2.「覗きませんよ」と僕は言った
共用スペースであるキッチンとリビングを整えるのに、結局、夕方までかかった。佐伯さんが「角度がダメ」とか「間隔が気に喰わない」とか、神経質なほど配置の微調整に拘ったからだ。僕ひとりならもっと早くすんだに違いない。
しかし、そのせいかとても落ち着いた雰囲気に仕上がっていた。やはり女の子だな。僕がぜんぶやっていたら、雑然とした空間になっていただろう。
その作業が終わり、僕は自室に這入る。
そして、愕然とした。
部屋にはまったく荷解きされていない段ボール箱がいくつもあったからだ。リビングのほうにかかりっきりで、私物には一切手をつけていなかったのだ。
「これから第二ラウンドか……」
ぜんぶとは言わないまでも、せめて今日中に寝られるくらいにまでにはしないと。
でも。
「一旦休憩だ」
僕は床に座り、段ボール箱にもたれた。足を伸ばし、深いため息を吐く。箱に頭を乗せるようにして天井を仰ぎ見、今日のことを振り返った。
新生活がはじまる記念すべき日。
でも、不動産屋は契約のダブルブッキング。
そこに降って湧いたルームシェアの話。
しかも、相手はとびきりの美少女ときた。
「美少女、ね……」
悪い冗談だ。もう勘弁してくれ。
僕は再び暗澹たるため息を吐く。
と、そのとき、ドアがノックされた。
「はい」
答えておいて床から腰を上げる。
僕が自分の手で開けるよりも先にドアが開けられた。そこからひょっこり姿を現したのはもちろん、佐伯貴理華だ。
「弓月くん、休憩中?」
「さすがに疲れましたよ」
「じゃあさ、休憩がてら外に出ない?」
佐伯さんは期待に目を輝かせながら提案した。
「それに何か食べないと」
「あぁ、そう言えばお昼抜きでしたね」
午前中から食事もせずに、片づけにかかりっきりだった。それを改めて認識した途端、急に腹が減ってくるのだから人体とは不思議なものだ。
「じゃあ、行きますか」
「やったぁ。案内よろしくっ」
彼女は飛び跳ねんばかりに喜んだ。
僕らは倉庫のような部屋を出て、きれいに整えられたリビングを抜けて外へ出た。ふたりでアパートの階段を下っていく。
ひとまず学園都市の駅に向かうことに決めた。佐伯さんの見たいもののほとんどが駅前のショッピングセンターにあるからだ。電気屋も見たいと言っていたが、このへんの電気屋といえば郊外型の家電量販店しかなく、そこは駅とはまったく別方向なので、また日を改めることにした。
なお、その際の会話は以下の通り。
「弓月くんスクータあるんでしょ? それでふたり乗りしていけばいいじゃない。あっちもこっちも、ぱーっと」
「スクータのふたり乗りは法律で禁止されてますよ」
アメリカに住んでいたから日本の法律を知らないってわけではないだろうに。
僕たちは、まずはレストランに入った。
午後五時。
夕食には早いけど、昼食抜きだった僕らには丁度いい。
それぞれ注文をすませ、交替でドリンクバーに飲みものを取りにいく。僕はアイスコーヒーを、佐伯さんはメロンソーダだった。
彼女がグラスを高く掲げた。
「では、今日はお疲れ様でしたー」
「お疲れ様です」
グラスを合わせて乾杯。
僕は喉を潤してから口を開いた。
「それにしてもいきなりルームシェアする羽目になるとは思いませんでしたよ」
「あ」
佐伯さんが驚いたように自分の口を掌で覆った。
「ごめん。嫌だった? そう言えばちゃんと相談しなかったかも」
「……」
何を今さら。
「ここまでやっといて白紙に戻すわけにもいかないでしょう。僕はもう諦めてますよ」
それに彼女の話だと、夏には両親が帰国するわけだから、それまでの期間限定同居になる可能性だっておおいにある。
「それよりも問題は君のほうでしょう。いいんですか、今日会ったばかりの男とルームシェアなんて」
「んー。なんとなく弓月くんなら大丈夫かなって思った」
「根拠は?」
「直感」
「信用されていると喜ぶべきか、舐められてると怒るべきか……」
苦笑いしか出てこない。
「佐伯さん、春休みの間の予定は?」
「特になし。四月二日の入学式が最初のイベントかな?」
普通にそんなところか。このへんの学校の入学式がたいてい四月二日だというのは、学園都市に関わる人間の基本的な知識だ。
ふと僕は目の前の女の子が、四月からどこの高校に通うのか知らないことに気づいた。
アパートを中心に徒歩の通学圏を想定してもいくつかの学校が候補に挙がるし、学園都市駅に出てそこからバスというアクセスまで含むと、ほぼすべての学校に可能性がある。
お嬢様学校として有名な茜台高校かもしれないし、看護の専門学校かもしれない。
「あ、そうだ」
僕の思考を遮って、佐伯さんが何かを思い出したように声を上げた。
「できたら弓月くんがこのあたりを案内してくれたら嬉しいかも」
「……」
「ダメ?」
彼女は小首を傾げながら尋ねる。かわいらしい仕草だ。
「ま、それくらいならいいでしょう」
僕とてここが地元というわけではないが、それでも昨年度一年通い続けている分、佐伯さんよりは学園都市に詳しい。案内してあげるのが務めかもしれない。それに僕だって行っていないところがある。この休み中に見て回っておくのもいいだろう。
そこで注文したものが運ばれてきて、僕らは半日ぶりにまっとうな食事を口にした。
食事を終えると、ショッピングセンターを少し見て回り、それからスーパーに寄ってから帰路に着いた。
帰宅後は第二ラウンド。手つかずのままになっている自分の部屋の片づけだ。
持ってくるものをかなり厳選したつもりだったけど、それでも荷解きにはけっこう時間がかかった。なかなか終わりが見えてこない。
夜も更けてきたころ、夕方と同じようにドアがノックされた。
「どうぞ」
手が離せない状況だったので、作業をしながら返事をした。
ドアの開く音。
「弓月くん、お風呂沸いたよ」
背中で佐伯さんの声を聞く。
「お先にどうぞ。僕はもう少し片づけておきたいので」
「じゃあ、そうする。……覗くなよぉ?」
「覗きませんよ」
「む。素っ気ない反応。面白くないの」
どうやら僕はご期待に副えなかったらしく、佐伯さんの口調には不満がにじんでいた。
「これくらいで動揺してたら、この先身が保たないでしょうからね」
特に佐伯貴理華という女の子は、どうもひと癖あるように思える。
そのまま作業を続けていたが、背後の人の気配が消えることはなかった。まだ部屋の入り口に立っているらしい佐伯さんに問いかける。
「どうかしましたか?」
「一緒に入る?」
「っ!?」
さすがにこれには平常心を保てなかった。危うくつんのめって、段ボール箱に頭から飛び込みそうになる。
「これから一緒に暮らすわけだし、親交を深めるのって大事だと思うなー」
「な、何を……」
と、振り返れば、彼女はぎょっとしてしている僕を見て、してやったりとばかりに笑っていた。また僕をからかったらしい。
僕はため息をひとつ。それからバスルーム方向を指さす。
「……莫迦なこと言ってないで、早く入ってきなさい」
「はーい」
佐伯さんは逃げるようにして出ていった。
目測を誤ったな。どうやらもう少しばかり耐性を強固にして、彼女の言動に対して心の準備が必要なようだ。……それにしても――まったく、何を考えているのやら。僕が変な気を起こすことだって十分に考えられるというのに。
今のやりとりは努めて頭から排除し、作業を続ける。
さて、かれこれ一時間ほどしたころだろうか、部屋を出てみるとリビングに佐伯さんの姿はなかった。彼女の部屋のドアに目をやる。たぶん部屋は無人。ということは、まだお風呂か。長風呂だな。女の子ならこんなものなのだろうか。
リビングにはテレビとテーブル、それに座椅子がふたつある。僕のはリクライニングがついただけの単純なもの。佐伯さんのは肘掛けや回転機能までついた立派なものだ。
僕は自分の座椅子に腰を下ろした。
足を伸ばし、手を腹の上で組む。テレビは点けない。静寂の中で大きく息を吐いた。
コーヒーが飲みたいと思った。だけど時間が中途半端だ。たぶん今日中に飲み切れない。コーヒーを美味しく淹れるにはある程度まとまった量を作らないといけないし、余って翌日まで置いたものは味が落ちる。今日のところは我慢しておこう。
程なくして背後でリビングのドアの開く音がした。
「あ、ごめん。弓月くん、もしかして待ってた?」
「いえ、そういうわけではないですよ。ついさっきまで部屋で片づけをやってましたから」
僕はそのままの姿勢で答えた。
「そう。よかった」
佐伯さんの声に軽い足音が重なる。部屋に入るようだ。その姿が僕の視界の隅に映ったとき。
「な……っ」
危うく僕は座椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。
彼女は体にバスタオルを巻いただけの姿だったのだ。
「なんて格好をしてるんですかっ」
「ご、ごめーん」
佐伯さんは自室のドアに身を隠し、顔だけを覗かせながら謝った。濡れた髪と、わずかに見える肩と鎖骨が艶めかしい。
「家族と一緒に住んでたときの癖で。明日からちゃんと着替え持ってくから」
そう言うとドアはパタンと閉まった。
「……」
僕はけっこう動じない性格なのだが、やはり彼女といる間は意識的に心の強度を上げる必要がありそうだ。僕はそれを再度認識した。
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