3.「あ……」と僕らは言った

 三月中は新しい生活を整えるのにバタバタし、すぐに暦は四月になった。


 そんなある日の朝。


「弓月くん、グッモーニンッ」


 未だベッドの中の僕を起こすのは、佐伯貴理華の元気な声。あの日以来こうして佐伯さんが僕を起こしにくるのが日課になりつつあった。


 時間をかけて瞼を開けると、彼女の顔が目の前にあった。僕の頭の左右に手を置き、覗き込むようにして見下ろしている。これもいつものこと。その顔は、笑顔のときもあれば真剣な表情をしているときもあって、日によって違う。


 そして、今日はというと、とびきりの笑顔だった。


 その笑顔のわけも気になるが、今はもっと気になることがあった。


「佐伯さん、今何時ですか?」


 僕の時間感覚が正しければ、いつも起こしにくる時間よりもかなり早いはずだ。


「八時前?」


 やっぱり。


「早いです。なんでそんなに早いんですか?」

「だって今日は入学式だもん」


 あ、そうか。そういえば今日は四月二日だったな。つまり、学園都市のほとんどの学校の、ひいては彼女の入学式の日だ。


「どうぞ気をつけて行ってきてください。僕はもう少し寝てますから」


 しかし、それは僕には関係のないこと。寝返りを打ち、彼女に背を向けることでそれを態度で示した。


「わたしの制服姿、見たくないの?」

「そんなもの学校が本格的にはじまれば、いくらでも見れますよ」


 対する朝寝は、今この休み中にしかできない。


「むー……もういい。弓月くんに最初に見せようと思ったのにっ」


 そう叩きつけるように言うと、佐伯さんはぱたぱたと部屋を出ていった。


 僕は再び閉じていた目をぱっちりと開けた。上体を起こして入り口を見る。閉じたドアは佐伯さんが去っていったことを示していた。


 見るくらい見てやればよかっただろうか……?

 遠くに玄関の閉まる音をかすかに聞きながら、僕は少し反省した。





 自責の念もあってか、二度寝することができず、僕はすぐに起床した。


 朝食は佐伯さんが準備してくれていた。後はトーストを焼いて、コーヒーを入れるだけだった。相変わらず用意のいいことだ。


 当初、佐伯さんはリビングやキッチンを共用スペースと表現した。だが、あけてみれば自分の食事は自分で作るルームシェアのスタンダードなスタイルではなく、家事の類は分担制となっていた。しかも、分担を決めるためのジャンケンで立て続けに勝った佐伯さんは、炊事に洗濯に掃除にと、次々と仕事をぶんどっていったのだった。


 僕の役割と言えば、自分の部屋の掃除と買いものの付き添いくらいのものか。


 食事は佐伯さんの仕事。


 でも、今日の昼食は僕が作って、帰りを待っていよう。

 そう思いながら淹れ立てのコーヒーを啜った。





 昼前、自室で一年生のときに使った教科書を整理していると、佐伯さんが帰ってきた。


「たっだいまー」

「ああ、おかえりなさい」


 部屋の中から声をかけてやる。


 広げていた教科書を簡単に片づけてリビングに出ると、ちょうど彼女の部屋のドアが閉まるところだった。


 結局、彼女の制服姿は見れなかった。

 僕に見せたいんじゃなかったのだろうか。それとも朝の僕の態度にまだ腹を立てているのか。


 しかし、しばらくして部屋から出てきた彼女はというと、


「あー、疲れたぁ」


 と、あっけらかんと言って、少なくとも怒っている様子は微塵もなかった。


 座椅子に腰を下ろしていた僕は佐伯さんを見上げる。

 彼女はもう私服に着替えていた。ショートパンツにフード付きのパーカーだ。こうして改めて見ると、意外にすらりと長い脚をしているのがよくわかる。高校一年生にしては恵まれたスタイルをしているようだ。


「疲れたって言っても、入学式なんてただ座って聞いていればいいだけでしょうに」

「まぁ、普通はそうなんだけどねー」


 普通は? 彼女の学校の場合は違うのだろうか。少なくとも僕の通う水の森高校では、座って聞いているだけの退屈な入学式でしかなかった。


 ふと彼女の髪に白いものが乗っているのに気がついた。


「佐伯さん、頭に何かついてますよ」

「ん? どれ?」


 佐伯さんは頭のてっぺんに掌を乗せた。


「もっと左です。そっちじゃなくて反対」


 僕が口で指示をし、それに従って彼女が髪を引っ張ったりしているのだが、なかなか上手く取れない。


「弓月くん、取って」


 結局、佐伯さんは床にぺたりと座り込み、頭を僕のほうにずいと突き出してきた。髪が揺れて、ほのかに甘い香りが漂ってきた。


 ついていた白いものを取ってやる。


「桜の花びらです」

「あ、ほんとだ。服着替えたりしたのに、それでも取れなかったんだ」

「ずいぶん好かれましたね」


 薄いピンク色の花びら。

 学園都市には桜が多い。入学式のシーズンにはいっせいに花を咲かせ、街全体が祝福ムードになる。僕も去年の今頃、満開の桜の下を通って入学式に臨んだものだ。


 取った花びらを佐伯さんの掌に乗せてやる。


「佐伯さんは髪がきれいだから」

「うん。よく言われる」


 ブリーチなのかヘアマニキュアなのかは知らないが、佐伯さんの髪はきれいなブラウン。しかも、そこには絶妙な濃淡がついていて、それが光の加減次第で見せ方を変えるものだから見ていて飽きない。


「実はこの茶っちゃい頭、天然なの」

「へぇ」


 これはまた神秘的な。


「きれい?」


 佐伯さんが聞いてくる。


「きれいです」

「そっか」


 彼女は照れたように笑った。


「よし。これは取っとこう」


 我が家にやってきた桜の花びらを握り締め、立ち上がる。


「そんなもの取っておいてどうするんです?」

「いーのっ」

「君、小さい頃、松ぼっくりとかどんぐりを集めたりしてたでしょう?」


 絶対によくわからないものを収集していたタイプだな。


「い・い・のっ」


 しかし、彼女は逆ギレ気味に言い放って、自分の部屋に消えていった。

 本当にあんなものを取っておいてどうするつもりなのだろうな……。





 さらに一週間近くが過ぎ、ついに始業式の日がやってきた。


 新年度のスタートが楽しみな気もするし、もう少し休みの中で怠惰な生活を享受していたい気もする。複雑な気持ちだ。


 何はともあれ今日から高校二年生。


 休みの間にクリーニングに出した制服に身を包み、リビングへ出る。

 やや遅れて佐伯さんも自室から姿を現し、


 そして、


「「あ……」」


 僕らはふたり同時に短い声を上げた。


 彼女はブレザーに赤いチェックのスカート。その裾から伸びる脚は黒いストッキングに包まれている。


 僕はその制服に見覚えがあった。

 毎日見てきた。

 これからも毎日見るだろう。


 それはまぎれもなく私立水の森高校の女子の制服だった。


「あ、弓月くんと同じ学校だったんだ」

「そのようですね……」


 僕の口からもれるのは苦笑い。


 残りの高校生活、絶対に大変なものになる――そんな予感があった。

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