5.「いえ、彼と」

 もう初夏と呼ぶような時期も過ぎ、一学期の終業式へのカウントダウンもはじまった七月の中旬。


 朝。

 ドアを叩くリズミカルなノックの音は、半ば眠りの淵にいる僕の意識をもノックした。ベッドの上でタオルケット一枚にくるまったまま、それを聞いた。


 続けてドアが開けられ、佐伯さんが入ってきた。


「グッモーニンッ。朝だよ、弓月くん。起きて」


 ぎし、とスプリングが軋んだのは、彼女がベッドの上に手をついたからだ。上から顔を覗き込まれている。


 僕はなかなか意識がはっきりせず、逃げるようにして壁に向かって寝返りを打った。


「むー……」


 僕が起きないせいか、佐伯さんは不満そうにうなった。


 そして、


「起きないやつには、こうだっ」


 頬にやわらかいものが触れた。


「~~~っ!?」


 無論、僕は飛び起きた。





「なんて起こし方をするんですか、君は」


 眠気など一瞬で吹き飛び、起床した後は朝食。登校の用意をすませて家を出て――道々説教する。


「起きないほうが悪いと思う」

「僕は君ほど朝からテンション高くないんです」


 ハイテンションというよりは高血圧ハイパーテンションか。いや、寝起きのよさと血圧は関係ないという話だったな。


「じゃあ、君は起きない人間全員にそんなことをするつもりですか」

「まさか」


 佐伯さんは即答する。


「でしょう?」

「弓月くんだけに決まってるじゃない」

「……」


 そんなにはっきり言われると、こちらとしても返答に困るのである。


「別にいいと思うけどなぁ。もう一度しちゃったんだし」

「……」


 そして、ますます反応に困る。何より、あのとき見た決定的瞬間の佐伯さんの姿を思い出してしまってマズい。


「どうせなら、ここでもう一回する?」


 そう言うと彼女は僕の前に回り込み、目を閉じて尖らせた口を突き出してきた。


 僕も思わず立ち止まってしまう。


「……」

「……」


 何が嫌かって、考えてしまった自分がいちばん嫌だ。


 僕は一度、あたりを見た。

 まだ住宅地を抜けておらず、中途半端な時間ともあって人気はない。


 それを確認すると、両手を佐伯さんの肩に置いた。左手は制鞄の取っ手を持っているので、少し添える程度。


 そうしてから、


「何を莫迦なことを言ってるんですか」


 くるりと彼女の体の向きを変えてやる。


「ほら、行きますよ」

「はぁーい」


 その背を押し、進むよう促した。





 昼休み、

 持ってきた弁当を食べ終えてそのまま席で話をしていた僕と矢神の間に、音もなく二本の缶コーヒーが置かれた。


「あげるわ」


 器用に片手で二本持っていたその長くしなやかな指と、やや硬質な声の主は宝龍美ゆきだった。


「あ、ありがとう……」


 素直に礼を言う矢神。……こういうものは裏に何があるかを疑うべきだと思うのだがな。


「で、何をお望みで?」

「恭嗣は私につき合って」

「なるほど」


 要するにこれは、つき合わせる僕と僕を借りていく矢神への、それぞれに対する迷惑料というわけか。


「返品した上でお断りは?」

「効くと思って? 私は三本も飲めないわ」


 見れば彼女も自分の分の缶コーヒーを持っていた。選択の余地なしとは、なんとも詐欺くさい。


「仕方ありませんね。矢神、ちょっと行ってきます」


 僕はそう断って、宝龍さんとともに教室を出た。


 空調が効いているのは教室中だけなので、一歩外に出るとむっとした空気が体を撫でてくる。それでも廊下を行き交う生徒は多く、昼休み特有の喧騒が満ちていた。


「いつもの場所ですか?」

「ええ」


 つまり屋上だ。廊下がこの調子だと、屋上はさぞかし暑いことだろう。いや、風があって意外と涼しいのかもしれないな。


「何か話でも?」

「別に。ただ恭嗣と並んでコーヒーが飲みたかっただけよ」


 宝龍さんはあっさりとそう言った。たったそれだけの理由で人を連れ出せるのは、校内広しと言えども彼女くらいなものだろう。


 僕たちは階段を上がり、三階を目指す。


「それで、どうなの? 彼女とは少しは進んだの?」

「……何ですか、やぶからぼうに」


 不意の問いにどきっとしてしまった。


「そう? 恭嗣は私ではなくあの子を選んだ。その後どうなったか気になるのは当然じゃないかしら?」

「僕は別に誰かを選んだつもりはありませんけどね」

「あと――」


 宝龍さんは僕の言葉を遮るようにして続けた。


「最初の問いに対する反応が遅かったわ。これは本当に何かあったってことかしらね」

「……ただ単に唐突な質問に面喰らっただけですよ」


 また遅れたが、あまり気にしすぎると泥沼にはまりそうだ。


 三階に着く。佐伯さんたち一年生のクラスがある階だ。と言っても、今はここに用はなく、さらにもうひとつ上へと向かう。


「あ、弓月さーん」


 一段目に足をかけたところで、名前を呼ばれた。ちょっと癖っ毛な茶髪の女の子は佐伯さんのクラスメイト、桜井さんだ。こちらにちょこちょこ走ってくると、僕のすぐそばに立った。相変わらず距離が近い。背中に手が回せそうだ。


「こんにちは」

「こんにちは。今日は桜井さんひとりですか?」


 校内ではたいてい佐伯さんとふたりでワンセットなので、彼女ひとりだと違和感を感じる。前に桜井さんだけだったときは、佐伯さんが保健室に行ったときだったな――と思い出して、わずかに不安を覚えた。


「それが、浜中君が大事な話があるからって、キリカを連れていっちゃったんですよね」

「……」


 不安は的中、か? いや、彼は基本的に人畜無害な男だ。危険はないはずだ。


「どこに行ったかわかりますか?」

「えっと、実は……」


 僕を見上げていた桜井さんの視線が、さらに上へ向かう。それは僕の背後であり、つまり――、


「この上、ですか?」

「はい」


 僕は振り返り、階段を見上げた。この上は屋上。だが、鍵がかかっていて出ることはできない。行き止まりではあるが、密談にはもってこいと言える。きっと話は階段の途中でしているのだろう。


 さてさて、いったいどんな話をしているのだろうな。気になりはしても、立ち聞きするつもりはない。

 僕は宝龍さんを見た。


「そうね。場所を変えましょうか」


 彼女はこちらが何か言うよりも先にそう言った。


 そして、きた道を戻ろうとしたときだった。


「あ、あのさ――」


 上から声が聞こえてきた。聞き覚えがある。浜中君のものだ。あまり上のほうまでは行っていなかったらしい。踊り場を超えたすぐくらいのところだろうか。


 それをきっかけに、こちらの三人の動きが止まった。


「僕、今まで女の子にこういうこと言おうと思ったことはないんだけど――」


 声の色は初めて会ったときの、かわいい後輩としてのもの。勇気を振り絞って、といった調子で話を切り出そうとする。どんなふうに続くか、だいたい予想がつくな――と思っていたら、佐伯さんがそれを遮った。


「そう。じゃあ、言わなくてもいいんじゃない? わたしも聞くつもりないし」


 その声は僕が聞いたことのない、冷たいものだった。


「浜中君って、話してると時々弓月くんの悪口混ぜてくるわよね」

「え?」

「弓月くんが前に誰とつき合っていて振って別れたとか、今でも仲がよくてふたまたかけそうとか」


 そんなことを言っていたのか。


「キレたら案外すぐに暴力を振るうタイプだとか」


 ……そんなことを言っていたのか。


「さり気なく吹き込もうとしてるのかしら?」

「い、いや、誤解だって。それは……」

「先に言っておくわね。そういう姑息なことをする人って、わたし、好きになれないの。じゃあね」


 佐伯さんはばっさり斬って捨てた。


 浜中君の話とやらは本当に聞く気がないらしく、もう下りてくるようだ。僕たちは逃げるようにして、二階への階段を見つからない位置まで下りた。


 足音が上から降りてきて、そして、遠ざかっていった。


 三人階段の手すりに背を貼りつかせるようにして立ち――無言。間の抜けた構図だ。たまたま通りかかった生徒が、こちらをちらちら見ながら行き過ぎていった。


「……少し話をしてきます」


 しばらくしてその沈黙をやぶったのは僕。


「彼女と?」

「いえ、彼と」


 確かまだ浜中君は降りてきていないはずだ。


「すみません、宝龍さん。コーヒーはまた今度つき合いますよ」


 僕は屋上へ続く階段を上がった。





 そこで僕と浜中君の間で交わされた会話については省略することにする。語り部の『語らない権利』とでもしておこうか。僕の高校生活はミステリ小説ではないのだから、フェアアンフェアの論争になることはあるまい。


 いちおう言っておくと、わりと大事な話だ。





「先輩ってやっぱり嫌なやつですよね」


 僕の話が終わった後、彼はそんな感想をもらした。


「わざわざ僕にとどめを刺しにくるなんて」

「人聞きの悪いことを言いますね。ただ単に自分でも言っておかないと恰好がつかないと思っただけですよ」


 女の子にけりをつけてもらうというのも情けない話だ。


「そういうわけですので」

「はいはい。言われなくても、もう佐伯さんには手は出しませんよ。僕の株も大暴落してたみたいだし、割って入る隙もないしさ」

「潔くて助かります。君にはこれを上げましょう。もらいものですが」


 持っていた缶コーヒーを彼に手渡す。もちろん、まだプルタブは空けていない。……話は終わり。僕は踵を返して階段を下りた。





 学校が終わり、帰宅。


 マンションの一階にある集合ポストを開けると、新聞の夕刊とともに一通の封筒が出てきた。通常のものとは違う大きさで、赤と青のストライプの縁取りがされている。エアメールだ。


 ということは、佐伯さん宛だろうか。

 階段を上がりながら表書きを見ると、やはり『佐伯貴理華』の名前があった。それさえわかれば十分だ。これ以上僕が詳しく見る必要はない。きっとアメリカにいるご両親からなのだろう。


 家の鍵が開いていたので、佐伯さんが先に帰ってきているようだ。さてはポストを見なかったな。


「ただいま」

「あ、おかえりー、弓月くん」


 佐伯さんはキッチンで夕食の準備中だった。


「エアメールがきてましたよ」

「エアメール? 長崎から?」

「長崎は日本ですよ」


 なぜ長崎なのだろう。セリヌンティウスでも待っているのだろうか。


 件のエアメールを佐伯さんに手渡す。


「お父さんからだ。何だろ」

「開けてみたらどうですか」

「そだね。でも、後にする」


 結局、彼女はその手紙を今は読まず、「ぽーい」とわざわざ口で言いながら部屋に放り込んだ。





 夕食後、


 期末考査が終わって後は終業式を待つだけの高校生なんてのん気なもので、即座に勉強に向かうようなこともなく、僕と佐伯さんはリビングで食休みを兼ねてお茶を飲んでいた。僕は読みかけの小説を読みながら、彼女は何か考えごとでもあるのか宙に目を向けながら。


「今日さー」


 その佐伯さんがぼんやりした調子で切り出した。


「なんですか」

「昼休みにね――」

「……」


 昼休みと言えば、思い出されるのは浜中君との一件だ。その話だろうか。


 だが、彼女の口からなかなか次の言葉が継がれない。湯飲みを両手で包むようにして持った構造のまま、何やら考え込んでいる様子だった。


「やめた。やっぱりいい」

「……そうですか」


 なんとなくほっとしてしまう。知っていることを知らない振りしながら聞くのは面倒そうだし、今ここでその話をされても反応に困っただろう。


 言葉がなくなった。


 特に何か見たい番組があるわけでもなく点けていたテレビが、ふたりの間にある沈黙を埋める。


「ねぇ」


 しばらくしてまた唐突に、何か思いついたように佐伯さんが発音した。


「キスしようか」

「急にわけのわからないことを言わないでください。脈絡がなさ過ぎますよ」

「いいじゃない」


 彼女は腰を浮かすと、膝で歩きながらテーブルを迂回してこちら側までやってきた。意外に素早い動きで、あっという間に僕の膝の上に乗る。


「理由なんてしたいからで十分だと思わない?」

「思いませんよ」

「ねぇ……」


 ねだるように甘えた声を出す佐伯さん。僕の首に両手を回し、顔を近づけてくる。この強引さは今日の昼休みのことが多少なりとも影響しているのだろうか――などとのんびり考えている場合じゃなさそうだ。ここまで努めて冷静に対応してきたが、いよいよ不味い。


「いいかげんに悪ふざけはやめてください」

「んー……」


 しかし、おかまいなしに顔を寄せてくる。ダメだ、ぜんぜん聞いていない。


「ちょ、佐伯さん、本当にやめ――うわっ」

「きゃっ」


 なんとか必死に距離をとろうと首を引いて抵抗していたら、重心を後ろにかけ過ぎたようで、最後には座椅子ごと後ろに倒れてしまった。僕と佐伯さんは、もろともにひっくり返る。


「あー、びっくりしたぁ」

「それはこっちの台詞です」


 仰向けに倒れている僕と、僕の頭の左右に両手を突いて覆いかぶさっている佐伯さん。


「ふっふっふ。でも、もう逃げられないよね」

「いいかげんに――」


 と、言いかけたそのときだった。


 玄関のほうから何か物音が聞こえた気がした。


 僕と佐伯さんは動きを止め、上と下で顔を見合わせる。どうやら彼女にも聞こえたようで、気のせいではないようだ。そう言えば、玄関の鍵は閉めていただろうか。


 そして、今度はリビングのドアが開いた。


 そこに立っていたのは、見たことのない大人の男の人。後ろに撫でつけた髪には耳の上あたりに白いものが混じっているが、若々しくエネルギッシュな印象を受ける。


「何だこれは!」


 男の人が驚きの声を発する。


 誰だ?

 という僕の疑問は、次の佐伯さんの言葉で氷解した。


「お父さん!?」

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