2.「わかる必要はありません」
昼休みのことだった。
いつものように矢神と一緒に弁当を食べ、自分の席に戻ってその弁当箱を片付けていると、トン、と机の上にペットボトルが置かれた。ミルクティ、内容量二八〇ミリリットル。
顔を上げると滝沢の怜悧な顔があった。
「ありがとうございます」
学食で昼食を取る彼に、僕が頼んでいたものだ。お金は先に渡してある。
「なかなかどうして彼女は有名人だな」
滝沢はあいていた僕の前の席に座り、自分に買った缶コーヒーのプルタブを開けた。
僕はペットボトルのフタを回す。
「彼女?」
そして、ひと口飲んで喉を潤してから聞いた。
「佐伯貴理華」
「……」
どう対応していいかわからず、適切な応対を模索しているうちにそのタイミングを逃し――結果、
「学食で知り合いが話題にしていたよ。見ての通り美人で、成績も優秀。性格は少しひかえめながら、明るくて人当たりもよい――」
「すみません、滝沢。誰の話ですか?」
「お前は今まで何を聞いていたんだ」
滝沢は呆れたようにため息を吐いた。
いえ、僕の知る佐伯貴理華とはたいぶ異なる気がしたもので。
ひかえめな性格? どこがだ。家では賑やかだし、わがままだし。人当たりがいい? けっこう人をからかうのが好きなのだがな。
「まぁ、そういう話題に上ってもおかしくないとは思いますね」
知られざる性格は兎も角、万人が認める美少女ではある。
「ほう。認めるのか」
「認めますよ。素直にかわいいと思いますから」
「本人にも言ってやればどうだ?」
「機会があればね」
そう言って僕は、さっき閉めたばかりのペットボトルのフタを開け、再び口をつけた。
滝沢もコーヒーをひと口飲む。
そうしてから、
「その彼女がそこにいるんだが」
「……」
僕はゆっくりと教室の入り口に目をやった。
そこに佐伯さんと、そのクラスメイトである桜井さんの姿が。中に目当ての人がいるのにこっちに気づいてくれない。かと言って、大きな声で呼ぶ勇気もない――そんな感じで自信なさげに、少しそわそわした様子で中を覗き込んでいた。
そして、僕と滝沢がそろって彼女らを見ると、嬉しそうに、そして、どこかほっとしたように手を振ってきた。
僕はその新入生らしい微笑ましい光景に頬が緩みかけ、彼女が見せた無防備な笑顔に不覚にもどきっとしてしまった。……もちろん、顔には出さないが。
滝沢が軽く手を上げて応える。
言外に「入ってもいいよ」というメッセージ。それを受け取り、彼女たちは教室に入ってきた。
途端、周りが騒がしくなる。
「あ、あれ、噂の……」
「俺、実物は初めて見た」
「目当ては滝沢か?」
などなど。
間には「そう言えば弓月って去年……」というのも。
「こんにちは、滝沢さん。遊びにきちゃいました」
まずは佐伯さんが挨拶。
「おふたりで何の話ですか?」
そして、桜井さんが僕に。
「他愛もない無駄話です」
「君の友人、佐伯くんがかわいいという話だな」
僕は思わず滝沢のほうを見た。何を言い出すのか。
「なんだ? 別に隠すこともないだろう。人のことを素直に褒めるのが、お前の美点のひとつだと思っていたが」
「そんなの意識したことありませんよ」
僕はむっとして答えた。
まったく、本人の前で言うこともないだろうに。家に帰った後でやりづらくなる。
「あ、やっぱり弓月さんもキリカのことかわいいと思いますよね?」
桜井さんは弾んだ声で、誇らしげに言った。
彼女はその場に膝を曲げてしゃがみ、両手の指と顎を机の端に乗せている。ショートの茶髪はちょっと癖っ毛。僕を見上げる目は小動物系だ。
「まぁ、そうですね」
特に否定する必要性も理由もなかったので、桜井さんの問いに僕はそう返答した。
立っている佐伯さんを見上げる。
目が合った。
すると、佐伯さんは「あ、う……」と小さくうめいてから、恥ずかしそうに顔を逸らした。
正直、意外な反応だった。彼女ならこれくらいのことは言われ慣れているだろうし、微笑んで礼を言うくらいのことはしてみせると思ったのだが。調子が狂う。
「キリカって誰が見てもかわいいから」
「佐伯くんの噂はこちらまで届いているよ。しばらくは行く先々で注目されるだろうな」
桜井さんの言葉に、滝沢が嫌味のない苦笑とともに応じた。
「もう、滝沢さんまで。わたしなんか見ても面白くないですよ」
対する佐伯さんは口を尖らせ気味ながらも、けっこう楽しげだ。
そして、僕はというと。
「……」
それらの会話を、同じ輪の中にいるはずなのにまるで他人ごとのようにどこか遠くに聞いている。
僕はおもむろに立ち上がった。
「滝沢、後はお願いします」
直後、驚いた顔の佐伯さんが視界に映った。
「どこか行くのか?」
「特にあてはありませんが、テキトーにぶらついてきます」
滝沢にそう告げてから、僕は席を離れた。
「ちょっ、ちょっと弓月くんっ」
後ろから聞こえてくるのは佐伯さんの声。しかし、僕は止まらず、出口へ向かう。
「ちょっと待ってってば」
教室を出て、廊下を少し進んだところで、再度呼びかけられた。追ってきているようだ。
僕はその声も無視して歩を進め、近くの階段を上がり――そこでようやく立ち止まった。
階段の踊り場。
昼休みを楽しむ生徒たちの喧騒が、遠く小さく聞こえる。
振り返ると、ちょうど佐伯さんが階段を上ってきたところだった。待っていた僕を見て驚いている。
「何か用ですか? 手短にお願いします」
素っ気ない口調で僕は要求する。いずれここを通る生徒も現れるだろう。手短にすませたい。
「えっと、その……」
言葉を探す佐伯さん。追いかけてきたわりには言葉を用意していなかったらしい。
「もしかして迷惑だった? 教室に遊びにきたの」
「滝沢を訪ねてくる分には大歓迎ですよ。彼は好人物ですから」
もともと先生受けのいい優等生タイプだし、二年に上がってからはなかなかによい先輩ぶりを発揮している。
「弓月くんは?」
「お勧めしませんね」
「どうしてよっ」
佐伯さんの語気は荒かった。理解できない理不尽な言い分を目の当たりにしているからだろう。気持ちはわかる。僕もその自覚があるからだ。
それでも、だ。
「君のためです」
「そんなのわかんないっ」
「わかる必要はありません。そうであるとさえ知っておけば」
「……」
「……」
睨み合いのような沈黙。佐伯さんとしては一方的な僕の言い分に文句のひとつも言いたいのだろう。
「前に一度言ったはずです。外にいる僕は優しくできない人間だし、近づかないほうがいい、と」
「でも……」
佐伯さんは弱気になりながらも、反論を試みようとする。が、言葉は続かなかった。
「そろそろ行ったほうがいいです。誰かに見られないうちにね」
「……」
佐伯さんはやっぱり押し黙ったままだ。ただ怒ったような、それでいて泣き出しそうな、どっちとも見える表情で、僕をじっと見つめるだけ。
「……」
「……」
やがて踵を返し、この場を後にした。
僕は階段を見下ろし、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。
やれやれ。
そして、深いため息をひとつ吐く。
「
不意に、僕が目を向けていたのとは逆、階段の上から声がした。この学校で僕を名前で呼ぶのはひとりだけだ。見上げるとそこには佐伯さんとはまた違った、大人っぽい落ち着いた感じの美貌があった。
宝龍美ゆき。
我が水の森高校が誇るクールビューティだ。
「もしかして見てましたか?」
「ええ」
彼女は隠しもせずに正直に答えた。
僕は壁に背をつけ、もたれる。宝龍さんが階段を下りてきた。
「もうやめたほうがよくない? 彼女がかわいそうよ。……それに恭嗣も」
彼女は僕の真正面に立って言う。
「やめるも何も、僕は何もしていませんよ」
「ええ、そうね。確かに恭嗣は何もしてないわね。それできっと最後まで何もしないつもりなんだわ」
宝龍さんは嘆息した。呆れているのか、もしかしたら怒っているのかもしれない。
「人の噂も七十五日と言いますから」
誰が振った誰が振られたなんて話題、高校生ならよくある話だ。いずれ埋もれて消える。
「さて、僕は行きます。……あ、そうだ。今屋上の鍵、持ってますか?」
「持ってるわよ」
宝龍さんはそう言って、スカートのポケットから鍵を取り出した。
キィホルダも何もついていない裸の鍵。
この学校の屋上は自由に出ることはできず、その鍵は厳重に管理されている。スペアを含めて三つある鍵は、しかし、去年ひとつ紛失してしまった。とある女子生徒が借りている間に失くしてしまったらしいのだ。
「借りていいですか? 僕も久しぶりに屋上に出てきます」
「見つからないようにね」
「わかってますよ」
なにせこの鍵は紛失したことになっているのだから。
僕は宝龍さんから鍵を受け取り、五時間目の開始まで屋上で時間をつぶすことにした。
放課後は寄り道したりする気にもなれず、真っ直ぐ帰宅した。
さすがに佐伯さんはまだ帰っていない。
僕はひとまず自室で着替えをすませ、それからキッチンでコーヒーメーカーをセットした。ちょうどスイッチを入れたところで、玄関のドアが開く音。
彼女も今日は寄り道はなしらしい。
やがてリビングに姿を現した佐伯さんは少し元気がない様子だった。僕のせいだろうか。
「おかえりなさい、佐伯さん。コーヒー飲みますか?」
「ふぇ? コーヒー?」
何を言われたかわからないといった調子で聞き返してくる。
「ええ、コーヒーです。今はじめたばかりなので、後十分ほどかかるかと思いますが」
抽出がはじまったコーヒーメーカーを見ながら僕は告げる。とは言え、外からでは中の見えない魔法瓶タイプの保温ポットにコーヒーが落ちるので、見ていてもあまり面白くない。今度コーヒーサイフォンを買ってみようか。
と、そのとき、何かが床に落ちる音がした。
見ればフローリングに佐伯さんの鞄が転がっていた。そして、僕がそれを認めたのとほぼ同時、佐伯さんがこちらに飛びついてきた。
「うわっ、と……」
最初はいったい何のいたずらかと思った。
しかし、佐伯さんは両手を僕の体に回し、強く抱きしめてきた。その額を僕の胸につけて、ぽつりとつぶやく。
「よかった。いつもの弓月くんだ……」
「……」
僕は、彼女がかわいそうだと言った宝龍さんの言葉を思い出していた。僕は、僕がしていることで佐伯さんを不安にさせているのだろうか。
「すみません……」
とりあえず謝っておく。今は口だけでしかないけど。まだしばらくはこういうことが続くだろうから。
佐伯さんはうつむくようにして、僕の胸に自分の額をくっつけている。下を向けば彼女の、不思議な明暗を持つきれいなブラウンの髪があった。
一瞬、その髪に触れたい誘惑に駆られる。
が、勿論やらなかった。そんな図々しいことできるはずもない。
ないのだが、
「……撫でれ」
「はい?」
「……頭、撫でれ」
「……」
なんというか、こう、自分の中にあったちょっとした邪な思いが、一気に冷めていくのがわかった。
「……お断りします」
「ちぇっ」
舌打ちまでするか。
「ほら、そろそろ離れてください」
「その前にもうひとつ」
「はいはい、何でしょう」
やや投げやりな僕の声。
「わたしのこと、かわいいって本当?」
「……」
そう言えば昼休み、滝沢がわざわざ言わなくていいことを言っていたな。
「ねぇ」
催促するように言い、佐伯さんが顔を上げた。
下を向いていた僕の、文字通り目と鼻の先に彼女の顔が現れ、どきりとした。
「さて、どうだったでしょう……」
僕は、彼女の顔から距離を開けたかったのと彼女の視線から逃れたかったのと、二重の意図で顔を逸らせた。
「もうっ」
「そんなことよりも、いいかげん離れてください」
僕は腹を立てる佐伯さんの肩を掴んで、強引に引き剥がした。彼女に背を向けるため、意味もなくコーヒーメーカーに向き直る。
そんな僕に佐伯さんは言う。
「わたしは弓月くんってかわいいと思うなぁ」
「……」
もういい。今日の僕への罰だと思おう。
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