>>the first term
――#1
1.「僕は優しい人間ではありません」
一学期の最初、始業式の日。
僕と佐伯さんが実は同じ学校だったことが発覚し――ひとまずふたり一緒に家を出る。
玄関の鍵の施錠は僕がしたが、鍵はそれぞれひとつずつ持っている。
そうしてからアパートの階段を下りた。僕は佐伯さんの後に続き、彼女の背中を見下ろしながら歩く。アパートの階段は確かに広いとは言えないが、ふたり並べないほどではない。それでも僕が後ろを歩いているのは、単に足取りが重かっただけだろう。反対に佐伯さんは軽やかに跳ねるように下りていく。
表に出たところで、僕の足はぴたりと止まった。……やはりやめておこう。
佐伯さんが振り返る。
「弓月くん、行かないの?」
「佐伯さん、やっぱり一緒に行くつもりですか?」
僕は確認するように問う。
「うん。ていうか、行き先が一緒なんだから、わざわざ別々に行くほうがおかしくない?」
尤もだ。
でも。
「悪いのですが、ここからはひとりで行ってください。僕もひとりで行きますので」
「えー、何それー。あ、もしかして、弓月くん、女の子と一緒に登校するのが恥ずかしかったりして」
「ご想像にお任せします」
にやにやと笑う佐伯さんの横をすり抜けて、僕はひとり先を急いだ。
「え、ちょっと、それって冷たくない?」
彼女が慌てて後をついてくる。僕は追いつかれまいと早足で歩いた。
「もとより僕は優しい人間ではありません」
「そんなことない」
「……」
知ったふうなことを言ってくれる。
「僕はどういうわけか佐伯さんとは違う学校だと思い込んでいました。でも、同じ学校に通うなら話は別です。あまり一緒にいないほうがいいでしょう」
「ねぇ、理由は?」
なおも喰い下がる佐伯さん。
「そのほうがいいからです」
「意味わかんない」
不貞腐れるように言った佐伯さんの声は、最初よりも少し離れていた。
僕は足を止め、振り返った。彼女も一瞬びくっと体を振るわせるようにしてから立ち止まった。案の定、少し距離が離れかけていた。
「もう一度言います。あまり僕に近づかないようにしてください」
僕は最後通牒のようにそう告げると、佐伯さんの返事も聞かず、その反応も見ず、踵を返した。
私立水の森高校。
全国的にも有名な私立高校で、誰もが知っている国立や私立の大学にも毎年数名の生徒が合格している進学校だ。
去年、僕はここに入学した。学業に関してはきちんとついていけている。が、もっと別の方面で苦労した。主に通学と、他一点。通学に関してはこの春から解決しているが、代わりに厄介な問題を抱えたような気がしなくもない。
以上が僕と水の森の概略だ。
校門が見えてくると、中の騒がしさが僕のところまで伝わってきた。校門を入ったすぐのところでクラス分けの紙が配られていて、皆それを見て誰と一緒になった誰と別々になったと一喜一憂しているのだ。
僕もさっそくその紙を一枚貰った。
水の森では二年生で文系理系に分かれる。僕は理系を希望した。理系クラスは少なく、全八クラス中三クラスしかない。どうやら僕は二年一組らしい。
「さて、同じクラスなのは……」
「弓月君」
クラス表を眺めていると、名を呼ばれた。
顔を上げると気弱そうな眼鏡の男子生徒が立っていた。
「矢神」
去年のクラスメイトだ。
「今年も同じクラスだね」
「そのようですね」
さっき自分の名前を探したときに彼の名も並んでいるのを確認していた。
どうやら今年も変わらずクラスメイトらしい。
「俺もいるよ」
続けて寄ってきたのは滝沢だった。端整な顔に嫌味のないニヒルな笑みを浮かべている。
「前のクラスから一緒になったのは、男子では俺たちだけらしいな」
ただでさえ少ない理系クラス希望者がみっつに分かれればそんなものか。
「女子は雀さんに――」
「矢神」
言いかけた矢神の言葉を、滝沢が遮った。
「あ、ご、ごめん……」
謝る矢神は、まるで誤魔化すように眼鏡を外して拭いた。
「滝沢、気を遣わなくていいですよ。矢神も。もう終わったことですから」
矢神が言いかけ、滝沢が止めた名前。
それは宝龍美ゆき《ほうりゅう・みゆき》。
誰もが目を奪われるような美貌の女子生徒の名前であり、去年の僕にとって特別な響きを持つ名前だった。
「さて、さっさと教室に入りましょうか」
僕はふたりを促し、昇降口へと入った。
新学期の初日は、始業式とロングホームルームだけだった。
それらも特にトラブルもなく順調に消化され、僕が帰宅したのは正午前だった。佐伯さんはまだ帰ってきていない。
僕はひとまず自室で着替えをすませ、それからキッチンでコーヒーメーカーをセットした。できるまで十分弱。僕はリビングの座椅子に腰を下ろした。
と、ちょうどそこで佐伯さんが帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
彼女はリビングを横切り、自室のドアの前にきたところで、僕をじとっと睨んだ。そうしてから部屋の中へと消えた。
「……」
やれやれ、だな。
やがて再び姿を現した佐伯さんは、ミニスカートの私服に着替えていた。自分の座椅子に、ボスン、と乱暴に座った。
しばし停滞。
その顔は心なしか頬を膨らませて怒っているようにも見える。いや、明らかに怒っているのだろう。そんなにぶすっとしているとせっかくの顔が台無しだ。まぁ、見ようによっては、これもかわいらしくあるのだが。
すると今度は、両の膝を抱え、座椅子の回転機能を使ってくるくると回りはじめた。子どもが拗ねているかのようだ。
「佐伯さん」
「……」
「短いスカートでそんな座り方をすると見えますよ」
「見せてるの」
「……」
「……冗談よ」
それから再び足を下ろして僕を見据えた。
「何か学校で面白くないことでもありましたか?」
「ない。学校では。でも、学校に行く前にあった」
「……」
「ねぇ、理由……あるんでしょ?」
テーブルに身を乗り出すようにして聞いてくる。
「理由?」
「朝のこと。弓月くん、すごく冷たかった」
問われて僕は一度ため息を吐いた。
「もちろん、ありますよ」
でも、そう言っただけで、次の言葉はあえて継がなかった。
そして、再度の沈黙。
「おしえてくれないの?」
「言いたくありません、今は」
「今は?」
「今は」
僕は復唱する。
次第に空気が柔らかいものになっていくのを感じた。
「心の中で整理がついていないんですよ。つけるのを後回しにして、今は目を瞑っている状態です」
「辛かったの?」
「さあ?」
僕は苦笑とともに肩をすくめた。
「兎に角、今の僕は学校や人前で女の子に優しくすることのできない人間なんです」
「わたしにも?」
「君にも、です」
「そっか」
佐伯さんは納得したようにうなずいた。でも、実際はそうではないだろう。僕も納得させられるだけの説明ができているとは思っていない。
彼女は体を座椅子の背もたれに預けた。が、すぐにバウンドするようにして戻ってきた。
「じゃあ、今、この家の中ならいいでしょ?」
「何がですか?」
「優しくして」
「……」
いきなりそんなことを言われても、どうしていいかわからないのだがな。
そう言えば、コーヒーメーカーをセットしていたのを思い出した。
「佐伯さん、コーヒーでも飲みますか?」
そろそろできているころだ。
「苦いのは嫌」
「では、カフェオレにしましょう」
彼女の子どもっぽい注文に思わず頬が緩んでしまう。
僕はこの同居人のためにコーヒーを用意すべく立ち上がった。
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