4.「責任!?」

 一学期の期末考査が終わった。


 学校によっては翌日から休みになって、後は終業式の日に成績表を受け取るだけのところもあるようだが、私立水の森高校では残念ながらそんなことはない。ちゃんと授業が行われる。

 答案が返ってきて解説もしてもらえるのはありがたいのだが、夏休みが目の前に迫った授業というのはどうにも身が入らない。


 そう思って先生の話をテキトーに聞き流してしまいたくなるが、それは大きな間違いだ。テストが終わったその瞬間から、次のテストのはじまりなのだから。今やっている授業は、すでに次のテスト範囲なのだ。


「だから君も、この時期の授業を疎かにしてはいけませんよ。浜中君」

「……なんで先輩にそんなこと言われなくちゃいけないんだよ」


 かわいい後輩、浜中君は心底嫌そうに言ってくれた。


 今朝、珍しく佐伯さんと別々に登校したところ、昇降口でばったり彼と会い、今こうして並んで歩いている。


「先輩だからですよ。忠告です」

「はいはい。ありがたく聞いておきますよ。……で、それって実体験ですか?」

「よくわかりましたね」


 一年生の一学期はあまり深く考えず、テストが終わってひと安心していたのと、間もなく訪れる夏休みに思いを馳せていた。二学期は一学期の失敗もすっかり忘れて、冬休みに入るまでの間、授業を受ける振りをしながら原付の免許を取るための勉強をしていた。どちらも休み明けにえらい目に遭ったものだ。


「……それ。人に言う前に、自分を戒めたらどうですか?」


 確かにそうだ。


 おもむろに浜中君が盛大にため息を吐いた。


「最近やたら先輩と遭遇してる気がするんですけど、ストーカか何かですか?」


 あまり関わり合いたくないんですけど、僕――と、浜中君はつけ加える。嫌われたものだ。


「気のせいじゃないですか」


 それか単に登校時間が近いだけか。僕はここ最近、毎朝似たような時間に家を出るし、電車通学の彼も毎日同じ電車に乗っているのだろう。だから遭遇率もおのずと高くなる。


「おや、あそこにいるのは佐伯さん――」

「!?」

「と思ったら見間違いでした」

「張っ倒すぞっ!」


 浜中君は声を抑えながら怒鳴るという器用な技を披露してくれた。


「怖いですね。慕われる先輩になろうと努力しているのに」

「……明らかに真逆を突き進んでますから、早く気づいてください」


 そこで階段に差しかかった。僕はいつもこの階段を使う。彼も教室は上の階だが、きっとこれ以上一緒にいたくないだろうから、向こうの階段で上がるに違いない。ここで別れるのが無難か。


「では、お互い今日も勉学に励むことにしましょう」

「……ふん」


 彼は鼻を鳴らしてそっぽを向き、そのまま廊下を真っ直ぐ進んでいった。





 浜中君に言った通り、今日も学生の本分たる勉強に勤しむ。


 ただ、この時期の授業はちゃんと聞いていない生徒も多いと理解している先生もいて、これまでの復習や雑談に費やされることもある。そういう授業は受けるほうとしても気が楽だ。


 ――そして、放課後。


 本日の滝沢は珍しく何の用事もないらしく、一緒に駅前をぶらぶらしようということに決まっていた。矢神と宝龍さんは例によって文芸部の部活らしい。


 帰り支度を整え、滝沢の席に向かう。


 と、そこには先客、雀さんがいた。たぶん一緒に帰ろうと声をかけていたのだろう。彼女のことだから、クラス委員がどうとか決めておくことがこうとか、そういう名目を持ち出したに違いない。


 これは弱ったな、と頭を掻きつつもゆっくり足を前に進めていると、滝沢がこちらに気がついた。


「帰るか。こっちはもう出られる」


 そう言う彼の後ろでは雀さんが目を吊り上げて睨んでいた。これは、あれだ。邪魔ものを見る目だ。


「彼女も一緒なんだが、いいか?」

「え、ええ……」


 雀さんがものすごく何か言いたげな目でこちらを見ていたが、すみません、咄嗟に断る理由を思いつきませんでした。


 男子2、女子1の構成で昇降口を出る。外は少しばかり怪しい空模様だった。


「降りそうね……」

「カラ梅雨で油断していましたが、もしかしたら夕立がくるかもしれませんね」


 今年は梅雨らしくない梅雨だったように思う。その分の帳尻合わせが今になってきたのだろうか。


 そこで僕は閃く。


「滝沢、悪いですが、今日は真っ直ぐ帰ることにしますよ。傘も持ってきていないので、降られると厄介です」


 これなら雀さんも怒りをおさめてくれることだろう。尤も、僕が何か悪いことをしたわけではないが。


「そうか。なら仕方ないな。またの機会にしよう」


 滝沢も特に気を悪くした様子はなく、そして、僕は彼の見えないところで雀さんに腰を叩かれていた。たぶん、よくやったと褒めてくれているのだろう。


 校門をくぐり、学校の敷地を出る。


「そうだ、弓月。昨日お前の妹から電話があったぞ」


 よりにもよってそんな話題をチョイスしますか、滝沢は。彼を挟んだ僕の反対側では、雀さんがわずかによろめいていた。


「すみません、ご迷惑をおかけしています。……それで、何の話でした?」

「夏休みにどこか遊びにつれていけだと」


 苦笑する滝沢。雀さんの足が思わず止まる。しかし、僕らが三歩歩く間に持ち直し、すぐに追いついてきた。


「ゆ、弓月君の妹さんってかわいいんですか?」

「そうでもないですよ」


 敬語だったので滝沢に問いかけたものだろうが、ここは身内として口を挟ませてもらう。


「そうか?」


 しかし、滝沢はそれに異を唱えた。


「お前は兄妹だからそうは思わないのかもしれないが、俺は悪くないと思うぞ? 周りの男がほっとかないんじゃないか」

「そうですかね? でも、突飛なファッションしてますよ」

「突飛って?」


 と、向こう側から雀さん。


「まぁ、いわゆるゴシックロリータってやつですよ」


 しかも、わざわざ制服のない高校を選んでまで学校に着てくのだから、無類のゴスロリ少女である。


 雀さんは何やら考えている様子。性格が真面目だから、ああいう奇抜に見えるファッションを着る人間の心理をはかりかねているのだろう。少なくとも、自分も挑戦してみようかと考えているわけではないだろう。


「そ、それで、滝沢さんはなんて返事をしたんですか?」


 話が本筋に戻される。


「うん? 当然、別にかまわないと言っておいた。今でも月に一回くらいつき合わされているんでね」


 直後、ギンッ、と僕を睨む雀さん。こちらに文句を言われても困るのだが。


 思い返せば、きっかけは去年、滝沢を家に招いたとき。そこでゆーみは滝沢を気に入ったようだ。以来、僕の知らないところでちょくちょく会っているらしい。失礼なことを言ったりやったりしていなければいいが。


 交差点に差しかかった。


「滝沢、僕はここで」

「そうか。じゃあ、また明日」

「ええ。……雀さんも、後はがんばってください」

「な、何をよっ」


 彼女は顔を真っ赤にして、声を荒らげた。さて、何をだろうな。滝沢はなかなかの難物のようなので、はたして雀さんの頑張りが報われるかどうか。


 僕は横断歩道を渡り、ふたりと別れた。





 家に着くころには、空模様がいよいよ怪しくなってきた。今にも降り出しそうだ。


 佐伯さんはまだ帰ってきていないらしく、僕は自分の鍵を使って玄関を開ける。

 リビングは曇り空のせいで暗い。照明を点けてから自室に入ると、直後、ついに降り出した。地面を叩く雨音が一気に最大ボリュームになる。かなり強い雨足。典型的な夕立だ。佐伯さんは傘を持っているだろうか。


 それから約十分後、僕がリビングで新聞の夕刊に目を通していると、玄関の方でドアの開く音が聞こえた。


「ただいまー」


 聞き慣れた佐伯さんの声。


「弓月くーん、弓月くーん」


 ところが、一向に入ってくる様子はなく、代わりに僕を呼ぶばかり。仕方なく腰を上げ、玄関に行ってみた。


「妖怪濡れ女ー」


 そこには全身ずぶ濡れで、前髪をべっとり顔に貼りつかせた佐伯さんが立っていた。やはり傘は持っていっていなかったらしい。


「なに莫迦なことをしているんです」

「でも、さすがにこれじゃ入れないし」


 確かにそうだ。家の中が水浸しになる。


「待っててください。タオルを持ってきます」


 僕はそばにある洗面所からタオルを一枚取ってきて、投げて渡した。彼女はすぐに顔と髪を拭きはじめる。


「すごい雨だよね。見て、ブラまでスケスケ」

「いちいち言わなくていいです」


 確かにブラウスが体に貼りついていて、胸の豊かなふくらみと、凝ったレースの意匠までもが透けて見えている。今日は薄いブルーらしい。


「ガスを点けますから、そのままお風呂に入ってください。体も冷えてるでしょう」

「わかった。そうする」


 僕はこれ以上佐伯さんを見ないようにして、リビングへと戻った。





 それからたっぷり三十分はたったころ、佐伯さんが風呂から上がってきた。


「やー、あったまったー」

「それはよか――」


 言いかけた僕の言葉が途切れる。


 佐伯さんはバスタオル一枚を体に巻いただけの姿だった。くっきりと浮き出た体のラインや乾き切っていない髪、湯上りの上気した肌が艶めかしい。


「またそんな格好で。あれほど着替えを――」

「すぐに入れって言ったのは弓月くんだったと思うけどなー?」


 彼女は勝ち誇ったような顔でにんまり笑う。確かにそうだ。


「どう? 色っぽい? ぇろい?」

「知りませんよ、そんなこと」


 わざわざ佐伯さんが胸を腕で押し上げて強調し、前屈みにポーズをとるものだから、僕は体ごとテレビに向き直った。


「もうっ」


 佐伯さんが足を踏み鳴らす。


「照れる弓月くんを見るのも面白いけど、少しくらい見てくれないと寂しいんですけど」


 きっと彼女は頬を膨らませていることだろう。


 しかし、そんなことを言われてもこちらだって困る。僕は佐伯さんの玩具ではないし、そんな姿でそばに立たれて冷静に観察できるほど神経図太くもない。


 そのときだった。


「あ」


 佐伯さんの小さな声。


 思わず僕がそちらを向いたとき、


 するり


 と、彼女の体からバスタオルが滑る、まさしくその瞬間だった。


 直後の佐伯さんの動きは、驚嘆に値する速さだった。バスタオルが滑り落ちてしまうよりも早くそれを掴み、再び体を隠す。おかげであられもない姿を晒すことは間一髪避けられた。


 が、


 それでも僕は一瞬だけ露になった、たぶん同い年の女の子よりも豊かでかたちのよい、彼女の胸を見てしまっていた。


「……」

「……」


 時間が止まったかのような沈黙がリビングを支配する。


 テレビから聞こえてくるニュース番組の音声だけが音らしい音だった。夕立ちはいつの間にかやんでいたようだ。


 佐伯さんは顔を赤らめて視線を外した。


 いつもと違う反応に戸惑う。いつもみたいにけろっとしていてくれたら、僕も気が楽だったのだが。……いや、当然か。さすがにことの重大さが違う。


「ご、ごめん……」


 言ったのは佐伯さんだった。あろうことか謝られてしまった。


「き、着替えてくるねっ」


 そして、裸足の足をぱたぱた鳴らしながら、部屋へ入っていった。


 リビングに僕ひとりが残された。

 佐伯さんの姿が完全に消え、数拍おいてから、脱力したように座椅子の背もたれに体重を預けた。


 まいった。

 なんてことだ。

 思わず天井を仰ぎ見る。


 予想外のハプニング。

 対処不能。


 この後どうすればいいんだ? どんな顔をして佐伯さんを見ればいい?


 まったく解答が浮かばないまま堂々巡りみたいな思考をどれくらい続けていたのだろう、不意に聞こえたドアの開く小さな音で僕ははっと我に返った。


 佐伯さんが様子を伺うようにして、そろりと部屋から出てきた。タンクトップにショートパンツと、いつもの部屋着に着替えている。


 目が合うと彼女は恥ずかしそうに顔を逸らした。こちらもあまりにもばつが悪く、再びテレビに向き直った。


 ところが、だ。


 佐伯さんはテーブルを迂回して、僕のそばまでやってきたのだ。


「どうかし――」


 その言葉が終わらないうちに、彼女は僕の足の上に腰を下ろした。


「な、なんでこんなときに……!」

「大事な話があります」


 大事な話があるとこの体勢になるのか。知らなかったな。


「……なんでしょう?」

「……見た?」


 直球、だった。


「……」

「……」


 再度沈黙。


 ここで見てませんと言っても、説得力は皆無だろうな。だったらあのときの気まずい空気はなんだったんだという話になる。


「……見ました」


 結局、正直に言うほかなかった。


「いや、でも、一瞬だったから、あまりよく見えていませんよ。たぶんすぐに忘れるんじゃないかと……」


 よく言う。しっかり目に焼きついているくせに。


「……でも、見た」

「う……、ま、まぁ……」


 ふくれっ面で睨んでくる佐伯さんに圧倒され、僕は言葉を詰まらせる。


「責任とって」

「せ、責任!?」


 責任ときたか。


 しかし、よくよく考えれば、僕が積極的に何かしたわけではなく、むしろ佐伯さんが勝手に自爆しただけのように思う。とは言え、それを言ってしまえばおしまいだ。男らしいとは言えない。


「えっと、どうすればいいですか……」

「こうする」


 次の瞬間、彼女の顔が近寄ってきて、唇と唇が触れ合った。


 重ねるだけの、悪ふざけみたいなキス。

 それでも十分に衝撃的だ。


「しちゃった」


 唇を離すと彼女は、はにかみながらそんなことを言った。


「今日はこれで赦してあげる」

「い、いや、赦すも何も……」


 しかし、僕の反論は甘い衝撃に酔ったように、まったくかたちにならなかった。

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