3.「僕はそういう人間です」

 ある日、三時間目の授業が終わったときのことだった。


「次は物理か」


 そうつぶやいてみて、その『物理』という単語に引っかかりを覚えた。何だっただろう。そして、黒板を見てようやくその正体に気がついた。


 黒板の隅には、


『4時間目 物理 視聴覚室』


 と書かれていた。やや角ばった几帳面な字はクラス委員長、雀さんのものだ。


 次は教室移動らしい。

 視聴覚室か。物理学実験のビデオでも見るのだろうか。


「行くか、弓月」


 滝沢だ。僕が巡りの悪い頭でゆっくりと次の行動を確認している間に、さっさと用意をすませたらしい。教科書にノート、筆記用具など準備一式を手に持っていた。


「ちょっと待っててください」


 僕は前の授業に使った教科書類を片づけ、次の物理の用意をして――そこで手を止めた。……気が変わった。


「すみません、滝沢。やっぱり先に行っててもらえますか」

「うん? そうか、わかった」


 僕の性質をわかっている滝沢は、ただそれだけを言って要望通り先に行ってくれた。


 僕は取り出した教科書とノートを重ねてそろえ、それから深呼吸をひとつしてから教室を出た。滝沢に一分と遅れない出発だった。


 僕は時々無性にひとりになりたくなる。


 別に誰もいない空間にひとりでいる、という状況でなくてもいい。周りに人が大勢いるのに、誰も話しかけてこない、見向きもしない――そういうのでも十分だ。むしろそっちのほうが好みかもしれない。


 今も、これから特別教室に行くのだと考えた瞬間、普段はあまり近寄ることのないその場所を独りで歩きたいという欲求に駆られたのだ。


「また孤独病?」


 廊下を歩く僕に、宝龍さんが声をかけてきた。


 前に一度、僕のこの性質を宝龍さんに話したことがある。そのとき彼女は、それを『孤独病』と名づけたのだ。


「そのようです」

「変わらないのね、恭嗣は」


 僕の横に並んだ宝龍さんは微かに笑った。


 しかし、そうは言うが実は彼女も僕と同じく孤独病の持ち主である。僕らの間にある少ない共通点のひとつだ。


 宝龍さんは僕の横を黙って歩く。

 このままずっと黙っているつもりなのだろうと思っていたら、程なく口を開いた。


「家では優しくしてあげてるの、彼女には」

「佐伯さんですか?」

「ええ」

「まぁ、僕なりには」


 しかし、僕がそう思ってやっている行動が、真に誰が見ても優しいかどうかは、また別の問題ではあるが。――『君のため』。これほどひとりよがりの台詞もないだろう。


「そう」


 対する宝龍さんの声はやや平坦。いちおうギリギリ平均値か。


「優しく抱きしめてあげたり?」

「……すると思いますか?」

「可能性はあるわ。だって、彼女は私じゃないもの」

「……」


 そりゃあ可能性ならゼロじゃない。でも、なぜそんなことをする必要があるのかという点で考えれば、限りなくゼロだ。


「そこまでしろとは言わないけど、少しは気にかけてあげなさい」

「善処はしますよ」

「じゃあ、私は先に行くわ」


 只今孤独病発症中の僕に気を遣ってくれたのだろうと思った。


「後ろで誰かさんが怖い顔してるから」

「後ろ?」


 振り返ってみて、


(うわ……)


 僕は思わず声を上げそうになった。


 そこにいたのは雀さんだった。


 僕らの少し後ろを歩き、今にも噛みつきそうな勢いでこちらを睨んでいる。正確には"僕を"だろうけど。雀さんは相変わらず僕が宝龍さんに近づくのを快く思っていないようだ。


「じゃあね、恭嗣」


 苦笑しつつそう言うと、宝龍さんは早足で先に行ってしまった。


 僕も雀さんから逃れるために、いっそ駆け出してしまいたかったが、宝龍さんに追いついてしまっては意味がない。それに僕が彼女を追いかけたりしたら、今度こそ間違いなく雀さんが噛みついてくることだろう。


 仕方ないので雀さんは放っておくことにした。


 渡り廊下を通って特別教室の集まる校舎へと移ると、途端に人気がなくなった。ここにくるのは二年に上がって初めてだ。一年のときでも数えるほどしか足を運んだことがない。


 そんな馴染みの薄い場所を、僕はかすかな寂寥感とともに歩く。


 すると、正面から四人ほどのグループがやってきた。

「……」


 どうやら最近の僕は簡単にはひとりになれないらしい。現れたのは佐伯さんを含む一年生の小集団だったのだ。


 佐伯さんは僕に気がつくと、ひとり駆け出し、嬉しそうにこちらに向かってきた。


「やほ、弓月くん、偶然っ」


 佐伯さんも懲りない性格だ。まぁ、今日は本当にたまたまなのでよしとするか。


「わたしは音楽室の帰り。弓月くんは?」

「今から視聴覚室です」


 多少なりとも穏やかに答えられたのは、これが偶然の遭遇であるのと、先ほど宝龍さんにあんなことを言われたせいだろう。換言すれば、気まぐれ。


「キリカ、先行ってるよー」


「うん。すぐに追いつくから」


 佐伯さんのいたグループがすれ違いざまに声をかけていく。ついでにちらちらと僕の顔も見ていった。


「視聴覚室か。視聴覚室って何の授業――」

「あなた、一年の佐伯さんよね?」


 突然、雀さんが佐伯さんの言葉を遮るようにして割って入ってきた。


「ええ、そうですけど……」

「悪いことは言わないから、弓月君に近づくのはやめておきなさい」


 雀さんの口調は、子どもに言い聞かせるよう落ち着いたものだった。


「あの、それはどういう……?」


 言われたことの意味を飲み込めず、きょとんとする佐伯さん。


「あのね、たぶん知らないと思うけど、弓月君は去年すっごい美人とつき合ってたの」

「え……?」

「なのに、何が気に喰わなかったのか、三ヶ月ほどで彼女を振って別れちゃったのよ」

「……」

「いい? 弓月君は軽い気持ちで女の子とつき合って、簡単に女の子を振るような冷たい人間だから、あなたも気をつけるのよ」


 雀さんはそう締めくくった。


 佐伯さんが驚いた表情で僕を見た。たぶん言い訳でも期待していたのだろう。だが、あいにくと言うべきことは何もない。雀さんの言ったことは概ね事実だ。


 それにしても、雀さんはいつまでもパワフルなことだ。世間ではだいぶ風化してきた話題だというのに。僕は思わずため息を吐いて彼女に目をやった。


「なに? 文句あるの?」


 睨む彼女に、僕は肩をすくめて応えた。


 文句などない。そして、これが彼女の親切心の現れであることも否定するつもりはなかった。


 僕は雀さんがここまで僕に噛みついてくる理由を知っている。生真面目な委員長タイプの(実際に委員長である)雀さんと、今では"元"と言われているが未だになぜ留年したかわからないくらい成績優秀な優等生、宝龍さん。雀さんにとって宝龍さんは憧れなのだ。だから、その宝龍さんを振った僕を許せないでいる。


 雀さんの名誉のために言っておくが、彼女は僕が宝龍さんとつき合いはじめたことに怒ったりはしなかった。宝龍さんを泣かせるようなことをしたら承知しない、と笑って言っていたくらいだ。許せないのは僕が宝龍さんを振ったとされている事実のほうだ。


 泣かせたら承知しない――要するにその言葉は本当だったわけだ。


「ふん」


 雀さんは鼻を鳴らして去っていった。


 後に残されたのは、僕と佐伯さん。


「あ、あの……」


 佐伯さんが戸惑いの表情を見せつつ、口を開いた。


「わ、わたしちょっとびっくりしてて……か、帰ってからね」


 早口で言い、ぱたぱたと駆けていった。


 帰ってから、か。

 特に話すことなんてないのだがな。





 その日の夕食、僕らの間に会話はないに等しかった。


 ゴールデンウィークを目の前にして、佐伯さんと一緒に暮らすようになって一ヶ月近くになるが、こういうのは初めてだった。


 性格的に僕は自分で主導権イニシアティブを握って会話をリードするといった真似は得意ではない。尤も、幸いにして静寂を好むたちなので、この沈黙は苦にならなかった。ただ、いつも賑やかな佐伯さんが黙っているのが気にならないと言えば嘘になる。


 これといった会話もなく夕食が終わった。


「ね、コーヒー入れてくれる?」


 空になった皿を前に、佐伯さんが言った。


 ちょうど僕も飲みたいと思っていたところだ。僕は食後のコーヒーの準備をすべく席を立った。彼女も立ち上がり、皿を洗いはじめる。


 僕がそれぞれのマグカップにコーヒーを用意するのと、佐伯さんが食器を洗い終えるのがほぼ同時だった。僕らはリビングではなく、もう一度ダイニングのテーブルについた。


 まずは一口飲んで喉を潤す。


 僕から見て後方、リビングではとりあえずつけておいたニュース番組が明日の天気を告げていた。テレビ欄は把握していないが、もうすぐしたらニュースも終わり、面白くもないバラエティ番組かクイズ番組でもはじまるのだろう。


「ねぇ、昼間の話って本当なの?」


 先に口を開いたのは佐伯さんだった。


 昼間の話。

 雀さんが語って聞かせた例の話だ。


「本当です」

「彼女がいたの?」

「いましたね」


 僕がそう答えると、佐伯さんは顔を伏せて黙り込んだ。視線の先には両手で包むようにして持ったマグカップ。そこに注がれたコーヒーの表面を見つめている。


「意外でしたか?」

「意外……」


 佐伯さんはその構造のままでリピートした。


「意外っていうか……そういうこと考えもしなかった。言われてみて初めて、あぁそういうこともあるだろうなって思った。……うん、弓月くんだもんね。彼女くらいいてもおかしくないよね」


 因みに僕は、僕に恋人がいるなんてちゃんちゃらおかしいと思っている人間であるが。


「美人だっていう話も本当?」


 再び顔を上げて聞いてきた。


「本当です」

「すっごい?」

「そうですね、君が学校ではっと目を見張るくらいきれいな人を見かけたら、まず間違いなくそれが彼女です」

「そうなんだ……」


 佐伯さんは何か考え込むようにして、意識とは乖離した動作でコーヒーを口に運んだ。


「弓月くんが振ったの?」

「巷間、そう言われてます」

「他人ごとみたい」

「じゃあ、はっきりと――事実です」

「……」


 再び佐伯さんは黙り込む。


「わたしね、弓月くんに彼女がいたって聞いて、ちょっと驚いたけど納得できた。わたしが知らない弓月くんって、きっといっぱいあるんだろうなって。でも、その彼女を弓月くんから振ったっていうのが、どうしても納得できない……」

「でも、事実です」


 僕はひとつ前に言ったばかりのフレーズを繰り返した。


「僕はつき合いはじめて三ヶ月と経たずに、彼女を振りました。佐伯さんが何をもって納得できないのか知りませんが、僕はそういう人間です」

「その自嘲的で自虐的な言い方っ」


 佐伯さんが語気を荒らげた。


「そういう言い方、弓月くんらしくないし、女の子を振ったっていうのも今の弓月くんから想像できない。だから納得もできない!」

「じゃあ、現二年生をつかまえて聞いてみるといいです。一時期けっこう話題になりましたからね、誰でも知ってますよ」


 今日、雀さんの口から出なくても、遅かれ早かれ佐伯さんの耳に入っていたことだろう。


「理由! 理由はっ? 別れた理由をおしえて」

「そんなこと、君には関係ありません」


 言っていて自己嫌悪に陥る。最低レベルの言い分だ。


「そんな言い方、ひどい。わたし、弓月くんがそんな軽くて冷たい人じゃないって信じたいのに。……もういいっ」


 佐伯さんは椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がった。そのまま高い位置から、怒っているような、今にも泣き出しそうな顔で、僕を睨む。


 が、しかし次の言葉はなく、僕を残してリビングのほうへ去っていった。僕はそれを目で追うこともできず、背中越しに彼女が部屋に入っていく音を聞いた。


「……」


 しばらくして僕は、まるで今まで呼吸まで硬直していたかのように、大きく息を吐いた。


 改めてコーヒーを飲む。

 苦い。

 どうやら淹れ方が悪かったらしい。

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