世界が歪む。自然の摂理から外れた存在を修正しようとする力を誤魔化し、由紀の手の中で淡く輝き続ける。渦巻く風の音は誕生を謳っているのか、それとも未だ収まり切らない魔力の余波に悲鳴を上げているのか。


 二度、三度、由紀は異物で空を斬る。重量を表現する言葉として、羽のように軽いというものがあるが、それでも足りない。まるで重さというものが存在していない。


 鋭さだけではなく、重みを持ってして敵を裂く武器である以上、極端な軽さは欠点にしかならない。ならないはずなのだが、感覚的に問題ないと思える自分がいる。握り締めるこの手からは、溢れんばかりの全能感が光として迸っていた。


『これが、描いた形か。貴様らしい真っ直ぐさだ』


 頭の中に聞きなれた声が響く。由紀の体の中に宿り、魔力を制御するシロの魂が囁く。


 宗方由紀が魔狼フェンリルの力の器として選んだのは、一振りの剣だった。


 彼女の髪の色と同じ青白い光に包まれた神秘的な半透明の刃。Dの形をしたハンドカバー付の柄。全体的なフォルムとしてみれば、レイピアが一番近いであろう。だが、刺突を目的とした針のような本来の刀身とは正反対に、だんびらの様に太く大きい。


「力のイメージとかっていったら、やっぱり拳銃か、剣だろ」


 漫画もゲームも積極的に触れていない身としては、思いつく範囲は非常に狭い。ナイフや槍、斧なども知識の中にはあるが、ぱっと出てはこないものばかりだ。


「そしてシロのとなれば、剣しかない。これは狼の牙であり、爪だ」


 微かにシロが喉を鳴らす。形は違えど己の武器を持ち出されることを、喜んでい

るのが魂の波長でわかる。自身の中に別の心があるというのは、中々に悪くない気分だ。


 誰かと背中合わせでいる安心感というのは、きっとこういうことなのだろう。


『持ち上げるのが随分と上手だな、思わず尻尾が揺れてしまいそうになったぞ?』

「オレが上手いんじゃなくて、お前が分かりやすいだけだよ」

『減らず口も達者なことだ』


 片手で握っていた剣を、両手に握り直して、切っ先を友へと向ける。


 幸助はというと動かない。呆然と立ちすくみ、繰り返し同じ単語を小声で何か呟いている。それが『ウソだ』という内容であると気づいたのは、彼が叫び出す直前だった。


「ああああああああああああああああああああああああああああああ~~~!!!!」


 突如震えだす幸助の体。爪を立てて髪を掻き毟り、地団太を踏む姿は狂人のソレだ。身の毛もよだつ血塗られた咆哮に、思わず由紀が一歩後ろに下がる。


「俺のなのにいいいいいい!! 俺のむなっちゃんなのにぃぃぃいい!! てめえ、クソ犬がああああああ!!! よくも、よくもむなっちゃんの心の中にぃぃぃ!!!」


 殺意が、憎悪が、絶対に許すわけにはいかないという漆黒が、幸助の背から立ち上る。幻覚ではない。本来魔力の制御を司る感情が極限まで昂ぶり、軽く暴走しているのだ。


『相性が良すぎるのも考えものだな。ここまで堕ちた所有者を見るのは初めてだ』

「……そうだな」


 理性を失い喚き散らす友人と、それを止める為に力を得た自分。この上なくシリアスで、緊張感があって然るべき状況だというのに、くすりと、思わず笑みがこぼれてしまった。


『何故、笑う?』


 疑問を持つのも当然だ。ここは変わり果てた友人の姿に哀しみ、元凶である『書』に怒りを露わにする場面であろう。だというのに、口元が緩んでしまうのだ。


 それは、きっと、恐らく。


「幸助ってさ、軽く見えて結構一途なんだなって。オレは好きだから殺されたわけで、他は殺してない。巻き込んではいるけど、取り返しのつかない決定打までは放ってない。我が儘になったこの状況で、オレだけを真っ直ぐ見てくれてる」


 純粋だと思った。友人の知らない面をまた一つ知れた。


「こんな良いヤツ、紙束なんかにくれてやるにわけにはいかないよな」


 抱えていた想いに気づけなかったことを、まず謝ろう。そしたら次に自分を殺したことを謝らせて終わりにするのだ。わだかまりは残るだろうが、それでもなんとかしてみせる。


『フェンリルハート』を握りしめ、正眼に構える。学校の授業で触れる機会はあったものの、別の方を選んでしまったせいで、剣道なんてやったことはない。見よう見まねの剣士のポーズで幸助を正面で捉える。


 狙いは『囁き語り掛けるモノ』の排除、もしくは破壊。


「始めよう、幸助」


 全て受け止めてやる。存分に吐き出すといい。


 言葉の裏に忍ばせた感情に、反応したのか。幸助は鬼気迫る表情で『書』のページをめくりはじめる。互いの武器が放つ魔力が空間を、世界の作った完璧なプログラムに不正を通すべく唸りを上げる。


「……殺してやる。その薄汚い駄犬から、むなっちゃんを取り返す」


 戦いに不要な熱を吐き出すかのように、一言一句を区切りる。


 幸助が腕を振るう。前方に魔法陣が二つ浮かび上がる。中央から現世へと生れ出るのは、シロとの戦いで見た黒い拳だが、サイズが二回りほど大きい。一メートル半、いや、二メートルに届くだろうか。少なくとも、由紀の体をぺしゃりと潰すには十分な質量だ。


『我が友よ。わかっていると思うが、剣と同時並行して、心臓にかけてある魔法も継続して行使している。障壁を張るほうまで手が回らないことを忘れるな』


 魔狼の心臓の誇る魔力量を使っての矛は作れても、盾は出来ないということだ。加えて、身体能力等の強化もない。回避も、防御も人の領域だ。


「問題ない。攻撃力はこちらに分があるし、それにこっちは二人だ」


 勝敗を決める要因は大きく分けて三つ。力と、知能と、頭数だ。


「二対一で負けるわけがないだろう?」

『――ああ、そうだ。二人になった我らが、負けるはずなどない!!』


 願いのままに振るえと魔狼の声に従い、由紀は走り出した。


 拳が動き出す。左右からの攻撃。宣言通り、ぺしゃりと潰すつもりなのだろうが、こちらには輝く剣がある。フェンリルの魂が宿る力がある。


 圧倒的な威圧感。視覚化された死の脅威。震えそうになる心に、握る剣の感触を伝えて、由紀は腕を後ろに引く。狙うは右の拳。自ら近づくことにより、間合いを調整。左拳を右拳の陰に隠すことで、同時攻撃を阻止させる。


 刃を水平に定め、利き足で踏み込み、左から右へと一気に振り抜いた。


 競り合いは、一瞬。


 黒を青白い光が食い散らかす。振るわれた剣が一つ目の拳を真一文字に裂くも、止まらず右へと体を回転。繰り出した斬撃の流れをそのままに乗せ、二つ目に刃を通す。


 上下に二分割された二つの拳の断面図が、横にスライドしていく。形を崩されたことにより存在を保てなくなったか、空に溶けるように霧散していく。


 手ごたえがまるでなかった。斬ったという感触すらなかった。抵抗なく、反動なく、両断できたことに驚きながら剣へと視線を向けた。


 これが『フェンリルハート』の持つ力。


『凄いであろう? 褒めてもいいのだぞ?』


 向けられた瞳に何が込められているのか、シロが察し、由紀が苦笑する。彼女の実体がここにあったら、さぞかし満面の笑みを浮かべながら、ふんぞり返っているだろう。


「さすがに正面切っては勝てねえだろうけどよォ!!」


 拳の次は、委員長を貫いたあの矢じり。数は八。本から撃ちだされた黒い線は湾曲的な軌道を描き、由紀を貫くべく飛翔する。


 迎え撃つのは難しい。標的が速く、小さすぎる。

 回避するしかない。本能的が打ち出した行動方針を、由紀は却下した。

 襲いくる八つの殺意に対して、剣を肩に担ぐようにして持ち上げ、正面から突き進む。


『なぁ!?』

「はぁ!?」

 

 目に焼きつかせるのは、この攻撃を防いだシロの姿。

 敵と味方から聞こえる驚愕を聞き流しながら、脳内でタイミングを計る。


 まだ早い、まだ早い、そろそろ来る――今だ。


 着弾するといったギリギリのところで、前へと傾いていた勢いを強引なサイドステップで変える。同時に剣を下ろし、横跳びで躱しきれなかったモノを斬り落とす。やはり空を斬ったかのような手応えだが、しっかりと数本の矢じりが二つに割れて霧散していく。


 やり過ごして生きている何本かの矢じりが由紀を通り過ぎるが、途端に方向を反転。今までの軌道を無視した直角ターンで、再度攻勢をかけるも既に脅威ではない。数が減ったのならば全て迎撃できると構えを直して、ふと思考がその『可能性』に辿り着く。


 まず一振り。先行して飛び出してくる数本を払うように落として、後続も同じように斬ろうとして――バックステップを挟む。


 直後、走る剣線を予想していたのだろう。矢じりの軌道が再び折れて、由紀の脇を掠めるように通り過ぎて、地面を抉り砂埃を巻き上げる。


「……どうやら二回が限度みたいだな」


 三度目の軌道変更がないことを指摘すると、幸助の顔がぐにゃりと歪んだ。


『き、き、貴様なんて無謀な!』

「これぐらいやってのけなければ勝てない」


 そして無茶を通したおかげで、幸助に大分近づくことができた。あと八歩。足を左右に動かせば『フェンリルハート』が届く位置へと入れられる。


「チクショウが! 聞いてないぞ、そこまでできるなんて!」


 しゃがみ込み、幸助が地面に手のひらを叩きつける。地肌を伝って土へと流れる紫紺の魔力。独りでに捲り上がる『書』のページ。


 初めて見る行動に前進を停止。横周りに距離を詰めるべく動き出すのと、幸助と由紀の間に土の壁が大地から生えたのは同時だった。これも魔法によるものだろう。縦も高ければ横も幅がある。接近戦を拒絶するための障害物かと考え、即座に違うと否定した。


 これは目隠しだ。


『下がれ、攻撃が来るぞ!』


 シロが叫ぶ。壁が砕ける。土煙と破片をまき散らしながら出てきたのは、握り潰さんと手を広げた黒い拳だった。野太い指が由紀の肌に触れる前に、剣で両断して霧散させる。


「知ってるよ、そうやってまた防がれるくらいなァ!?」


 声は視界の外から聞こえてきた。


 正面のことに対応している間に回り込んだのだろう。咄嗟に音源の方へと振り返ると、幸助が笑いながら本を構えている。射撃に適した中距離。浮かび上がる六芒星。中央に集う魔力の光が、既に準備はできているぞと唸りを上げている。


 視界を奪っての奇襲に意識を傾けさせての本命。

 魔法が放たれようとする刹那の中で、由紀は呟く。


「オレも知ってるよ、三段構えになってることくらい」


 拳を切り裂いた直後にポケットから抜き取っていた携帯を、幸助の顔面へと投げつける。予想していなかった反撃に幸助が仰け反り、『書』による攻撃が一拍遅れたその隙に。


 背後で鋭い棘で刺突を繰り出すべく腕を溜めていた漆黒の化け物へと、振り向き様に『フェンリルハート』を叩き込んで両断する。


「クッ、ソッ、があああああああああっ!!」


 喉をずたずたに傷つけながら上げるヒステリックな叫び。幸助が放つ三段構えの中の二段目を、思い切ってしゃがみ込んで回避する。頭上を通過していく魔力弾。数メートル後ろに置かれたゴールポストが粉々に砕け散り、破片がばらばらと地面へ落ちる。


 由紀はすぐさま体重を前進に傾け、クラウチングスタートの要領で飛び出した。


 命中させることを意識したことで、幸助は中距離を選んだ。

 おかげで距離が縮んでいる。少し走るだけで捕まえられると、由紀は鋭く踏み込む。狙うは幸助の手の中にある『書』の破壊。逆袈裟の斬撃を繰り出すべく、身を捻る溜めの動作に入って、ぴたりと止まらざるを得ない事態に直面する。


 がっちりと掴み過ぎだ。このまま振り抜けば、幸助の指ごと斬ってしまう。


「ちぃ……っ」


 蹴りでの叩き落としに変更するも、無理やり過ぎた。そしてこんな不恰好な攻撃を通してくれるほど、幸助は甘くはない。『書』を握るのとは別の腕で、由紀の蹴りを叩き返す。


 傾ぐ体幹。持ち直す間に、幸助は剣の射程から抜け出す。


 僅か十秒にも満たない攻防の中に一体、どれだけ死に繋がる道があったのか。


「やってくれたな、むなっちゃん。……今のは結構自信あったんだぜ!?」

「幸助ならもう一つ、用意していると信じただけだ」


 紫紺が集い、矢じりが飛ぶ。

 白刃が輝き、白刃が走る。


 由紀にシロのような運動能力はない。幸助のように障壁も出せない。当たれば傷つく。死に至る。そんな攻撃を前にして、一歩も引かずに立ち向かう。


「くそ、なんでだ。なんで殺せないんだ……っ!」


 黒い拳は標的が大きく、簡単に防がれると判断して小さく、素早い連打重視の攻撃へと幸助がシフトする。飛び交う魔法弾と矢じりが由紀の接近を拒む。


「当たれよ、死ねよ、倒れろよ! なんでそこまでがんばんだよ!?」


 数が多く、一発から一発への感覚が短い。直撃こそ防げているものの、完全に捌けなくなってきた。矢じりが頬を掠り、魔法弾が脇腹を撫でる。


 一方的な射撃戦。距離という絶対安全圏。明らかな有利状況のはずなのに、幸助の表情には余裕がない。苦しげに眉を顰め、呼吸が荒くなっていくばかりだ。


『結界の生成と維持、水無月の足止め、そして我との一戦。最小限に抑えてきたとはいえど、これだけのことをしてきたのだ』


 シロが仕返しだと、言わんばかりに呟いた。


『随分と薄くなってきているぞ?』


 掠った頬にできた赤い線から血は流れず、撫でられた脇腹は衣類を持っていく。それだけだった。痛みこそあるが、飲み込めないほどではない。


 威力が下がっている。


 幸助の魔力が尽きかけているのだ。

 

 油断させるための演技ではない。例えそうだとしても、踏み込ませた先にある罠を由紀は食い破った。勝負手を潰されたのだ。小細工には頼れない。かといって魔狼の心臓を使って作られた剣相手に力押しでは勝てない。

 

 幸助は完全に攻め手を失っていた。


「俺はむなっちゃんを殺したんだ……一度、この手で殺したんだ!」


『書』に宿る紫紺の輝きが強さを失っていく。


「心臓抉って、殺してたんだ。なのに、生きてちゃあ意味ないだろ……っ」


 前進、回避、横に跳ぶ。躱しきれない。剣で斬る。受ける。再度前進。


 飛来する弾の数が減っていく。その分だけ由紀が近づいていく。友を取り戻さんと剣を翻す度に、その想いに応えるべく青白い光が唸りを上げるように煌めく。


「生きてたらッ!! 俺が殺したことの意味が軽くなるだろぉ!?」


 涙を流しながら幸助が吐き出した言葉は、果たしてどちらの意味なのだろうか。


 純粋に一度目が無駄になるからか。

 それとも――殺したことで負った罪の意識が、由紀の生存で薄れることだろうか。


「戻ってこい、幸助っ!!」

『行け、我が友よ!』

「来るなああああああぁぁぁっ! 来るな、来るなっ、来るなぁ!!」


 消えかけていた『書』の光が、再び強さを取り戻し、幸助を中心として風が突如狂う。放出される魔力に踊らせられ、由紀の足を僅かに奪う。


 最後の攻撃が来るのが、感覚でわかった。


「闇に染まれ、黒に堕ちろ! 人の心こそ血の坩堝。混沌より現れ、抜刀せよ!!」


 呪文が力を召喚する。


 幸助の頭上に描かれる六芒星は、これまでのものよりも一段と大きく、禍々しい紫の光で描かれていた。中央からずるりと吐き出されるのは、人の憎悪の塊できたかのような骨で創られた巨大な剣。纏う邪悪な大気に、脳が揺さぶられて倒れそうになる。


「死んでくれ、殺させてくれ! 俺にお前をくれええええええええ!!」


 向けられる殺意に、意識が飲み込まれそうになる。振り落ちてくる骨の剣は『フェンリルハート』の十倍以上の大きさだ。黒い拳には勝てた、矢じりや魔法弾も打ち消せた。


 この大きさでは避けられない。立ち向かうしかない。

 だが、打ち勝つことができるのか。


『信じろ!!』


 シンプルなたった一言に、折れかけていた闘志が呼応する。


「吼えろ……」


 由紀には魔法のことはわからない。手の中の剣がとんでもないシロモノであると理解できても、果たして目の前に迫りくる剣に勝てるか、計ることはできない。


「吼えろ……ッ」


 常識的に考えれば無理だ。あんな大きいのに、こんな小さいので勝てるはずがない。


「吼えろ……ッ!!」


 しかし、それでも、シロが信じろと言うのならば、自分は全てをそこに預ける。


「フェンリルハート――!!」


 刃と刃がぶつかり合う。


 初めて感じる斬撃の反動。押し返されようとする反動が手にかかる。

 負けない――負けるはずがない。シロの剣がこんなモノに負けるはずがない。


 全力を込めて、振り抜いた。


 由紀の信頼に『フェンリルハート』が咆哮する。

 

 禍々しい骨の剣を青白い刃が裂いていく。振り切るまでは一瞬だった。気が付いて目で追えば、空には断ち切った先端部分がくるくると踊っている。

 

 形を崩され、骨の剣が霧散していく姿を見開いた目で幸助は捉え、絶望した。


「オレの勝ちだ」


 剣の切っ先を幸助に向けて、由紀は大手を宣言する。


 彼の握った『書』にはもう、紫紺の光は灯っていなかった。今ので魔力を全て使い果たしたのだろう。次の手を取る様子もなく、幸助は呆然と立つ。


 慌てるでも、狂い叫ぶのでもなく、真っ白な表情で。

 ただ眼に爛々と光る狂気を宿らせ、由紀のほうを窺い続ける。


「幸助……?」


 様子がおかしいと、呼びかける由紀の声に幸助は嘲笑を作ることで返事をした。

 後ろに一歩、二歩と下がりながらポケットに手を入れ、何かを取り出す。

 

 カッターナイフだと気づいたときには遅かった。


「まだ終わっちゃねえよ、むなっちゃん」


 チキチキと、背筋を凍らせるような音を鳴らしながら、刃を出して幸助は己の首筋に当てる。自分で自分の頸動脈を狙っているのが、はっきりとわかった。


「俺を『俺』に殺させたくなければ、わかるな? お前が死ぬんだ」


 冗談を言っている声音と眼つきではない。心の底から沸き出た本音を幸助は語っている。


『……なるほど、外道染みた手をやってくれるな』


 やられたと呟くシロの声には苦いものが混ざっていた。由紀のハッピーエンドを目指す以上、幸助は失えないというのに、その本人を人質に取られてしまっては手を出せない。


 勢いよく踏み込んでカッターナイフを叩き落とそうにも、一息で殺せる距離ではない。由紀が近づくよりも先に、幸助は首を掻っ切るだろう。


「……治せるか?」

『切るだけではなく、喉に刃を埋め、掻き回されるかもしれん。そうなれば塞ぐまでに時間がかかる。失血死の回避はできない』

「魔法でも出ていった血は補充できない……だったな」


『書』によって我が儘になっている今、自分で自分の喉を斬り抉ることぐらい容易くやってのけるだろう。幸助の自傷覚悟で事態を収める方法は取れないということだ。


 有利に進めてきた一手一手が、盤上ごとひっくり返されて無に帰ろうとしている。


「聞こえなかったかな、むなっちゃん。今すぐその剣でさ、心臓でも首でもいいから斬っちゃってくれよ。そうすれば、俺は死なないからさ」

「仮にオレが了承して、自害したとしよう。何れ来る水無月にお前は負ける。オレが拒否した場合は、お前は死ぬ。わかっているのか、幸助。この問答はどちら転ぶにしても、お前の敗北で動かないんだぞ」


 一応、前者ならば幸助は生存できるが、由紀を殺すことは成功してしまっている。

『書』から離され、正気に戻れば、過去の被害者達同様に首を吊ることになるだろう。


「構わない。俺はこれでいい」


 だというのに、幸助は納得をしてしまっていた。


「元々こんなん、負け戦に決まってるじゃん。第十七位が近くにいるんだぜ? 『俺』みたいな小物じゃ逃げることもできねえ。むなっちゃんを殺して、俺も生きてはい終了、なんて完全勝利はハナッからないのさ。でもこれでいいんだ」


 覚悟を決めてしまっている。死ぬことを受け入れてしまっている。


「最後の瞬間だけでいい。短い間だけでいい。むなっちゃんの最後を俺がもらえれば、もうやりたいことなんてない。すぱっとあの世に行くだけさ」

「お前は、そこまで……」

「ああ、愛しちゃってるのさ。鈍感なお前さんをな」


 そして歪められてしまった。恋を狂わせられてしまった。


 言葉で揺さぶるのは、もはやできないだろう。苗床は純粋で強固な想いなのだ。第三者に影響されるようであるならば、『書』に寄生されても執着し続けはしなかっただろう。皮肉なものだ、人を我が儘にさせる狂気が、純愛を証明させてしまっているだなんて。


「さあ、一緒に死んでくれよむなっちゃん。答えなんて、もう決まってるんだろう? 俺の知ってるお前は、友人を見捨てたりしないもんなぁ?」

『……ここが限界だ。貴様の気持ちもわかる。だが、これ以上は無理だ』


 せめて由紀の手で終わらせてやれと、言いかけるシロを黙らせるべく心臓を拳で打つ。


 こんな終わりは認めない。認めたくない。どこかに糸口があるはずだ。


「諦めない……オレも、お前も、一緒にこんなところから帰るんだ」


 探せ。見つけだせ。掴みとって手繰り寄せろ。ないならば作り上げて見せろ。幸助に生きてほしいのだろう。シロにハッピーエンドがあることを示したいのだろう。


「時間を決めよう。じゃねえと、ずっと場が動かない。三秒数えるぞ」


 いち、と幸助が声を上げた。


 考えを巡らせろ。あらゆる手段を検討しろ。足掻いて、足掻いて、足掻いて。


 にい、と幸助がカッターナイフを喉に突き入れ始めた。


『決断が下せぬようなら、我が……!』

「シロッ!!」


 呼び止め、行動を制する。しかしそうしたところで、別の解答は出せるわけじゃない。


 さぁん、と幸助が手に力を込める。刃が皮膚に沈み、ぷつりと裂けたと同時に血が玉のように浮き出てきて、



 カッターナイフが弾け飛んだ。






 状況はまるで掴めなかった。何故、先輩からあの魔狼の反応を感じるのか。いか様な経緯で橘幸助と対峙しているのか。不透明で何一つ明らかになっていない場であった。


 それでも、先輩が何を望んでいるのかだけは理解ができた。


 ならば成すべきことも見えてくる。ようやくこちらが片付き、手が空いた今ならできる。


 腕を前へ伸ばす。人差し指に魔力を集わせ、小さな玉を具現化させる。オーソドックスな魔力弾による攻撃。殺傷力は持たせない。狙いをつけるべく、意識を研ぎ澄ませる。


 家庭科室を出た廊下から、二人のいる校庭までは遠い。けれど失敗は許されない。


「――貴方の求めに応えるのが、私の願い」


 トリガーを引いた。





 かしょんと、小さく土埃を立てながら、カッターナイフが地面を滑る。

 

 突然の出来事だった。全く予想していなかった角度からの援軍だった。


 幸助が驚いて背後の校舎を振り返り、そして由紀は走り出す。


「あの女最後まで俺の邪魔をおおおおおおおおおーーーーっっ!!!」

「幸助――!!」


 由紀の声に反応し、幸助が抱きかかえるようにして『書』を守ろうと寄せる。

無理やり引きはがそうとするのは無理だ。かといって剣を使えば腕ごと切り落としてしまう。時間がかかり、何か仕掛けを打たれては状況がひっくり返させるかもしれない。


 ならばと、由紀は左手を強く丸めて振り上げる。


「歯を食いしばれ……っ!」


 勢いの乗った手加減なしの左ストレートで幸助の顔面を撃ち抜いた。衝撃に体勢が崩れ、『書』が手の中から落ちる。訪れたチャンスは逃がさない。幸助から『書』が離れたのであれば、剣を振るうのに躊躇う理由はない。


『本体を斬り捨てるのだ、それで全てが終わる!』


『書』は落下しきる手前で止まり、サッカーボールほどの黒い球体を生成させて自身を包む。それだけではない。中央部分に入った切れ目が開いて眼球が姿を現し、一対の腕と、蝙蝠のような翼が側面から生える。


 逃げる気なのだろう。ふざけた話だ。ここまで好き放題にしてくれて、勝手に退場しようというのだ。


「悪いが逃走は認めない」


 宙を飛ぶ『書』は遥かに遅い。


 小さな羽が生み出す推進力は、その大きさに見合う程度にしかなかった。剣を振り上げる。射程内だ、外しはしない。


 これでピリオドを打つ。この一撃で、この一刀で決着になる。


 渾身の力を込めて振り下ろす先にあったのは、『書』が身の内から取り出した脈打つ肉片。


 だった。


『どこまでも、貴様は――っ!!』


 誰の心臓かは、考える必要もない。まだ新鮮で腐っていないソレは、元いた場所へ収まりたいと主張するかのように伸縮を繰り返す。鮮やかな血の色の臓器、自分を十七年間生かしてくれた命の形。思い止まる要素は多分にある。


 だが進む要因はソレを遥かに凌駕していた。


「残念だったな。オレにはシロがいる」


 迷わず『フェンリルハート』を振り下ろし、由紀は心臓ごと『書』を切り裂いた。


 別れて二つになった目が『何故だ』と問いかけるように由紀を見上げている。


 駄目押しと言わんばかりに今度は腰を落とし、体の捻りを最大限に使い横一文字に斬る。


「お前の手垢がついたものなんて、いらないんだよ」


 十字に切り裂かれた『囁き語り掛けるモノ』は『フェンリルハート』の青白い光に焼かれるようにして、心臓と共に輪郭を失い空へ溶けていった。

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