Ⅷ
疲労が全身の力を奪い去る。膝を折らせて、地面へと尻をぺたりとつけさせる。砂埃がズボンを汚すのも気にならないといった風に、由紀は荒い呼吸を落ち着かせようと深呼吸を繰り返していた。『フェンリルハート』の状態を解いたシロが側にしゃがみ込む。
「やってのけたな、我が友よ。……手を見せろ、今の我でもその傷ぐらいは治せる」
傷と言われて、何のことかと首を捻ってから痛みを思い出す。見てみると、左手の甲の指が中々に酷い状況である。皮膚が裂け、肉がぐちゃりと歪んでいた。
「まったく、ド素人が顔面を殴りよって。相手の歯で拳がこうなるから、普通は裏拳で叩くのだぞ? 殴るのではない、叩くのだ」
そんな普通は知らないと、疲労で声に出すのも億劫だと由紀は黙る。シロは傷ついた拳を手のひらで包み、光を灯しながら揉み解す様にして傷を治してくれた。
幸助を殴った痛みが消えていくも、罪悪感まではなくならない。必要なことだったとは言えど、友人を傷つけてしまったことの後味の悪さに視線が下がる。
ちらりと地面に倒れ込んで動かない幸助を見やる。『書』の寄生から抜け出た反動か、ぴくりとも動かないが、果たして大丈夫なのだろうか。後遺症、とかは残らないだろうか。
「安心するがよい」
由紀の内心を察したシロが声をかける。
「『書』に取り憑かれて受けた精神的な疲労と、魔力切れでノビているだけだ。一日もすれば全快するだろう。……最も、やはり記憶は残ってしまうがな」
残された爪痕は深く大きい。一度由紀を殺した罪は幸助を強く苦しめるだろう。
息を整える。疲れていても、ここだけは言い返さねばと口を開く。
「アイツは強い男だ。布石も打てた。またバカな話もできるようになる」
この自分と付き合えるくらいなのだ、乗り切れるだけの心の強さはあるだろう。自虐と冗談を混ぜた己のセリフに、思わず口角が上がりそうになった。
「万が一、負けたとしたら?」
「そしたらもう一回殴るだけだ。アドバイス通り、こっちで」
問いかけにそう返すと、シロが小さく肩を揺らす。その姿に釣られてしまい、由紀も可笑しさを堪えきれず声を漏らしてしまった。まだ最後の問題が残っているとは言えど、やり遂げきった解放感が、ようやく緊張で硬くなっていた気持ちをほぐし始める。
和やかな空気が漂い始める中で、シロは尻尾を握りしめて数秒溜める。
「あー……しかし、だ。本当にその、斬り捨ててよかったものなのか?」
ずっとタイミングを窺っていたのだろう。シロが視線を泳がせながら、気まずそうに切り出す。主語こそぼやかされているものの、斬り捨てたものは二つしかない。
『書』と心臓。
この二つならば、文脈からして後者であろう。
「いいんだよ。どの道、取り戻しても使い道がない。オレを魔狼の心臓で捕まえてないと、水無月を抑える大義名分がなくなるだろ」
シロ、水無月間で争いが起きていないのは由紀が人質になっているからだ。礼儀正しくこちらを立ててくれる後輩でも、枷がなくなれば黎明機関の事情を優先するだろう。
「だとしても、いつか元に戻るときのために、取っておくということも……」
「このままでいい」
断言で答える。
「このままなら、シロはずっとオレの側に居続けなきゃいけないんだろ?」
心臓がなければ生きられないのは由紀だけではなく、シロもだ。
シロが由紀を捕まえるように、由紀もシロを捕まえる。そういった強制力が多分、この寂しがり屋の狼にとっては絆になるはずだ。
「~~~~っ」
事実、握りしめられた尻尾が手の中から抜け出し、ぶんぶんと勢いよく揺れていた。力が張ったように耳もぴんと立っている。それでなくとも、かあっと一瞬で頬が朱に染まるのだ。本人がどういう心境なのか、手に取るようにわかってしまう。
「これからもよろしくな、シロ」
立ち上がり、相手の目を見ながら改めて由紀は手を差し出す。その手に恐る恐るシロは手を伸ばし、一度微かに触れたと思えば引っ込めるものの、再び伸ばしてやんわりと握る。何度も手をにぎにぎと動かし、掴んだその手がここに在ることを確かめる。
そうして嬉しそうに笑うのだ。
「こちらこそ、よろしく頼む。ヨシノリ」
思わず由紀の顔から表情が消えた。
「ふ、ふんっ。日本語は会得したと言ったであろう。表札を読めば、貴様の名前くらいわかるというものだ」
確かにその通りだ。宗方家の玄関には今は亡き両親の名前と、由紀の名前が掲げられている。名乗らずとも、見れば知ることはできるだろう。だが、一つ大きな問題があった。
「シロ、一つ訂正がある。オレの名前の読みはヨシノリじゃない。ユキだ」
「……………………紛らわしい名前であるほうが、悪い!!」
決めるつもりの口上が失敗し、素直に謝ることができないシロが逆切れした。
「大体なんだ、ユキとは随分と女らしい名前ではないか! 男の貴様には似合わないほど綺麗な響きで、逆に覚えやすくていい名前ではないか!? きしゃー!!」
貶しているのか褒めているのか、よくわからなかった。当の本人も冷静さを欠いていて、何を喋っているのか、理解していない節もある。愉快な感じで壊れているシロを見つめながら、由紀が考える。
誤解を解くならいましかない。このタイミングしかない。
「女らしい名前でいいんだよ」
薄々感じていたが放置していた。自分で気づくだろうと思い込んでいた。
「オレ、女なんだから」
熱暴走気味だったシロが一瞬で凍った。理解不能と油性マジックで書き殴られたような顔を由紀に向けて、瞳にクエスチョンマークを浮かべる。
「おもしろい、冗談だな?」
ギャグであってほしいという意味の疑問形。由紀はシロの手を取り、己の胸に押し付ける。ベストとシャツの向こうにあっても、これなら男性にはない女性の柔らかな弾力を感じることができただろう。
「……」
無言は、嵐の前の静けさ。
「ほら、あるだろ?」
「うそだああああああああああああああああああああああああああ!!!?!!?」
世界を揺らさんとする狼の咆哮が、校庭に響き渡った。
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