――#6

1.「忘れるわけがないでしょう」

 それは長い一日のはじまり。


「もうすぐ七月で、七月に入ったらすぐに期末テストじゃない?」


 朝、テーブルをはさんで向かいに座る佐伯さんが、ベーコンエッグを箸でつつきながら言った。


「そうですね」


 確かに授業の中でも「ここは重要」「ここはテストに出す」「『牛車』と書いて『ぎっしゃ』と読む」などの言葉をよく耳にし、否が応でもテストを意識させられている。


「そんなわけで今度の日曜は一ノ宮に行こー」

「何か買いものですか?」

「デートです。デ、ェ、ト!」


 鈍いなぁ、もう――と、佐伯さんは口を尖らせた。


「まぁ、僕も買いものというか探しものがありますから、つき合ってもいいですが」


 レタスとトマトの生ハムサラダにドレッシングをかける。トマトは苦手だ。


 実際に何を買うかは決まっていないが、七月の某日までに用意しておきたいものがある。再来週だとテスト前最後の日曜になるし、一ノ宮まで足を伸ばすなら今度の日曜だろう。


「買いもの?」

「たいしたものじゃありませんけどね」

「あ、わかった。わたしの誕生日プレゼントだ」

「……」


 彼女は鋭い。誰かと違って。


 そう。七月七日の七夕は佐伯さんの誕生日なのだ。


「……違いますよ」


 僕はひとまずそのフレーズだけを絞り出した。

 体勢を立て直そう。


「しかし、言われてみれば、そんなイベントもありましたね。何か欲しいものがあるなら考えますよ」

「言っていいの?」

「どうぞ。でも、買えるかどうかは、まぁ、ものによるでしょうが」


 ブランド物の服とかだと、まず無理だろう。


「ふっふっふっ。じゃあね――」

「やっぱりやめておきます」


 佐伯さんの不敵な笑みに、いやな予感を感じた。


「ひっどーい。ちゃんとお返しも考えてあるのに」

「何か出るんですか?」

「現物支給」

「……さて、ごちそうさまでした」


 僕は立ち上がった。佐伯さんが頬を膨らませて何やら不満げにこちらを見ているが、無視だ。食器を重ねてシンクへと運ぶ。それからマグカップに二杯目のコーヒーを注いだ。


「あ、そうだ。日曜のデートは?」

「僕に何の予定も入らなければ、ですね」


 そう言って僕は逃げるようにリビングへ立ち去った。





「おっと」

「きゃっ」


 休み時間、教室の出入り口で危うくぶつかりかけた相手は宝龍美ゆきだった。僕が外から戻ってきたところで、彼女が教室を出るタイミングだった。


「ぶつかって倒れた拍子にキスってできると思う?」

「奇跡的な確率でしょうね。それでも壁抜けを期待して一万回壁に体当たりを試みるよりは、可能性は高いかもしれません」


 量子力学的にはあり得るらしいが、果たして成功例はあるのだろうか。


「恭嗣、ちょっといい?」

「何ですか?」


 僕たちは廊下に出て、窓のほうに寄った。


 休み時間の廊下は昼休みほどではないが、そこそこに生徒の姿が見られる。トイレに行ったり、教室移動だったり。あとは僕らのような立ち話。一時的な開放感ではしゃぐのは昼休みのようだ。


「普段、日曜は何をしてるの?」

「……」

「どうかした?」

「いえ、何でもありません」


 朝も佐伯さんと日曜の話をしたばかりなのだが。今日はそういう日なのだろうか。


「その質問の意図は何です?」

「ひとつは純粋な興味よ。今までそんな話、ほとんどしたことなかったでしょう?」


 確かに。仮面恋人にはそんなものは必要なかった。


「それと今の恭嗣がどうなのかを知りたいのよ」

「ま、ごく普通の高校生ですよ、僕」


 去年は家が遠かったとはいえ、遊びに行くのに学校まで出ないといけないわけでもなく、程よい距離の繁華街で滝沢や矢神と遊び歩いていた。


「今は?」

「今も普通ですよ。平日にたまった日常の雑事を片づけて、勉強。夕方は買いものです」


 なんとも高校生らしい。


「買いものは彼女と一緒? どちらかというと新婚生活ね」

「……」


 下宿生らしいと言ってほしいものだ。


 宝龍さんはそれきり黙った。僕は窓にもたれて立ち、彼女は逆に窓のほうを向いて外を見ている。


「話はそのアンケート調査だけですか?」

「ああ、そうね。急に腹が立ってきて、肝心なことを忘れていたわ」

「また怖い冗談を」


 どうも彼女の声の調子を聞いていたら本気のようにも思えるが、ここは冗談としてとっておこう。


「結局、日曜はたいして忙しくないと思っていいのかしら?」

「いいですね」


 自室の掃除などの雑多な用事があるとは言え、去年ほど遊び回っていないのは確かだ。


「そう。じゃあ、今度の日曜、私につき合いなさい」

「男手でも必要ですか?」

「いわゆるデートよ。鈍いわね」

「……」


 僕は天井を仰ぎ見た。

 佐伯さんのときもそうだが、何となくそうではないかと予想はしていたのだ。ただ、そうでなければいいという希望や期待が邪魔をするだけで。


「どうなの?」

「少し考える時間をください」

「二十五秒から三十五秒」


 短いな。

 さて、次の日曜か。確か予定はまだ何もなかったはずだ。期末考査にはいちおうまだ余裕がある。断る理由は特には見当たらない。


「まぁ、いいんじゃないでしょうか」

「二十二秒。及第点ね。思考は訓練次第で速く遠くに届かせることができるわ。恭嗣は頭の回転が速いんだから、もっと意識しなさい」

「努力しますよ」


 あまり買いかぶられると困るのだがな。ひとまず模範解答的な返事で答えておく。


「去年、恭嗣とは学校の帰りに何度か寄り道をしたけど、これが初めてのデートになるのね」


 そこで宝龍さんは一度僕に向き直り、笑顔を見せた。


「楽しみにしてるわ」


 そして、僕の目の前を横切り、教室ではなく廊下の向こうへ去っていった。


 僕はというと、果して彼女は休み時間が終わるまでに戻ってくるだろうか、と考えていた。





『今までと同じ考えや行動を繰り返して、異なる結果を期待するのは狂気の沙汰である』


 そう言ったのは、確かアインシュタインだったと記憶している。


 だからと言うわけではないが、今日は普段は飲まない自販機の缶コーヒーを買ってみた。考えたいことがあって、味覚への刺激が同時に思考への刺激になるかと思ったのだ。


 昼休みの学生食堂前。


 校舎の一階の端にある学食は、だいたい教室3つ分くらいをぶち抜いた程度の広さがある。そこに設置された自販機で缶コーヒーを買った僕は、学食を出て廊下の窓にもたれて立っていた。学食側の窓はすべて開け放たれていて、中がよく見える。皆賑やかに昼食をとっていた。


 缶コーヒーのプルタブを開け、ひと口飲んだところで、学食から出てきた四人ほどの一団の中に知った顔を見つけた。


 今まで一緒に食事をしていたのだろう、男子生徒ふたり、女子生徒ふたりの、男女比一対一グループ。僕が唯一知る彼は背が高いほうではなく、隣に並ぶ女子生徒と同じくらいだった。


 容姿も人畜無害そうな、今風に言えば草食系とでも表現するのだろうか。そんな中性的な雰囲気。

 浜中君だった。


 彼も僕に気がついた。


「やあ」


 無視するのもどうかと思い、というか、面白そうなので声をかけてみる。


「あ、こんにちは、先輩。最近よく会いますね」


 浜中君は足を止め、にこやかに応じてくれた。嫌そうな顔ひとつせず。なかなかよく訓練されている。


「誰? 知ってる先輩?」

「ちょっとね。悪いけど先に行ってて」

「おっけー」


 彼の友人たちは快くうなずき、浜中君を置いて再び歩き出した。


 残ったのは僕と彼。

 一対一。


「ほんと、よく会いますね」


 今度は先ほどとは違って迷惑そうな顔で、そして、それを隠そうともせずに言う。


「すみません。あまり行動範囲が広くないもので」

「だったらこっちの教室までこないでほしいですね」

「気をつけますよ」


 先日のあれは僕にとってもイレギュラな行動だった。


 コーヒーをひと口飲む。


 いい機会だと思ったのか、浜中君は続けて質問を投げかけてきた。


「先輩って、佐伯さんの何なんですか?」

「さぁ、何でしょうね。近所の住人、彼女がここにきて初めてできた友人、同じ学校に通う生徒……。そういった諸々のことが重なって懐かれてしまったようですね」

「桜井さんとも、よく先輩のこと話してますよ」

「……」


 それは恐るべき事実だ。何を話しているのだろうな。ひどく不安を煽る。


 浜中君は改めて僕を見、そして、鼻で笑った。


「こんなののどこがいいんだか」

「あぁ、それは僕も知りたいですね」


 冗談ではなく、本気で。


 すると、彼は僕を睨みながら言った。


「先輩ってすごいムカつきますよね。誰にでも敬語で、いかにも裏がありそうなところとか」

「人間、誰にだって二面性はありますよ。君だって表裏がはっきりしている」


 尤も、それだけはっきりしていれば、人によっては逆に好感を持つかもしれない。少なくとも僕なんかよりはマシだろう。


 浜中君は黙ってさらに強く僕を睨みつけてくる。肩をすくめたい気持ちだったが、僕は素知らぬふりでまたコーヒーに口をつけた。ただならぬ僕らの様子に、学食帰りのグループがちらちらと横目で見ながら通り過ぎていった。


「あ、そうそう。部活の先輩から聞きましたよ」


 そう言った彼の顔には、見下すような笑みが薄く貼りついていた。


「先輩ってけっこう有名人だったんですね。去年、いろいろやらかしたそうじゃないですか」

「終わった話ですよ。……あぁ、因みにそのことは佐伯さんも知ってますので」

「……」


 かすかに舌打ち。なるほどね。悪しからず。


「先輩みたいなのより僕のほうが女の子に受けると思うんですけど。そう思いません?」

「同感ですね」

「でしょう? 佐伯さんも見る目がないよなぁ。彼女も案外たいしたことないのかも。僕も見る目が曇ったかな」

「……」


 アウト。


 次の瞬間、僕はあいてた手で、浜中君の喉を掴んでいた。それからお互いの立っている位置を入れ替えるようにして、彼の背を窓に押しつけた。


「がっ。な、何を……――」


 足を出されると困るので、手に力を込めて辛うじて爪先が床につく程度まで吊り上げる。喉が絞まり、彼の言葉が途中で途切れた。


「あまり調子に乗るなよ、新入生。こっちだっていつまでも黙ってるわけじゃない」


 さすがに今度は通りかかった生徒も足を止めたようだ。周りからギャラリィのざわめきが耳に入ってきた。


 僕はかまわず続ける。


「それと彼女に――」

「何をしているの、恭嗣!」


 が、横から飛び込んできた声に、僕の言葉は阻まれた。


 クールダウン。


 僕が手を離すと、浜中君は喉を押さえながら蒸せた。


「ひとつ言っておきますよ。陰でこそこそ言ったりやったりするのはよくないです。男を下げます」

「……ふん」


 彼は僕を睨むようにして一瞥すると、鼻を鳴らして去っていった。


 代わりに現れたのが宝龍さんだ。


 彼女は、まずは何も言わずギャラリィに目を向けた。何ごとかと集まっていた生徒が、三々五々散っていく。いつもながら見事な眼力だ。


「何があったか知らないけど、恭嗣にしては珍しいわね、頭に血が上るなんて」

「頭に血が? いたって冷静ですよ、僕は」


 ちゃんと窓が割れないように注意もしていたし。


 コーヒーを飲む。


 ついでに言うと、こちらも一滴とこぼれていない。


「僕に何か用ですか?」


 問うと宝龍さんは呆れたようにため息を吐いた。まだ言いたいことがあるが無駄だろうからやめた、といったところか。


「図書室に行くわ。つき合って」

「図書室? まぁ、いいですが」


 僕は残っていた缶コーヒーを一気に飲み干し、空き缶を学食に入ってすぐのところにあるゴミ箱に放り込んだ。


 宝龍さんと一緒に廊下を歩く。


「矢神君お薦めの本があるらしいの。わざわざ買わなくてすむからって、おしえてくれたわ」

「なるほど」


 矢神も真面目な文芸部員と化した彼女の面倒をよく見ているようだ。


 僕らはひとまず教室に戻ってきたが、中には入らず素通りした。


「ところで、最近あの子の様子はどう?」


 宝龍さんが問うてくる。


「佐伯さんですか? いつも通りおかしいですよ」

「羨ましいわね」

「そうですか?」


 宝龍さんからすれば、あれだけ羽目を外せる佐伯さんが羨ましく見えるのだろうか。


「恭嗣は私のことをそんなふうには言わないでしょう?」

「言いませんね」


 というか、言えません。恐ろしくて。


「それだけ恭嗣があの子を近くに置いているということよ」

「……」


 続いて階段に差し掛かったが、ここも素通りする。図書室は特別教室の集まる校舎の三階にあるが、まずは渡り廊下でそちらに移ってから階段を上がることにしよう。


「……別にそこまで深く考えての発言じゃないですけどね」


 教室をいくつか越えたところで、渡り廊下がぽっかりと口を開けて待っていた。そこを直角に折れると、その先には窓から陽の光が差し込むひときわ明るい連絡通路が延びていた。


「佐伯さんは――」

「わたしが何?」


 不意打ち気味に背後からの声。


 僕と宝龍さんが驚いて振り返れば、そこには目を据わらせたとびきりの美少女が立っていた。


「なぜ君がここにいるんですか」

「べっつにぃ。ただ階段から降りてきたら、ちょうどふたりが仲よく歩いてたから追いかけてきただけ」


 それから彼女は宝龍さんに視線を移した。


「それで、そちらはわたしの陰口ですか?」


 これには宝龍さんもむっとしたようだ。


「そんなんじゃないわ。でも、そうね。次の日曜の、デートの打ち合わせくらいはしていたかもしれないわね」


 ぎょっとする僕。何を言い出しますか。


 佐伯さんは、今度は弾かれたような勢いで僕を見た。


「何それ。次の日曜はわたしとデートするって言ったじゃない」

「言いました。でも、決まったわけじゃないでしょう? 確か何の予定も入らなければ、と言ったはずです」

「そ、そうだけど……」


 佐伯さんが口ごもる。それを見て僕は後悔した。こんなときは正論で言い返すものではない。


 そして、


「もういいっ」


 彼女は身を翻し、駆けていった。


 ただ黙って見送る僕と宝龍さん。何人かの生徒が、佐伯さんが走り出てきたのを見て何かあったのかと、向こうからこちら側を覗き込んでいた。


「何であんなことを言ったんですか」


 程なく僕が先に口を開いた。


「つい、ね」


 こんなことがしたかったわけじゃないんだけど――と彼女は独り言のようにつけ加えた。


「まったく。よくそれで人のことを、頭に血が上ってるなどと言えましたね」

「反省してるわ」


 そうして悔恨のため息を漏らす。


「それよりも恭嗣。あなた、あの子と約束してたの? まさかそれを忘れていたわけじゃないでしょうね」

「忘れるわけがないでしょう。僕が、佐伯さんのことを」


 直後、宝龍さんが僕を見た。

 横顔に感じる視線でそれがわかったが、ここはあえて無視をする。


「聞いていたでしょう? 話はありましたよ。ただ、決定はせずに、条件付きの保留だったんです」


 いちおうこれでも僕なりに、不義理ははたらかずに発言しているつもりなのだがな。


 長い一日は、まだ半分を過ぎたところだった。

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