2.「いったいどこの誰ですか?」

「起立、礼」


 クラス委員である雀さんの号令の後に、クラスメイトたちのやる気のない「さよなら」の声が続いた。


 終礼終了。

 放課後だ。


 そして、帰り支度をする僕に声をかけてきたのは、その雀さんだった。


「弓月君、この後ヒマ?」

「……」


 直後、頭にいくつかの考えが巡り、そのことが僕を無言にさせた。


「ちょっとぉ、聞こえてます?」

「あ? ああ、聞こえてます。……えっと、それはもしかしてデートのお誘いでしょうか?」

「ち、違いますっ」


 雀さんは顔を赤くしながら、間髪容れず否定した。


「でしょうね」


 少し考えればそんなはずはないとわかりそうなものだが、今朝からのことがあって、どうにも考え方がおかしくなっているようだ。


「で、どうなの?」


 雀さんが改めて問う。


 この後か。さてどうだろう。予定なんてものは往々にしていきなり飛び込んでくるものだからな。特に僕の場合。


 と、


「あら、ナツコ。恭嗣をデートに誘ってるの? でも、悪いけど恭嗣は私のよ」


 そこに現れた宝龍さんが、僕が言葉を発するよりも先に横から口を挟んできた。


「宝龍さんまでそんなこと言うんですか。そんなんじゃありません」


 雀さんとしてはそう思われるのは至極心外だったらしく、頬を膨らませるようにして言い返した。


「そうよね。ナツコのお目当ては恭嗣じゃないものね。もしかして恭嗣経由で攻める気?」

「な……っ」


 今度はさらに言葉も出なくなったようで、口をぱくぱくさせている。……なるほど、そうだったのか。


 やがて彼女は二、三度深呼吸をしてから、


「わ、私はみんなでこの後どこかに行こうかと思って、最初に弓月くんを捕まえにきただけです」

「そう。でも、恭嗣は私と先約があるのよ」

「何かありましたか?」


 はて――と、僕。


「図書室」

「あぁ」


 そうだった。昼休みの図書室の件は、佐伯さんの登場で時間切れとなってしまったのだった。どうやら今から行くからついてこいということらしい。


「それなら仕方ないですね。いつの間にか滝沢さんも矢神君もいなくなってるし」


 矢神は、宝龍さんが現れたあたりで、気配を殺しながら教室を出ていくところを横目で見ていた。滝沢はどうせ生徒会室にでも顔を出しにいったのだろう。


「また今度にします」

「悪いわね」

「いいえぇ。そういうことなら喜んで」


 雀さんは計画が頓挫したというのに、嬉しそうに帰っていった。だいたい何を考えているか想像がつくが。


「私たちも行きましょうか」

「どうにも先ほどから、僕の意見というか意志というか、そういうものが軽視されている気がしますね」


 とか言いつつも、歩き出した宝龍さんの後を、僕もついていく。どういう選択肢をとるにしても、教室を出ないことにははじまらない。


「何か予定があった?」

「というか、佐伯さんが待っていると思うんですよね」

「そうなの? ……あら、本当ね」


 廊下へと出るとそこには、佐伯さんが窓にもたれて立っていた。制鞄の持ち手を両手で握りしめている。


 彼女は僕を見、それから宝龍さんへと視線を移した。むっとした顔。宝龍さんも見つめ返す。


「そういうわけなので、宝龍さん、図書室はまた今度――」

「私たち、今から図書室に行くけど、あなたも一緒にこない?」


 僕の言葉を遮って、宝龍さんが佐伯さんに尋ねた。予想していなかったその提案に、僕も思わず宝龍さんを見た。


「なんでわたしまで行かなくちゃいけないんですか?」

「図書室に行ったことは?」

「え? な、ないですけど……?」


 抗議めいた返答にもかまわず質問を重ねてくる宝龍さんに、佐伯さんはわずかに動揺を見せた。


「いい機会だわ。ついてらっしゃい」


 そうして宝龍さんは、佐伯さんの返事も聞かず歩き出した。


 佐伯さんが何か聞きたげに僕を見る。そんなふうに見られても困る。宝龍さんの意図が読めないのは僕も同じなのだから。


 結局、佐伯さんはおとなしくついていくことにしたようだ。


 一日で最も騒がしい放課後の廊下、宝龍さんが先頭を切り、彼女があけた道を僕と佐伯さんが歩く。何とも人目を引く行軍だが、それも渡り廊下を渡って特別教室の集まる校舎に移ってしまえば、見る生徒そのものがぐっと減る。


「ねぇ、図書室って三階だったっけ?」


 佐伯さんは後からついていくのにも飽きたのか、宝龍さんを追い抜かして前へ出た。階段のところで振り返って聞いてくる。


「そうですよ」


 僕が答えると、階段をのぼりはじめた。

 今度は僕と宝龍さんが並んだ。


 僕の目線よりも高い位置を、佐伯さんがスカートも押さえずに上がっていく。それを特に何か思うわけでもなく何となく眺めていると、


「痛っ」


 横から宝龍さんの肘打ちが脇腹めがけて飛んできた。


「あなたも少しは気をつけなさい。バカな男子が喜ぶだけよ」

「別にいいじゃないですか。今は弓月くんしかいないんだし。一緒に暮らしてたら、もっといろんな恰好を見られてますから。わたしは平気ですよ」


 そこで佐伯さんは踊り場に到達した。階段は踊り場で180度向きを変える構造なので、僕たちの視界から彼女の姿が消える。


「あなたたち、どういう生活してるわけ?」

「彼女の誇張表現を真に受けないでください」


 遅れて僕たちも方向転換をすると、佐伯さんはすでに階段をのぼり切っていて、こちらを見下ろしながら待っていた。


「それとも宝龍さんは、弓月くんに見られたら恥ずかしいんですか?」

「そういう問題じゃないわ。女としての恥じらいと慎みを持ちなさいと言ってるの」


 ため息混じりの宝龍さん。


 そして、僕たちもあと数段というところで――、


「……エラそうに言うんですね」


 佐伯さんのその吐き捨てるような言い方に、僕はどきっとして我知らず足を止めていた。


 対して宝龍さんは、そのまま階段をのぼり、佐伯さんと向き合った。


「……」


 が、何も言わない。


 階段の最上段での対峙。


「当然ですよね。弓月くんは宝龍さんのほうを選んだんですから」

「それについては謝るわ。あなたとそういう話になっているとは知らなかったの」


 謝ると言いつつ、持った生まれた貫禄のせいでどうにも謝っているようには見えない、などと茶々を入れるのは心の中だけにしておくか。


「佐伯さん、僕はね――」


 階段の手すりに軽くもたれる。


「君とはいつも一緒にいるし、遊びに出かけるのだっていつでもできると思ったんですよ。それに比べて宝龍さんとはあまりそういう機会はありません。ただそれだけのことです」


 僕と宝龍さんは、去年ああいうことをしてしまったせいで、関係が歪なものになった。それを修正し、普通の友人、普通のクラスメイトになるには、今がいい機会だと思っているのもある。


「嘘っ。わたしより宝龍さんのほうが大事なんでしょ。つき合い長いもんね」

「……」


 つき合いが長い――。


 それは確か前に僕が言った台詞だ。


 そういうことか。

 ずいぶんと、まぁ、僕は……。


「あなた、恭嗣の言ったことが信じられないの?」


 何も言えないでいる僕に代わって、宝龍さんが口を開いた。いつもならどことなく冷ややかに聞こえる彼女の声が、このときは珍しく悲しげで、心配げに響いた。


「そ、そうじゃないけど、でも……」

「少し前から気になっていたのよ。あなたがあまりにも余裕がないように見えたから」

「当たり前じゃない! 美人で、大人で、わたしの知らない弓月くんを知っていて、そんな人がいたら余裕なんてなくなるに決まってるじゃない。あなたが普通に、ただ弓月くんと一緒にいるだけで不安になるの。一度もう終わったんでしょ!? だったら今さら出てこないでよ!」


 佐伯さんは堰を切ったように、溜め込んでいたものを一気に吐き出した。


 そして、程なくこの件は、唐突に終わりを迎えることになる。


 宝龍さんが深いため息を吐いた。


「隣の薔薇は赤く見えるとはよく言ったものね。……そう、わかったわ。でも、まずは落ち着いたほうがいいわね」


 佐伯さんに歩み寄り、肩に触れようと手を差し出す。


 が、


「いやっ。寄らないで!」


 彼女はその手を拒絶した。

 優しく触れようとした宝龍さんの手を払い、詰められた距離の分だけ後ろに下がる。


 二歩目。

 その足が階段を踏み外した。


 ひとつ下の段に落ちた足首が不自然に曲がり、バランスを崩した佐伯さんの体が宙に投げ出される。


「ぇ?」


 と、何が起きたのかわからない様子の彼女の顔。


「佐伯さん!」


 ほぼ同時、僕は叫び、もたせかけていた背を離して駆け出していた。

 手を伸ばす。

 辛うじて間に合った――が、片手だけでは重力に囚われた人ひとりを支えることはできなかった。床を蹴る。僕自身も宙に身を躍らせた。


 浮遊感。

 もろともに、落ちる。


 せめて――。


 僕は咄嗟に佐伯さんの頭を胸に抱え込んだ。


 まずは背中を強打。

 それから頭への鈍い衝撃。


「恭嗣!」


 遠く宝龍さんの声が聞こえた気がしたが、


 そこで僕の意識は途切れた――。





 ……。


 ……。


 ……。





                  §§§



 文章はそこで終わっていた。


 僕は持っていた紙の束を机の上に置く。A4サイズの用紙数枚。それは宝龍さんが今書いているという小説をプリントアウトしたものだ。


「で、この後どうなるんですか?」


 気になる先の展開を、僕は作者殿に尋ねた。


 ――放課後の教室。


 僕は宝龍さんから感想を聞かせてほしいと渡された小説の原稿を読み終わったところだった。僕たちのほかにはおしゃべりをしている女の子のグループや、携帯ゲーム機で遊んでいる男子数人がいる。


「どうしようかしら? 今考えてる最中よ」


 と、宝龍さん。


「記憶喪失になるとか、今までのがぜんぶ夢で目が覚めるとか。このまま死んでしまうのもいいわね」

「人の名前を使っておいて、やりたい放題ですね」


 そして、けっこうベタだ。いい名前が浮かばないからと、ひとまずの仮名らしいが、同じ名前の僕としてはたまったものではない。というか、明らかにモデルは僕だろう。


「それで、感想はどうなのかしら?」

「そうですね。僕は文芸関係はさっぱりですが、初めて書いたにしてはまずまずじゃないでしょうか」

「そう。恭嗣にそう言ってもらえたら自信が持てるわ」


 宝龍さんはわずかに笑みを見せた。


「ただ、ある程度先の見通しを立ててから書かないと、いずれは行き詰まるみたいですよ」


 ま、普段の矢神を横で見ているだけの素人の意見ですが――と、つけ加えておく。


「それはそうと、この中に出てくる佐伯さんというのは、いったいどこの誰ですか?」


 彼女だけモデル不在だ。


「あら、お気に召さなかった? 恭嗣、案外こういう女の子も好きかと思って」

「僕はもっとおとなしい、おしとやかな子が好みですね」


 って、いったい何の話をしているのだか。


「そうだったわね。覚えておくわ。私もおしとやかとは言えないものね」


 彼女は苦笑しつつ原稿のプリントアウトを手に取ると、クリアファイルに入れてから鞄の中にしまった。席から立ち上がる。


「じゃあ、そろそろ部室に行くわ。つき合わせて悪かったわね」

「いいえ、かまいませんよ。どうせついでですから。いい暇つぶしになりました」


 そんな僕の返事に宝龍さんは、言葉ではなく笑顔で応えた。

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