第3話 月下秋乃の幸福

 家に戻ると母はお昼ご飯を作っていた。どうやらパスタらしく、湯を沸かした鍋に麺が入っていた。菜箸さいばしで麺をほぐすことに集中している。


 やたしが開けた扉が勝手に閉じたがしゃんという音に驚いたのか、思わず悲鳴をあげる。続いて菜箸さいばしが鍋から落ちる音が鳴った。


「ちょっと、帰ったならただいまの一言くらい言ったらどうなの」


 菜箸を拾い上げながら母が非難がましい目でヒステリックに怒鳴った。


「あ、ごめん」


 そうか、もう父はここに居ないんだ。もうこの家を恐れる理由も、自分の家に帰るときにいちいち起こしてしまわないように気を配る必要も無いんだ。


「ただいま」


 そう小さな声で子供っぽく少し照れながら言ってみる。この言葉を発音するのはずいぶんと久しぶりだ。口の中だけで、音の響きを確認するように何度も何度も言ってみる。


 ただいま、ただいま、と発音するたびにこれまでの苦難が一つ、また一つと薄らいでいく気がした。


「どうしたの、そんな所につっ立って」


 いぶかしげに母が言う。


「いや、何でもないよ」


 わたしが咄嗟とっさに否定する。


「ならいいけど、直ぐにお昼ご飯作るからら、それを食べ終わったら一緒にこれからのこと話しましょうね」


 そう言うと、母は寂しそうな様子で麺をかき回す。


「うん‥‥‥わかった」


 心の中でごめんなさいと呟く。


「ねえ、秋乃」


「‥‥‥なに」


「これから、色々大変になるだろうけど、一緒に頑張っていこうね」


 それはまるで、自分にもそう言い聞かせているようだった。


「うん、わかった」


 従順に返事する。


「あと、さっきはごめんね。秋乃も辛いのに一人にしてなんて自分勝手なこと言って」


「いいよ、気にしてないし。それにわたしも独りになりたかったから」


「そう‥‥‥ありがとうね」


 そして、わたしも母も口をつぐんだ。鍋の中で水が沸騰している音が妙に大きく感じられた。


 * * * * * * * *


 土曜日、父の葬儀はり行われた。ガソリンスタンドの隣にある小さな葬儀場は寂しく、こんな所で葬式を開かれる死者達は可哀想だと思った。だが父にはここがお似合いだろう。

 

 誰かが気を配ってくれたのか、何人かわたしの知り合いも足を運んでくれていた。その中には伸元や部長の姿もあって少し安心した。だがその中に日嗣はいなかった。


 もっとも、よく考えてみれば自分が殺した人の葬儀に参加するような殺人犯もいないだろう。狭い会場は黒色の背広で真っ黒だった。父にもこれだけの友人がいたんだと驚く。遺体に触れた指先が少しむずむずした。


 父は酒に溺れるようになってからは当然のように人付き合いをしなくなっていた。だからわたしは父はの友人関係というものを全く知らなかった。あんな父にも死を悲しんでくれる人がいるのだ。それはわたしに日嗣ひつぎと犯した罪を再確認させた。


 心がゆっくりと罪の沼に沈んでいく。だがわたしの心は空洞で、完全には沈まない。


 中学校の同級生たちに慰められ、はげまされるも、その言葉の全てをぼうっと聞き流していく。


「辛かったね」「辛いだろうな」「お悔やみを」そんなお決まりな文句を並べて、伏し目がちに距離を探りながら話しかけてくるかつての友人達。


 違うんだ。わたしはちっとも悲しんでなんかいない。それどころかわたしは、父が死んで、ただいまを言えるように、なったことを喜ぶような人間なんだ。あなた達にそんな言葉をかけられる資格は無いんだ。かけられちゃいけないんだ。


 中学校のころよく話していた女子がありきたりな慰めの言葉を言い終わると、その次は伸元の番だった。宙に浮いていたわたしの意識が再び肉体に戻ってくる。


「秋乃、その‥‥‥お父さん残念だったな。辛いだろうけど俺も部長もついてるから頑張れよ。何かあったら頼ってよ。いつでも助けるからさ。」


「うん‥‥‥ありがとう」


 やめてくれ。あなたまでそんなこと口にしないでくれ。わたしはあなたの思ってるような人間じゃないんだ。


「それで‥‥‥大変そうなら明日は無理に付き合わなくていいからな」


「いや‥‥‥大丈夫だよ。明日は大丈夫。行くよ」


 わたしがそう言うと伸元は少し安心したような顔になった。


「なら良かったよ。じゃあ明日な」


 言い終わると部長へと入れ替わる。


「秋乃、すまない」


 顔をあわせるやいなや部長は唐突に

謝ってきた。わけがわからない。


「え、何のこと」


 咄嗟とっさとに尋ねると、少し困った顔をしてから首を横に振る。


「いや、いいんだ。今のは忘れてくれ。ええと、大体僕が言いたかったことは今伸元が言ってしまったんだ。だからありきたりで悪いけれど、家族が亡くなってさぞ辛いだろう。けれど僕たちがいるから。何かあったら直ぐに相談してくれ」


 そう言って部長はそそくさと去っていった。彼らしからぬ歯切れの悪い物言いだった。


 その後はまた名前も曖昧な知人から、表現は違えど同じ意味の言葉を繰り返し聞かされ続けた。わたしはそれを何百回と聴いてすっかり飽きてしまった歌を聴くときのように、右から左へ聞き流した。


 そんな中でうつらうつらと自分が自由になったということを噛み締めていった。だが意味の一つも理解出来ないお経が始まると、そんな意識も停滞し始めた。お経が終わりお坊さんの説教が始まるころには気絶してしまいそう

だった。


 葬儀が終わり、残念してくれた人達全員を見送った後母はわたしに向き直った。


「あの人に何か言えた」


 母が母らしく尋ねてきた。


「うん‥‥‥言えたよ」


 わたしは父の棺の方を見もせずにそう言った。

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