君は……!」


 しかし、僕の焦りをよそに、彼女はこちらに抱きついてきた。


 反射的に逃げようとするがそれでもつかまってしまい、数歩たたらを踏んだ後、僕は佐伯さんとともに背中からベットに倒れ込んだ。


「何をするんですかっ」

「……」


 返事はない。

 彼女は僕の鼓動を聞くみたいにして、胸の上に顔を寄せている。


「佐伯さん?」


 様子のおかしい彼女に呼びかける。


「……ずっと、ごめん……」

「それはもう聞きました」


 佐伯さんにしてみれば謝り足りないのかもしれないが。しかし、これはないだろう。


「わたしのこと、好きにしていいよ……」

「な、何を……」

「弓月くん、不安だったって言ってた。だから好きにしていいよ。弓月くんが安心できるまで」

「……」


 本気、なのだろうか。


 途端、僕は密着している彼女の体を意識した。薄いパジャマ越しに体の輪郭までもが手に取るようにわかる。


 だけど。

 彼女は『だから』と言った。「『だから』好きにしていい」と。


 そこにあるのは贖罪の気持ちだ。


「ダメです。今の君にそんなことはできません」

「で、でもっ。だったらわたし、どうしたら……」


 佐伯さんが顔を上げ、切羽詰ったように僕を見る。熱っぽく潤んだ目。でも、その奥にはやはり申し訳なさや罪の意識が垣間見えた。――これは、違う。


「……」


 どうしたら、か。


 僕はベッドの宮に目をやり、そこにあった目覚まし時計に手を伸ばした。掴んで、床に落とす。むやみに大きいだけの、耳障りな音が部屋中に響いた。


「えっ。な、なに……」


 佐伯さんは慌てたように床と僕を交互に見る。


「目覚ましが壊れました」


 さて、どうだろう。過去に二度ほどうっかり落としたことがあるが、そのときも壊れたりはしなかった。たぶん今回も衝撃で電池が飛び出したくらいじゃないだろうか。


「だから明日はちゃんと起こしてください」

「え?」

「今までと同じように。それで僕は安心できます」


 しばらくきょとんとしていた佐伯さんだったが、やがてゆっくりと、再び僕の胸の上に顔を戻した。


「うん、わかった……」


 そっと、そうつぶやく。


 僕も心の中では安堵の吐息をこぼしていた。


 明日の朝は佐伯さんがいる。

 久しぶりだな――。

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