――#5

1.「人聞きの悪いことを言わないでください」

 五月下旬に中間テストがあり、それが終わると同時に六月になった。


「じゃーん、夏服ー」


 朝、自室で登校の準備を終えた佐伯さんは、リビングに出てくるなり叫んだ。


 水の森高校は六月一日の今日から衣替えだ。例え週の途中であろうと暦が6月に変われば、問答無用で夏服となる。


 僕は座椅子に座ったまま佐伯さんを見上げた。彼女はブレザーなしの白いブラウス姿。濃い赤のチェック柄スカートは、見た目は同じでも夏ものになっているはずだ。僕も夏もののスラックスに半袖のカッターシャツ。ネクタイから解放されてずいぶんと楽になった。そもそも高温多湿の日本の夏にネクタイは不向きなのだ。


「ナマ足」


 どうだとばかりに半歩踏み出し、モデル立ちでポーズを決める佐伯さん。


「そのようですね」


 確かに短く詰めたスカートの下に伸びる足には、いつもの黒いストッキングはなかった。


「? もしかしてストッキングのほうがよかった?」

「僕に聞いてどうしますか」

「じゃあ、ニーソックス。それでダメならガーターのおまけつき。ミニスカニーソにガーター。弓月くんってばマニアック♪」

「いったい何の話ですかっ」

「弓月くんの好み」


 佐伯さんはきっぱりと言う。前にもそんなことを言っていたような気がするな。


「まだそんなことを言ってたんですか」

「いったい弓月くんのストライクはどこなのかと」

「そんなのどこでもいいです。だいたい制服にガーターなんて過激な格好をして行ってもいいんですか?」


 三年生でもそんな刺激的なスタイルの生徒は見たことがない。


「さぁ? 単なる靴下吊りだと思えば許されないかな?」

「知りませんよ、そんなこと」


 区分としてはそうなのかもしれないが、そうだと割り切るのは難しそうだ。


 因みに、ガーターベルトの原型は、エッフェル塔で有名な建築家ギュスターヴ・エッフェルの考案である。


「ここで残念なお知らせです。実はわたし、ガーターを持ってません」

「それは吉報ですね。莫迦なことを言ってないで、そろそろ行きましょう」


 僕は座椅子から立ち上がった。


「はぁーぃ、ふぁー……」

「何ですか、その返事からあくびへの見事なスライドは」

「ん。ちょっと寝不足」


 リビングから廊下を通り、玄関へと移動する。


「テストは終わったんですから、そんなに遅くまで起きている理由もないでしょうに」

「むしろテストが終わったから、はしゃいでお京と長電話」


 何をやっているのだか。


「まぁ、その気持ちもわからなくはないですけどね」


 僕も昨夜は滝沢と宝龍さんと電話で話をしていた。どちらも相手からかかってきたものだが。


 玄関で革靴に足を突っ込んでいると、後ろでまたもかわいらしいあくびが聞こえてきた。そうとう眠いらしい。大丈夫だろうか。





 昼休みに妙なメールが届いた。


『今日は先に帰ります』


 佐伯さんからだった。

 確かに何度か一緒に帰っているが、かと言ってそう約束しているわけでもない。なぜこのようなメールを寄越したのだろうか。


 と、首をひねっていると、


「弓月、お前にお客さんー」


 僕を呼ぶクラスメイトの声。携帯電話をたたんで顔を上げてみると、教室の入り口にちょっと癖毛のショートヘアをした女の子が立っていた。佐伯さんと同じクラスの桜井さんだ。


「弓月さーん」


 彼女は僕と目が合うと嬉しそうに手を振った。


 その声に、今まで彼女に気がついていなかったクラスメイトも何ごとかと振り返り、一度桜井さんを見た後、僕へと目をやった。


 クラス中の視線を集めながら僕は、ひとまず桜井さんの背中を押して廊下へ出た。


「今日は桜井さんひとりですか?」


 思わず佐伯さんの姿を探してしまう。特に死角。わっと驚かされてはたまったものではない。


 ところが返事は予想外のものだった。


「実はキリカ、二時間目に倒れて、今は保健室なんです」

「え?」


 寝耳に水。


「あ。と言っても、床に倒れたわけじゃなくて。机に突っ伏したまま動かなくなったんです。それで保健室に連れていったら、たぶん疲労と睡眠不足だろうって」

「……」


 朝に寝不足だとは言っていたが、試験勉強の疲労もあったのか。入試トップ合格の秀才も努力あってのものということだろうか。倒れたと聞いたときはぎょっとしたが、たいしたことはないようでほっとした。体から力が抜ける。


「それでキリカ、さっきまで寝てたんですけど、今日は大事をとって早退けです」


 ああ、なるほど。それでさっきのメールか。


「それをわざわざ言いにここへ?」

「えっと、できたら……帰ってからキリカの様子を見にいってあげてくれませんか?」


 桜井さんは心配顔で僕に頼む。


「わかりました。夜にでも行ってみます」


 宝龍さんという例外を除いて、対外的に僕と佐伯さんは近所に住んでいることになっている。彼女が僕にそれを頼むのは、当然といえば当然だろう。


「ああ、そう言えば佐伯さんは、桜井さんと遅くまで電話をしていたと言ってました。桜井さんも寝不足なんじゃないですか?」

「わたしの場合、キリカの後も他の友達と朝まで話してましたから。睡眠不足じゃなくて睡眠欠落。だから大丈夫です」


 なぜか右腕で、むん、と勇ましくガッツポーズ。


「……」


 果たしてその理屈は成り立っていいものだろうか。まぁ、きっと人より丈夫にできているのだろう。


「佐伯さんはまだ保健室ですか?」

「はい。でも、今わたしが鞄を届けましたから、そろそろ帰ると思いますよ」

「そうですか。じゃあ、ちょっと行ってみます。わざわざありがとうございました」


 僕は体を保健室のほうへ向けた。


「ああん、もう、弓月さんったら。キリカのことになると急にフットワークが軽くなるんだからっ」

「……」


 聞こえない振り聞こえない振り。


 保健室は一階の、グラウンドに近い場所に位置している。外からの怪我人を最短距離で運び入れるためで、廊下の出入り口以外にも外から直接搬入できるようになっている。


 僕は大股で歩き、保健室を目指した。……なんとなく走ったら負けのような気がする。


「失礼します」


 ノックしてドアをスライドさせる。


 中には、パンツスーツに白衣の養護教諭・藤咲先生と、佐伯さんがいた。それぞれデスクの椅子と丸椅子に、さながら診察室の医者と患者のような構図で座っていた。


「何か用、弓月君」

「あ、弓月くんだ」


 ふたりが僕を認め、同時に口を開いた。藤咲先生には去年、何度かお世話になったことがあるので、顔も名前も覚えられてしまっているようだ。


「佐伯さんが倒れたと聞いたもので。……大丈夫ですか、佐伯さん」

「あ、うん。もう大丈夫。午前中いっぱい寝てたから。でも、今日はもう帰りなさいって、先生が」

「そうですか。ひとりで帰れますか? なんなら僕も一緒に――」

「はい、ストップ。どうしてそこで弓月君が口を出してくるのかしら?」


 と、訝しむ藤咲先生。確かにそうだ。


「僕と佐伯さんは家が近いし、お互いひとり暮らしなので、送っていくべきかと……」

「そう。なるほど、そういうわけね」


 どうにか誤魔化そうと言い訳じみた言葉を口にする僕を見て、藤咲先生は納得したようにうなずいた。


「年中眠そうなあなたが珍しく目をぱっちり開いて飛んできたと思ったら、そういうことだったのね」

「……」


 なにやら誤解の上での納得だった。


「ふうん。飛んできたんだ」

「……飛びませんよ。僕はスーパーマンじゃないんですから」


 そして、佐伯さんまでもが含み笑いで顔を覗き込んでくる。完全にアウェーだ。

 僕は踵を返した。


「どうやら特に心配はないようですね。失礼します」

「ああっ、待って待って。わたしも帰るから。……それじゃ先生、失礼します」


 ちょうど僕が保健室を出るところで佐伯さんが追いついてきた。ふたりで廊下へと出る。


「とりあえず君は帰って休んでおくように」

「はぁーい」


 午前中いっぱい寝ていたらしいのでもう問題はないだろうが、藤咲先生の帰宅命令が出ている以上それに従うべきだろう。


 賑やかな昼休みの廊下を佐伯さんと歩く。

 すれ違う生徒の多くが佐伯さんを見るのは、彼女が目を惹く容姿だということもあるが、こんな時間に帰宅しようとしている生徒へのもの珍しさもあるのだろう。


 階段まできたところで僕は体の向きを変えた。


「あれ、校門まで見送ってくれないの?」

「何を甘えたことを」


 僕もそこまで暇ではない。


「じゃあ、せめて早く帰ってきてよ」

「何も予定が入らなかったらそうしますよ」

「もぅ」


 佐伯さんに背を向け、階段を上がる――が、その足がすぐに止まった。背中に視線を感じたからだ。振り返ると佐伯さんが腰に手をあて、頬を膨らませながらこちらを見上げていた。


「まぁ――」


 と、僕は頭を掻く。


「気をつけて帰ってください」


 途端、彼女はぱっと明るい笑顔を見せた。





 終礼が終わると、真っ先に声をかけてきたのは雀さんだった。


「みんなでカラオケ行こうと思うんだけど、弓月君もどう?」

「カラオケですか」


 久しぶりに雀さんのギリギリ越える感じの『天城越え』を聴きたい気もするが、残念ながら今はそれよりも優先順位の高いものがあった。


「あたしが誘ってるのに断ろうっていう気?」

「それ酔っぱらいのからみ方ですよ。雀さん、麻雀だけじゃなくお酒もやるんですか?」

「呑みませんし、麻雀もやりません。ていうか、あたしの前で麻雀の話はしないでっ」


 両手で机を叩く雀さん。いろいろと禁句の多い人だ。


「宝龍さんも誘ってあるから」


 と、こちらに顔を寄せ、なぜか小声で言う。


「それにどういう意図があるのか知りませんが、今日は用があるんですよ」

「そう……」


 本ものの酔っぱらいではない雀さんは、渋々ながら納得してくれた。


「また今度誘ってください。それじゃあ」


 僕は荷物を手早くまとめて立ち上がった。


 歩き慣れた廊下と通学路を通り、真っ直ぐ家へと帰る。何の用事があって、何をそんなに急いでいるのかと問われると答えに困るが、ひとまず僕は寄り道もせずに帰宅した。


 玄関ドアには鍵がかかっていた。佐伯さんが出かけたとは思えないので、中から施錠して休んでいるのだろう。僕は自分の鍵でドアを開けた。

 短い廊下を進み、ただいまの声もかけずにリビングへと這入る。


 と――、


 そこに自分の座椅子に座り、テーブルに突っ伏している佐伯さんがいた。


「……」


 一瞬どきっとしたが、すぐに背中が規則正しくかすかに上下しているのがわかった。単に居眠りをしているだけのようだ。


「まったく」


 そばに寄って見下ろしてみると、小さな寝息が聞こえてきた。力尽きるようにして眠ったのか、左腕を枕にして、髪が少しテーブルの上に広がっていた。


「……」


 気持ちとしては、やるなら今しかない、というところか。


 僕は息を殺しながら、彼女の横に片膝をついた。深呼吸をひとつ。それから手を伸ばし、乱れた髪をそっとすくい取った。


 前から触れてみたいと思っていた佐伯さんの不思議な色の髪。

 それはあまりにも繊細で滑らかで、手の中から逃げていくのではないかと思った。その髪を梳るようにして背のほうに流してやる。


「う、ん……」


 壊れものを扱うようにしてもう一度髪を撫でたところで、佐伯さんが小さな声をもらした。僕は立ち上がって一歩離れる。魅惑の髪の主は寝ぼけ眼で回りを見回し、ようやく僕を見つけた。


「あ、弓月くん。おかえりー」

「そんなところで寝てると風邪を引きますよ。また倒れたいんですか」


 誤魔化すように苦笑する佐伯さん。


「はっ。わたし寝てる間にイタズラされたっ!?」

「してませんよ。人聞きの悪いことを言わないでください」


 我ながらどの口でそんなことを言うのだろうと思った。内心ではバレていないか冷や冷やしているというのに。


「さ、弓月くんも帰ってきたし、晩ごはんの支度を……って、あれ? まだこんな時間?」


 佐伯さんは壁掛け時計を見て、はたと気づく。まだ終礼終了から30分とたっていないような時間だ。当然、夕食にはまだ早い。


「もしかして本当に早く帰ってきてくれた?」

「……あいにく誰もどこにも誘ってくれなかったんですよ」


 間違えてはいけません――。そう言い加えて僕は自分の部屋へと戻った。逃げるように去るのはやましいところがある証拠、と言われそうだが。


 ドアの向こうから佐伯さんの聞こえよがしな声が聞こえてきた。


「さぁて、なんだかんだ言って優しい弓月くんのために、張り切って晩ごはん作らないと」

「……」


 まぁ、佐伯さんの調子も戻ったようだし、肝心なところがバレていないようなのでよしとしておこうか。

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