月下秋乃の幸福 其ノ弐


 それは、父の葬儀が始まる少し前のこと。わたしは好奇心から、父の棺へと近いた。中を除き込んで父の遺体を見て真っ先に思ったのは、父がわたしの記憶よりも小さいということだ。今まであんなに荒っぽかった父が急にちっぽけに思えてきた。


 遺体の首に、刃物で斬ったかのような横に細長い傷がうっすらとあった。

 

 化粧けしょうで塗り隠されてはいるものの注意深く見れば直ぐにそれだと分かった。日嗣がこれをやったのだろうが。 傷に人差し指で恐る恐る触れる。そうすれば、その確実が得られるような気がしたからた。


 わたしはそのとき、初めて人間のら死体というものに触れた。本当の父さんが無くなったときは、母がどうしてか死体に触れさせてくれなかったのだ。


 身知らぬ人達が父さんの遺体に触れて別れの言葉をかけていく。そん中、家族でありながら唯一、触れさせてもらえなかったわたしは、はがゆい思いをしたものだ。


 だが、今なぜ母が触らせてくれなかったのか分かった気がした。これは幼い心が触れるのは危険だ。もしこの感覚を幼心で味わったならわたしは恐怖でなきじゃくったことだろう。


 父の死体はぞっとするほど冷たかった。無念の死をげた人の遺体はみんなこんな感じなのだろうか。それに、死ぬ間際に抱いた感情の全てが詰まっているようだった。


 そるは、本能に直接語りかけてくる温度だった。


 おまえのせいだ。父がそう言っている気がした。傷に触れている指が震えた。半円を描いている傷の中程でもう、指が動かなくなる。思わず視線をらす。次の瞬間、それが失敗だったことに気づいた。


 わたしは父の顔をこの状況下でまじまじと見てしまった。金縛りにあったみたいに動けなくなる。指先の血管が脈打ってるのが父の皮膚に反射して伝わってくる。直ぐにでも手をはなしたかった。感じるはずのなかった罪悪感が鎌首をもたげる。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。分かっていながら止めなくてごめんなさい。


「ごめ‥‥‥」


「何やってるの、そろそろ人が来るわよ」


 母がそう言ってわたしの肩をぽんと叩いた。そして解放された。


「早く席に座りなさい」


 母はぴしゃりと言うと席へと去っていった。後ろを向くと黒い背広を着た人達が入場し始めている。だが、あの感触はしばらく消えなかった。


 * * * * * * * *

 

 来たる日曜日、伸元のぶちかとのデートだった。昼の十一時に街の中心にある駅で待ち合わせしている。男子と二人で出かけた経験の皆無なわたしは、ひとまず自分の中のよく分からないセオリーに従って、たっぷり三十分前に待ち合わせ場所へ着いていた。


 だがやはり、セオリーに従ったからには、セオリー通りの台詞せりふをはくことになる。


「やっぱり、早く来すぎたかなあ」


 そうひとりごちる。とは言っても、これと言ってどうすることも出来ず、適当なベンチに座ったまま、ぼうっとして時間を過ごす。


 駅の不規則な雑音に身を委ねる。カツ、カツ、カツという足音に包まれていくようだった。すると、葬儀の疲れもあったのだろうか、意識が朦朧もうろうとしてくる。


 話し声、電車の甲高い通過音、幾重にも重なる足音、それらがわたしから思考力を奪っていく。そして奏でられた不協和音が眠りへと誘った。


 目を閉じるとそこには父の姿があった。そこは真っ暗な空間だった。足元も、空も、壁も全てが暗闇で構成されている。わたしはその中で身体も持たず、ただの思念体になったようだった。


 立っているのか、座っているのか、ましてや浮いているのかも分からない。その中でただ、父の姿だけははっきりと認識出来た。その空間で父はわたしと違って肉体を持っていたのだ。


 それは見えたというより、認識したと言うほうが近いのかもしれない。父は何か言葉を話そうとしていた。ひょっとすると、またわたしを怒鳴ろうとしているのかもしれない。身構えるもひゅうひゅう風音がうるさくていっこうに怒鳴は聞こえてこない。


 そこでわたしが一歩かどうかは分からないが、それくらいの距離を父に向かって進むとその風音の正体が分かった。その風音は父の喉元から発せられていた。

 

 父の喉元には約四センチほどの刃物で切ったような孔がぱっくりと開いていた。声を発っそうとしても肺から出た空気はその孔から外へ漏れ出してしまう。


 父がどれだけ必死に声を出そうと前のめりになっても、ひゅうひゅうと滑稽こっけいな風音しかしか発せられない。


 それが面白くて、わたしは父を意識だけであざ笑った。

 

 すると父はいくら努力しても声が出せないことにれたのか鬼の形相でわたしに近づいてくる。


 わたしはついいつもの反射で、死人相手に有るのか無いのか分からない身体を強張らせた。だが、大股で寄ってきた父は頬を叩くのではなく、首を両手で絞め始めた。


 そのまま体重をかけてわたしを押し倒す。なぜかさっきまで思念体だった身体は、現実と同じ五体満足のものへと戻っていた。


 荒い呼吸の父が息をする。ひゅうひゅうと風が漏れると喉元の孔から、わたしの胸元へ父の酸化してどす黒くなった血液が滴り落ちてくる。うわぁと夢の中で思わず悲鳴をあげてしまう。


 だが父はやめない。生前もそうであったように、暴力で不満を訴える。血液はわたしを、赤黒く染めていく。まるで魂まで染み通っていくようだ。冷たくてドロッとした血液のおぞましい感触に身をよじる。


 助けて、助けてと力いっぱいに叫ぶ。


 すると、真っ暗な世界にいきなり光が飛び込んで来た。


「秋乃、寝ているところ悪いけどそろそろ時間だよ。起きて」


 しつこく肩を揺さぶられて目を開けると、伸元がいた。はっとして腕時計を確認すると待ち合わせの時間を少し過ぎていた。


「もう少し寝顔、見ていたかったんだけど時間だからね」


 猫目を細めて悪戯いたずらっぽく笑う。


「全く、何言ってるんだか」


「それはそうと、そんなに疲れてるんならやっぱり今日はやめといた方が‥‥‥」


「いやよ。せっかくなんだし。それに、ちゃんとエスコートしてくれるんでしょ」


「もちろんだよ」


 そんな風に言いあって二人で笑った。


「あと、言いにくいんだけどさ、秋乃。その髪どうしたの。最初見たとき誰だかさっぱり分からなかったよ」

 

 目を丸くして肩まであるわたしの長い髪を見つめる。


「まさか、一日でそんなに伸びるわけないよね」


「当たり前じゃない。ウィックよ。それで‥‥‥その何か言ってよ」


「よく似合ってるよ。秋乃」


 恥ずかしがりもせずに笑顔でそう言ってくる。あれ、伸元ってこんなこと笑顔で言う人だったかな。反対にわたしの方が恥ずかしくなる。


「でも、いきなりどうしたの」


「言われたんだ、友達に。長いほうがきっと似合うって」


「へえ。まあ俺もそう思うよ」

 思わず照れてしまう。わたしは下を向いたままそっと礼を言った。


「あ、ありがとう」


 何だか青春っぽい恥ずかしさに包まれながら初デートは始まった。


 その後、電車とバスを乗り継いで隣の県の遊園地に辿り着いた頃にはお昼を少し過ぎていた。伸元が二人分のチケットを係員に見せ、二人で中に入ると、ひとまず食べ物という話になった。

 

 入って直ぐのところにあった喫茶店に特にこだわりも無く入る。


 休日で、しかもお昼時ということもあってか店内は人で溢れていた。


 運良く、開いていた最後の席に座ることが出来た。メニューを見るとパスタが人気なようだった。わたしかミートソーススパゲッティを、伸元がキノコパスタを注文したのだが、客の人数からして料理がいつ頃届くのかは分からなかった。


 すると、店の中の喧騒けんそうを割いてどこからともなく絶叫が聞こえてくる。テーブル一つ開けた先の窓をみやると、白塗りの大きなジェットコースターが見えた。確かこの遊園地の名物でもある、走路の全長が日本で一番目だか二番目だかのジェットコースターだ。


「伸元みてよ、あれ」


 ちょうどそういったとき、一番高い山からコースターが滑り落ちる。


「うわぁ、すごい。怖そ」


「え、乗らないの。行こうよ、行こうよ」


「いや、あれはちょっと」


「なに、男でしょ。乗ろうよ。あと、わたしをエスコートするんでしょ」


「ああもう、分かったよ。食べたら直ぐに行ってやるよ」

 諦めた様子で空を仰いだ。


「やった」


 始めて人とこういうところに来てテンションが上がっていた。わたしはその後も、窓を見てアトラクションを見つけるたびにあれ行こう、これ行こうと言って伸元を困らせて楽しんだ。


 結局、料理が運ばれて来たのは悲鳴に耳が慣れ始めたころだった。


「そいえば、秋乃駅でうなされてたよ。何か悪い夢でも見たの。やっぱりお父さんのことか」


 パスタをフォークでほぐしながら言う。


「そんなところ。でも大丈夫だよ」


 わたしがそう言うと伸元は頷いてパスタにかぶりついた。

 

 だが、わたしが言ったことは嘘だった。本当は全然大丈夫じゃない。罪がわたしの心をゆっくりと、だが確実にむしばんでいた。

 

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さらば忌まわしき青春よ 三月葵 @ao-ringo

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