3.「ほかの誰でもなく」

「おはよう、恭嗣」


 そう声をかけられたのは、朝の昇降口でのこと。今から上靴に履き替えようというときだった。


 僕を名前で呼ぶのは、この学校ではひとりしかいない。振り返ればそこには、冷たい美貌をした宝龍美ゆきが立っていた。


「ああ、おはようございます」


 挨拶を返しながら、先日はこれとは逆で僕が後からくるパターンだったな、と思った。僕が黙っていたせいで、声を発したのは彼女のほうが先だったが。


「今きたところ?」

「ええ」

「そう。だったら私の少し先を歩いていたのね。前をよく見ておくんだったわ」


 いや、僕としてはむしろ、そうならなくてよかったと思っている。


 革靴から上靴へ履き替えた。

 下駄箱が立ち並び、すのこが敷かれた昇降口から、校舎の廊下へと踏み入る――と、そこに佐伯さんが待っていた。


 彼女は宝龍さんの姿を見て一瞬驚いたようだったが、すぐに顔から表情を消した。


「おはようございます、宝龍さん」

「ええ、おはよう」


 挑むような調子の佐伯さんと、それを受けて立つ宝龍さん。僕は未だかつてこれほど剣呑な朝の挨拶を見たことがない。


「あなたも一緒だったのね」


 そう。今日も僕は、いつものように佐伯さんと一緒だった。だから通学途中で宝龍さんに見つからなくてよかったと思っていたのだ。尤も、それも早いか遅いかの違いでしかなかったが。


「そういう環境ですから」

「やはりよく周りを見ておくんだったわ」


 僕はいやですけどね。


 道連れをひとり増やし(宝龍さんが増えたとも言えるし、佐伯さんが増えたとも言える)、三人で歩き出す。


 話を振ったのは僕だった。


「そう言えば宝龍さん、文芸部で小説を書いているそうですね。どうですか?」

「それなりに、というところかしら」


 昇降口からいちばん近い階段を上る。


「小説作法も頭に入れた。話の作り方も理解した。なのに自分で納得いくものが書けないわ。エンターテイメント性とでもいうのかしら。それが欠けているのね。その点、矢神君は上手いわ」

「彼はあれでプロですから」


 いかに宝龍さんといえども何でもできるわけではないだろうし、定期的にSF系の文芸雑誌に短編や中編を掲載している矢神先生と比べるべきではないだろう。


 中間地点の踊り場で180度向きを変え、階段を上り切る。二階。僕と宝龍さんの教室はこの階で、佐伯さんはもうひとつ上だ。


「じゃあ、佐伯さん」


 当然、ここで別れることになる。

 だが、彼女はぴたりと立ち止まっていた。


「どうしました?」


 僕も教室に向けていた足を止め、問う。そのとき僕が見た彼女は、思いつめているような、拗ねているような表情をしていた。


 そして、何をか思いついたように、


「あ、そうだ、弓月くん。今日、一緒にお弁当食べようか」

「いやですよ、そんなの」


 だいたい大きさは違えど、おそろいの弁当箱なのだ。人に見られたら突っ込まれるに決まっている。


「ちぇっ、残念。……じゃあね、弓月くん」


 しかし、たいしてそれに拘泥するわけでもなく、すんなり引き下がり、佐伯さんは階段を上がっていった。


「何ですかね、あれ」

「『さぁ』……って言ったほうがいいのかしら、私は」

「……」


 わかっているさ。

 ただ、わからない振りをしたいだけだ。





 本当に一緒に弁当を食べようと思ったわけではないだろうが、昼休み、佐伯さんはやってきた。


 そのときの僕はというと、教室のいちばん前の机に軽く尻を乗せるようにして立ち、黒板に書き並べられていく数式を見ていた。


 書いているのは宝龍さん。

 昼食を終えた後、彼女に数学のわからない箇所を尋ねたところ、今こうして解法を実践してくれているのだ。カツカツとチョークが音を鳴らすたびに、数式が書き綴られていく。その淀みのなさは、本当に計算しているのかと疑ってしまうほどだ。


 が、ふいに彼女のその手が止まった。


 何ごとかと宝龍さんを見てみれば、彼女は教室の入り口に目を向けていた。僕もそちらを見てみる。その視線の先には佐伯さんと、彼女のクラスメイトである桜井さんがいた。遊びにきたらしい。


 僕が片手を上げて応えてやると、それを合図にふたりは遠慮がちに中に入ってきた。


「残念ながら、只今取り込み中ですよ」

「あ、そうなんだ」


 そうして彼女は宝龍さんに向き直った。


「今日は教室にいるんですね」

「ええ。また何か話でも? だったら後にしてくれるかしら」


 それとなく割って入るべきかと思案していると、僕の制服を誰かが引っ張った。桜井さんだ。


「あの人、すごい美人さんですね」


 思っていた以上に近い距離で聞こえた声にぎょっとした。小声で囁くつもりもあったのだろうが、どうも彼女は話すときに必要以上に接近する癖があるようなのだ。


「キリカとはまたちょっと違った感じですけど」

「……」


 そして、のん気だった。


 チョークが再び黒板を叩きはじめる。


「いい、恭嗣。恭嗣が間違ったのはここじゃないかしら。ここで間違えても案外きれいな答えが出るから気づきにくいの」


 数式のある部分をチョークで示しながら、解説が加えられる。なるほど、そこか。


「難しいことをやってるんですね」


 空気を読めない感じに口をはさむ桜井さん。あいかわらず僕のカッターシャツをしっかりと指でつまみ、寄り添うようにして斜め後ろに立っている。


「ええ、難しいことをしているの。だから邪魔はしないでね。それと恭嗣から離れなさい」

「はぁーい」


 さすがに初対面の桜井さんには宝龍さんも遠慮があったのだろうか、もの言いが少々やわらかい。だが、中途半端な笑みが逆に怖くもある。桜井さんは首をすくめながら返事をし、そして、すっと僕から一歩離れた。


 そこですかさず腕を掴んだのが佐伯さんだ。


「行こ、お京。邪魔なんだってさ。ふん、だ」

「え、ちょっと、キリカ。……あぁーん、弓月さーん」


 ずんずん歩く佐伯さんに連行されていく桜井さん。やがて下級生ふたり組は教室の出入り口から出て行き、見えなくなってしまった。


「ほっといていいの、恭嗣」

「そう言われても、僕は彼女の保護者ではありませんから」

「あら、そうだったの?」

「……」


 少なくともそのつもりで今までやってきはずなんだがな。





 放課後。

 終礼が終わった後、僕は鞄ではなくモップを持っていた。


 掃除当番だ。

 担当は教室の前の廊下。とりあえずひと通りモップで水拭きをすればいいことになっているので、比較的楽な場所ではある。


「あ、弓月くん、今日は当番なんだ」


 そんな声に僕は振り返る。


「ああ、佐伯さん」


 彼女はそこに鞄を持って立っていた。時間的に考えて、クラスの終礼が終わって真っ直ぐここにきたのだろう。いつもなら一緒に帰るにしても、昇降口で待っているというのに。


「見てのとおりですよ」


 僕はモップの柄で肩を叩いた。


「じゃあ、待ってるね」

「悪いんですが、この後もう少し残らないといけないんですよ。授業で出された課題について話し合うことがあります」


 英語の授業での課題で、五人ひと組になって英語で会話をしてみせろというのだ。会話から創作する必要があるので、さっそくそれについて話し合うことになっている。


 僕が簡単に説明すると、佐伯さんは落胆したようだった。


「そういうわけなので先に帰っててもらえますか」

「わかった……」


 返事にも力がない。


「恭嗣、教室のほうが終わったらはじめるわ」


 と、そこに割って入ってくるガラスのように冷たく透きとおった声。背後からだったが、振り向かなくても誰かわかる。


 はっと顔を上げる佐伯さん。


 僕は思わず手で顔を覆いたくなった。なんともタイミングが悪い……。


「わかりました。こっちがすんだらすぐに行きますから」


 宝龍さんに応え、


「終わったら真っ直ぐ家に帰りますよ」


 佐伯さんの肩を軽く叩いて言い聞かせる。それに一日にそう何度もふたりに衝突されてはたまらない。幸いにして佐伯さんは素直にうなずき、帰ってくれた。僕はほっと胸を撫で下ろした。





 さて、件の課題を出された際に組んだ五人というのが、

 滝沢、矢神、宝龍さん、雀さん

 そこに僕を加えた、お馴染みのメンバーだった。


 話し合いをするために放課後の教室に残った僕たち。そこで僕が最初にやったのは、滝沢とのアームレスリングだった。これはよくやっていることで、彼とひとつの机に向かい合って座るとたいていひと勝負している。


 結果は接戦の末、僕の負けだった。


「腕が落ちたんじゃないか? 前は互角だったのに」

「高校に入ってから体を鍛えることもなくなりましたから」


 とは言え、それは滝沢も同じはずなのだが。経験に関しては滝沢が格闘技で、僕が単なるスポーツだから、その違いだろうか。


「それに腕相撲では僕が負けっぱなしですよ」

「じゃあ、何が互角なんですか?」


 問うのは隣の列の席を借りて座っている雀さんだ。彼女は敬意の表れなのか、滝沢と宝龍さんが相手になると敬語になる。


「実は去年、弓月と本気で殴り合って決着がつかなかったことがある」

「は?」


 雀さんが素っ頓狂な声を上げる。無理もない。


「俺がルールのない喧嘩で勝てなかったのはお前が初めてだよ」

「むしろルールがないからですよ。ルールがあればとっくに判定負けです」


 何せどれだけ殴られようが根性で立ってさえいれば、少なくとも負けてはいないのだから。


「……楽しげな雰囲気のわりに内容が怖いんですけど」


 せっかくなので、もうひとつ追加しておこうか。


「因みに、こんな僕と滝沢がふたりがかりでも勝てなかったのが矢神です。彼は空手の有段者ですから」


 つまり彼は文武両道の体現者なのだ。


「ええっ!?」

「……それは意外ね」


 これには宝龍さんも驚いたようだ。

 女性陣ふたりがそろって矢神を見る。が、彼は恥ずかしそうにうつむいたままだった。


「いったいあなたたち三人に何があったのか気になるわ……」

「ま、それは語る予定のないエピソードです」

「そ、それより、課題について話し合ったほうがいいんじゃないかな?」


 話を逸らす、というか、本筋に戻そうとしたのは、話題の中心人物、矢神だ。


「ああ、それなんですが、いきなり英語での会話シーンを創作するのは難度が高いので、ひとまず矢神に日本語で考えてもらうのはどうでしょう」

「ぼ、僕!?」


 再び自分の名前が挙がって驚く矢神。


「それをみんなで英語に直したほうが早いと思います」

「確かにそうね」


 賛同したのは宝龍さんだ。


「短い会話でいいんです。そういうのは得意でしょう、矢神」

「ま、まぁ……」

「決まりですね」


 僕は鞄を掴み、立ち上がった。


「なんだ、何か用があったのか?」

「ちょっと人と約束が」


 終われば真っ直ぐに帰る、と言ったのは明らかに約束だろう。僕はまだ帰る気にすらなっていない四人を残し、教室を出た。





 玄関を上がり、短い廊下を進んで、つきあたりのリビングに這入る。


「ただいま」

「おかえりー」


 即座に返ってくる元気な返事。


「じゃーん。裸エプロンー」

「ぶっ」


 思わず噴いた。


 僕の前に現れた佐伯さんは、まさに言葉通りの格好……


「って、嘘だけど」


 と思ったら、タンクトップにホットパンツといういつもの部屋着の上にエプロンをつけているだけだった。くるりと回ってみせる。わざとそう見えるようにうまく隠していたようだ。


「驚いた?」


 してやったりと笑って訊いてくる。


 僕は深いため息を吐いた


「君、冗談をやるんだったら、もう少し健全なものにしてください」

「もしかして期待した? それだったらわたしもがんばってもいいんだけどなぁ」

「勝手にしてください……なんて言ったら恐ろしいことになりそうですね。絶対にやめてください」


 強く釘を刺しておいてから、僕は自室に入った。


 鞄を置き、制服からラフな普段着に着替える。そうしてから部屋を出て、再びリビングに戻った。佐伯さんはキッチンで夕食の支度をしているようだ。


 僕は座椅子に腰を下ろし、テーブルの上にあった新聞の夕刊に目を通す。一面は凶悪事件の続報。今日の国会で生活に直結するような重要な法案が通ったらしいが、そっちは社会面に追いやられている。日本の新聞の特徴だな。


「弓月くん」

「はい?」


 佐伯さんの呼び声に、一旦新聞から目を離した。


 次の瞬間、


「えいっ」


 彼女が僕の膝の上に乗ってきた。


「何をするんですか!?」


 だが、佐伯さんは少し上になった目線で慌てる僕を見下ろして、楽しそうに笑うだけだった。


 彼女はエプロンを脱いだらしく、今は先ほどちらっと見た健康的過ぎる格好だった。薄着なので豊かな起伏をもつ体のラインがはっきりと出ている。どうやら着ているのはタンクトップだけのようだ。……夏も近づいて暑いからな。というか、僕が今まで見て見ぬ振りしていただけで、彼女は春からすでに普段着はそんな感じだった。欧米で育ったせいかもしれない。


「悪ふざけはやめて、早くどいてください」

「いいじゃない。弓月くんだって悪い気はしないでしょ?」

「それにはノーコメントです」


 決して正直には答えられない質問だ。


「最近スキンシップが足りてないと思います」

「そうですか。ていうか、それ以前に足りてる足りてないという関係じゃないでしょう」


 しかし、僕がそう言うと、佐伯さんは何やら不満げに口を尖らせた。どいてくれそうにない。こうなったら彼女の気のすむようにするか? いや、待て。悪魔の誘惑だ。


「……」

「……」


 まったく。何でこうなったのやら。


「……佐伯さん」


 顔を見て話すのも気恥ずかしいのだが、かと言って目を逸らすとあまり至近距離で見るべきでない彼女の肢体が目に入ってしまう。結局、僕は顔を見ながら語りかけた。


「学校であまり一緒にいられないのは仕方ないと思います」


 直後、彼女の顔から表情が消えた。


「それに学年も違うから、どうしても共有できない話題も多くなります」

「……」


 特に今日は運悪くそういう小さなことが重なってしまった。その反動が帰ってからの彼女のこの行動なのだろう。


 佐伯さんはうつむいてしまった。


「それでもやっぱり、僕が一日でいちばん多く一緒の時間を過ごしているのは、ほかの誰でもなく、間違いなく君ですよ」

「……ほんと?」


 顔を上げ、問い返してくる。すがるような表情だ。


「君だって僕と同じ生活をしてるんですから、聞かなくたってわかるでしょう」

「そ、そうだよねっ」


 佐伯さんはぎこちなく笑った。


 世話の焼ける人だ。


「じゃあさ、弓月くんとこういうことができるのも、わたしの特権?」

「そんな特権、認めた覚えはありませんよ。……ほら、さっさとどいてください」

「はぁーい」


 彼女はようやく僕の膝の上から腰を上げた。


「夕飯、もうすぐできるから」


 そうしてキッチンへと向かっていく。


 まったく。拗ねたりするにしても、もう少しおとなしくというか、おしとやかにというか、そうできないものだろうか――と思ったが、それはそれでこっちが調子を崩しそうなので、佐伯さんはやっぱり今のままのほうがいいのだろう。

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