2.「詮索しないほうがいいこともあります」

 ここのところひとりで登校することがぐっと減ったものの、それでも週に一、二回はひとりで家を出ることがある。今日もそんな日のひとつだ。


 学校に向かって歩く。

 気温も湿度も春より確実に高く、間近に迫った夏の到来をまさに肌で感じるといったところだ。


 学園都市の駅と水の森高校とを結ぶ道に合流しても今日は知った顔に出会うことなく、そのまま学校に辿り着く。


 と――、


 昇降口の下駄箱の前に宝龍美ゆきがいた。


 ローファーから上靴に履き替えている最中だ。僕に背を向ける構図なので、僕はまだ彼女に見つかっていない。夏服のスカートから伸びる足がまぶしい――と思っていたわけではないが、僕は少し手前で止まっていた。


 人の気配を感じたのか、それとも、視界の隅に姿を認めたのか、宝龍さんは靴を下駄箱に片づける段になって、ようやく僕に気がついた。


「あら、恭嗣。おはよう」


 温度の低い声だ。


「おはようございます」

「そんなところで立ち止まって、どうかしたの?」

「いえ、特に理由はありませんよ」


 僕は止まっていた足を前に進めた。


「そこで目を光らせていても見えないわよ。いつも気をつけているもの」

「何のことかわかりませんが、違いますよ」


 僕も自分の下駄箱から上靴を取り出し、床に落とす。靴を履き替える間、宝龍さんはずっと横で待っていた。


「学校にきて最初に会ったのが宝龍さんというのはどうなのかな、と」

「運がいいと思いなさい」


 彼女は当たり前のように言う。


「お待たせしました」


 上靴に足を突っ込んだ僕は、宝龍さんと一緒に歩き出した。


「中間テストをはさんだせいで聞き忘れていましたが――雀さんに言ったんですね、昔のこと」

「ええ」


 答える彼女の返事は短い。


「なぜ今になって?」


 そこにはおそらくあの日の屋上での佐伯さんの言葉が影響しているだろうことは想像できるが、実際に彼女がどういう考えをもってそうしたのかは不明だ。


 僕らは昇降口からいちばん近い階段を上る。


「過去の罪の清算、かしら」


 途中まで上がったところで、宝龍さんはようやく次の言葉を発した。


「大袈裟な言葉を選びましたね」

「でも、本当のことだわ。私は恭嗣が悪ものにされているのを知りながら、あれが見栄からはじまった恋愛ごっこだなんて言い出せなくて黙っていたのよ。何のメリットもなくかばってくれた恭嗣に甘えていたの」

「……」


 その罪の告白、か。


「本当ならあの子の言う通り全校生徒に知ってもらうべきなのかもしれないけど、そうしたところで今さら蒸し返すだけの結果にしかならないでしょうね」

「だからせめて雀さんに、ですか?」

「ええ」


 言って、彼女はうなずいた。


 階段を上り切り、二階の廊下を行く。登校ラッシュもそろそろピークを迎える頃なので、廊下には生徒の姿も多い。僕らが歩くとぶつかりそうでもないのに、皆道をあけるように脇に退くのは宝龍さんがいるからだろう。人目を引く容姿も留年しているという事実も、人を遠ざけてしまうのだ。


 しかし、そんなことは気にしたふうもなく、彼女は続ける。


「ナツコは未だに恭嗣を責めてたわ」

「そうですね」


 雀さんは宝龍さんを尊敬し慕っていたから、その分よけいに僕を赦せなかったのだろう。


「ナツコ、もう何も言わなくなったでしょう?」

「まぁ、静かすぎて少しもの足りないですけどね」


 あれだけ目の敵にして突っかかってきていたのが、今ではすっかりおとなしくなってしまった。


「……恭嗣。あなた、そういう種類の人間だったの?」

「違いますよ」


 僕はマゾか。


「今はまた別のことでうるさくなってきましたけどね」


 どうも雀さんは僕と宝龍さんを再度くっつけたいようだ。そういう話題が好きなところは、クラス委員長と言えども女の子ということなのだろう。


「雀さんはうるさいくらいのほうがいいです」

「そう。やっぱりそうなのね」

「……」


 やたらと墓穴を掘ってしまう己を呪っていると、やがて教室が見えてきた。





 朝佐伯さんと一緒ではなかったからといって、一日中彼女と顔を合わせないなどということはなく。一緒に暮らしているから朝晩は別としても、今日みたいな日こそ佐伯さんは遠慮なく人の生活圏に侵略してくる。


 昼休み。


「弓月ー。佐伯さんきてるぞー」


 クラスメイトにそう呼ばれたとき、僕は弁当を食べ終えて、前の席の矢神と無駄話をしている最中だった。もとより非アクティブな人間なので、昼休みはいつもこんな感じなのだが。


「なんでこう毎日のように、お前のところに一年の女の子が訪ねてくんだよ」


 席を立った僕とすれ違いざま、彼はそんなことを言う。確かにテスト明けには桜井さんがきていたな。


「知りませんよ。何かの祟りじゃないですか」


 それか取り憑かれているか。


 教室の入り口に立っている佐伯さんを連れて廊下に出ようとすると、それよりも先に彼女が口を開いた。


「宝龍さんは?」

「ん? いませんか?」


 振り返るとクラスメイト(主に男子)の攻撃的な視線が多数あった――が、あえてそれは無視し、教室内を見回してみる。


「いませんね」


 彼女も弁当組なので、さっきまで女の子たちと一緒に食べていたと思ったのだが。


「どこかに行ったようですね」

「ふうん」


 何をか考えている様子の佐伯さん。


 果たして、ここに宝龍さんがいたらどうするつもりだったのだろう。あまり目立つ場所で宝龍さんに突っかかるのはやめてほしいものだ。


「ほら、ここにいると邪魔になりますから」


 佐伯さんを押して廊下に出る。


「今日は何しにきたんですか」

「あ、そうそう」


 窓際まで寄ってから佐伯さんは振り返った。


「お弁当、美味しかった?」

「何かと思えば、そんなことを聞きにわざわざきたんですか?」

「そんなことってゆーな。今日は新しいことに挑戦したんだから、気になって当然でしょ」


 彼女は口を尖らせる。


 そうだったのか。いつもと同じような気がしたのだが。今度からはただ食べるだけでなく、もう少しいろんなことに気をつけながら食べることにしよう。


「日々進化を続ける愛妻弁当を舐めるなと言いたい」

「君と結婚した覚えはありませんよ。だいたいいまいちだと答えたらどうするつもりですか」


 帰ってから聞けばすむことだろうと思うのだが。


「えっと、お詫びに脱ぎます?」

「脱がなくていいです」


 なんだその疑問形は。あいかわらず奇抜な思考だ。


「まぁ、兎に角、美味しかったですよ」

「そっか。よかった」


 佐伯さんは嬉しそうに笑顔を見せた。


「これで弓月くんの好みもだいぶ把握できたかな? 晩ごはんも張り切るから、楽しみにしてて。……じゃあね」


 そうして佐伯さんは帰っていった。


 長居しようとする素振りがまったくなかったあたり、本当に弁当の感想を聞きにきただけのようだ。作った本人としては気になるものなのだろうな。


 僕は教室に入り、自分の席に戻った。


「佐伯さん、なんだったの?」

「通りがかりに顔を出しただけのようです。たいした話じゃありませんでした」


 無駄話再開。


 そのままいつものように昼休みを過ごすつもりでいると、宝龍さんが戻ってきた。教室内の壁掛け時計を見るが、時間感覚に自信がもてなかった。佐伯さんが帰ってからどれくらいがたつのだろう。タイミング的にふたりは接触しただろうか。


 宝龍さんはふと僕に目をやり、思いついたようにこちらに向かってきた。


「矢神君。悪いんだけど、恭嗣と話があるの。彼とその席を貸してくれないかしら?」


 丁寧ながら有無を言わさぬ口調だ。これなら理事長室の理事長に頼んでも席を譲ってもらえそうだ。


「あ、うん。……じゃあ僕、トイレでも行っとこうかな」


 彼を弱いと責めるのは酷というものだろう。


 矢神が席を立ち、代わって宝龍さんがそこに座った。


「何ですか、話って」

「特にないわ」

「……」


 かわいそうに、矢神。

 僕は心の中だけで天を仰いだ。


「ただ、お互い自分のことを話したことがなかったと思ったの」

「別に知りたいと思うようなこともないでしょう。僕だって語って聞かせて面白いエピソードを持ち合わせてませんし」

「あら。恭嗣は私のスリーサイズとか知りたくないの?」

「聞けばおしえてくれるんですか?」

「かまわないわよ。減るものでもなし。上から、はちじゅう――」

「すみません。特に知りたくないので、言わなくていいです。言わないでください」


 危うくおそろしい個人情報を入手するところだった。


「なら私が留年した理由は?」

「……」


 返答に困る僕。


 確かに気になる点ではある。圧倒的絶対的に成績優秀だった宝龍美ゆきが、なぜ定期考査をすっぽかしてまで留年したのか――。それについては今でも様々な憶測が飛び交っているが、そうと確信できるほどの説は出ていないし、彼女も依然語ろうとしない。


 今なら聞けば答えてくれるのかもしれない。


「……」

「……」

「いえ、やめときましょう。詮索しないほうがいいこともありますから」

「……そう。確かにそうね。こんな話、恭嗣が聞いても困るでしょうしね」


 彼女は薄く笑った。


「じゃあ、ひとつだけ――」


 と切り出し、宝龍さんは問うてくる。


「恭嗣、私がつき合ってって言ったときのこと覚えてる?」

「あの日、ですか?」


 僕は記憶の糸を手繰り寄せた。


 あの日は現代社会の授業で翌日までに日本国憲法の前文を丸暗記するという、意味の見いだせない課題が出されていた。ところが僕は学校の机の中に教科書を置き忘れてしまい、取りに戻ったところに宝龍さんがやってきたのだった。夕陽の差し込む教室に現れた光景シーンは今なお鮮明に覚えている。


 ただ、今でも不思議に思っていることがある。


「あのとき、まるで待ち構えていたように現れましたね。僕が戻ってくるのをわかっていたみたいでした」

「ええ、わかっていたわ。だって教科書を隠したの、私だから」

「……」


 何やらとんでもないことを、さらりと言われた気がする。

 衝撃の新事実だ。


「恭嗣が席を離れている間に取り出して、帰ってから戻しておいたのよ」


 なるほど。それなら仕組まれた必然だ。家に帰るまで気がつかない可能性もあるが、当時の僕の無駄に長い通学時間を知っていれば、電車の中で教科書を開くだろうことは容易に想像がつく。実際、僕は電車を待つプラットホームでそれに気がついたのだから。


 昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。

 宝龍さんが席を立つ。


「時効だと思って赦しなさい。その代わりいいことをおしえてあげるわ」


 そうして彼女は僕に顔を近づけ、囁く。


 その口が紡いだのはみっつの数字。


 ……。

 ……。

 ……。


 しばらくの硬直の後、僕は机に肘を突き、深いため息を吐いた。これほど知って困る個人情報もないな。


 そう思ったときには、宝龍さんは自分の席に戻っていた。

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