誰もいない保健室へと転がり込む。そのままベッドに倒れ込みたい気分だが、状況はそれを許さない。幸助から全力疾走で逃げた反動で、体力の消耗が著しいが、由紀は周囲を警戒するべく立ち続ける。


「追撃はいまのところなさそうだな……」


 入口と窓を一瞥するも、それらしき気配はなかった。移動の最中も敵に遭遇することなく、ここまで来ることができた。


 てっきり水無月を足止めしていると言った『何か』が来るものだと身構えていただけに、肩透かしを食らったような心境である。こちらに構う余裕がなかったのか、或いは自分自身で殺すことが幸助の勝利条件なのか。理由はどうあれ、近くに敵はいなさそうだ。


 荒い息を落ち着かせようと、浅く早い呼吸を深く長いものへと切り替える。ふと、保健室の中央で立ち尽くすシロが視界に映り、咄嗟に目を逸らしかけた。


 あまりにボロボロで、直視するのが辛い。


 砂埃の灰色と、攻撃を受けて焦げた黒の二色で、白いコートは完全に塗り潰されている。ニーソックスも最後に足を掴まれた部分が肌と混ざるように溶け合っていた。

 刺し傷はないため、血の赤黒さこそないものの、満身創痍なのが伝わってくる。


 最も、一番のダメージは外ではなく、内側だろう。


 俯いているために表情は良く見えないが、無気力さを表すかのように尻尾が垂れ下がり、何も聞きたくないと伏せられた耳から傷の深さが窺える。


 心の傷跡が、どの種類のナイフで刻まれたモノなのか、わかっているだけに言葉をかけにくい。まさか『よくもやってくれたな』などと文句を言うつもりは毛頭にない。何でもない、気にしていない、元気を出してくれと肩を叩いてやりたい。


 だがそんな陳腐な慰めが、届くはずがないのもまた事実だった。


「……っ」


出しかけた声を飲み込む回数だけが増えていく中で、無視していた疲労が足の力を奪った。がくりと膝が折れて、体が傾く。身近にあったテーブルに手を突くことで転倒することを避けたが、予想以上に体力の消耗が激しいことに内心で驚いた。


 前に出て戦っていたシロがこうして立ち続けているというのに、後ろで何もしなかった自分が倒れるのは情けなさ過ぎる。意地を振り絞り、テーブルから何とか離れた。


「――」


 気が付けばそんな由紀の様子をシロはじっと見つめていた。前髪で隠れた向こう側にある瞳は、倒れそうになった姿をはっきりと捉えていただろう。


 何を言うわけでもなく、何か反応を示すわけでもなく。

 由紀を見て、見て、見続けて、シロが告げる。


「行ってくる」


 最初、それが誰のセリフなのか、あまりに自然に零れ落ちすぎてわからなかった。

 

 空耳だと聞き流してしまいそうだったのを、現実のものとして捉えられたのは、シロが保健室を出て行こうとしたからだろう。前のめりなりながらも、その腕を掴んで止める。


「どこに行く気だ。そんな体で、そんな状態で、どこに行くって言うんだ?」

「……離してくれ。力が籠り過ぎていて、痛い」


 シロは腕を軽く振って解こうとするのだが、由紀は離さない。こんなにも弱々しく、辛そうに声を絞り出すシロを、行かせるわけにはいかない。


「質問に答えろ。どこに行く気だ」

「質問に答えれば離してくれるのか?」

「行き先次第だ」


 行き先なんて本当はわかっている。ここでのシロの答えは一つしかない。


「小僧の元へ。我はアレとケリをつけなければならない」


 ドアの方へと向いていた体を由紀へと直して『あの人間が』と見下し切っていた相手に対し、シロが頭を下げる。


 あのシロが、懇願している。


「行かねばならないのだ。清算しなければならないのだ。このまま放っておけば、小娘が解決するだろう。あの鎧人形の数が著しく擦り減っている現状でも、それでも第十七位だ。時間はかかるであろうが、負けるはずがない。……そうなっては、意味がないのだ」


 これは、シロの心の問題。


 引き起こしてしまったことに対して、責任を取るための無意味な戦い。


「我のせいで迷惑をかけてしまった者がいる。傷つくはずでなかった者が目の前にいる。その者に詫びる為にも、必要な戦いなのだ。償わなければならない罪なのだ」


 勝算は恐らくない。シロの魔力は殆どがなくなっているはずだ。青白い頬を見れば、回復していないことぐらい素人の由紀でもわかる。なのに立ち向かうと言うのだ。


「死ぬつもりか」

「……あの小僧は知恵が回る。戦力では小娘の圧勝であるが、戦術で出しぬかれるかもしれない。保険を打っておくのは悪い手ではないであろう?」


 質問の返しではないその言葉が、答えを雄弁に語っていた。

 

 行かせてならない。手を離してしまえば、シロは二度と帰ってこない。


「幸助のことは水無月に任せて、じっとしていてくれ。……オレはお前を失いたくない」


 由紀の求めに応え、シロは表を上げる。顔には、弱った笑みが張り付いてた。


「それは無理だ。責任を取らなければいけない相手は、貴様だけではない」


 瞳の焦点がずれる。ここではない過去、事が起こったその時間をシロは幻視しているのだろう。悦びも、怒りも、哀しみも、後悔も、様々な感情を込めながら由紀に言った。


「同じなのだ。あの時もそうだ。我がいたから、関わってしまったからリズィは死んだ」


 罪の意識が由紀だけなら、シロは踏み止まれただろう。

 しかし彼女の背中には、もう一つの罪が背負われている。


「苦しかっただろうに。生きながらにして、焼かれていくのは痛かっただろうに。助けられなかった。何もできなかった。そして繰り返している。また我が原因で人が死んだ」


 涙が溢れる。シロの頬を伝い、床へと雫が流れ落ちていく。


「二人も犠牲にしてようやく理解できた。この連鎖を止めるには、命を使うしかないのだ。もう誰かが自分のせいで血を流すことになるのは、我には耐えられない」


 嗚咽は上がらない。声音はぶれない。静かに示された覚悟に、引き留める言葉がもう出てこない。死に魅入られたシロを前に、由紀は唇を噛み締める。


「……お前が離れたら、オレの心臓にかかる魔術がなくなるんじゃないのか」


 縋れるのはもはや、理でしかなかった。由紀が生きていられるのは、その身に埋め込まれた魔狼の心臓にシロが魔術をかけ続けているからこそだ。それが離れてしまい、消えてしまえば途端に死体に戻ってしまう。


 例え由紀がシロに付いていくことで、距離の問題を強引に解決しても、シロそのものが消滅してしまえば結果は同じだ。由紀の生存にはシロが必要不可欠なのは、他ならぬシロが語ったことだ。死ねるはずがない。道連れはできまいと、脅しをかける。


「それなら問題ない。小一時間ほどなら、離れても問題ないだろう。その間に状況は絶対に終了する。とすれば、後は小娘に任せるだけだ。アレの力量なら我の代わりも務まる」


 一般的な魔術師が万人も必要なレベルの行動な魔術だと、出会った初めに聞いたシロのセリフが脳裏に浮上する。そして水無月司は、黎明機関の第十七位。実際に一戦交えて知った彼女の技量から、代役ができると魔狼は判断したのだろう。


「小僧が暴れ出してから、かれこれ三十分以上経っている。小娘以外の黎明機関の人間が、そろそろ介入してきてもおかしくはない。あの集団は力量よりも、対応力のほうが恐ろしい。魔狼の心臓が目を覚ますまでに終わると断言できるのも、これが理由だ」


 そしてシロが由紀の手を振り払うことのできる理由にもなる。

 責任を引き合いにしてもダメだった。論理立てても破られてしまった。


「……短時間なら離れても問題ないことを伏せてたのは、何故だ?」

「聞かれなかったからな。必要ならば、その都度説明するつもりだった」


 突破口を探るべく、手当たり次第に手を出すも一蹴されてしまう。


 終わってしまう。シロが行ってしまう。これ以上は続けられない。手立てがない。次に離してくれと言われたら、離すことしかできない。逆らっても振り解かれて、それまでだ。


「……迷惑をかけたな」


 聞きたくない。最後に向けての言葉なんて、かけられたくない。認めたくない。


「あの小娘なら、貴様の扱いも悪いものにはならないだろう」


 だから、言うのだ。


 この頑固者の心の扉にかかる鍵を、砕くために。

 最後の切り札を使うのだ。


「それではな。短い間だったが、世話になった」


 手が解かれる。強く振られ、指が離れてしまう。

 開かれるドア。歩き出す狼を止めるべく、由紀はジョーカーを切った。


「随分と上手くウソをつくんだな。本当は幸助とやり合う気なんて欠片もないんだろう?」


 ぴたりと、シロの歩みが止まった。


「……何だと?」


 聞き間違いかと、シロは振り向き、由紀はわざと憎たらしい笑みを作る。


「水無月は幸助の相手をするのに手一杯だ。倒すことはできても、他のことに当たれるほどの余裕はない。つまりだ、心臓を回収して絶好の逃げ出すチャンスでもあるわけだ」


 逆鱗に触れるべく放った言葉が、シロを強く揺さぶった。


「ふ、ふざけるなよ……我が、我がそのような卑怯極まりない真似を、するとでも!?」


 悲しみの藍色が、疑念の碧になり、憤怒の紅へと変わっていく。プライドに泥を塗りたくられ激昂するシロが、全身を逆立てて殺意を由紀へと叩きつける。


 ここで逃げ出すことは、己の罪から目を背けること。

 つまりは由紀だけではなく、リズィに対する想いをも汚すことになる。


 背負うものが由紀だけならば、聞き流せただろう。恨みを買っているのだから当然と、甘んじて受けられたのだろうが、二人ならば話は別になる。


「我は償わなければならんのだ。今に、過去に! 我が原因で血を流した者達のために、責任を果たさなければならないのだ!」


 叫び、そして由紀を見つめる瞳から止まっていたはずの涙が再度、流れた。


「それを貴様に……っ、貴様はそんな風に……!」


 侮辱された怒りと、理解されなかった悔しさに、胸を張り裂けそうなシロを由紀は鼻で笑い、言葉で辱める。


「名演技だな。それでこの後どうするんだ。外に回って、そこの窓ガラスを割って侵入。突然の再登場に驚くオレを背後からズドンッ! って感じか。ああなるほど、幸助にやられたときの再現をするわけか。セリフはこうだな。『いい間抜け面だな、人間』」

「するものか! 何故我がそんなことをせねばならない!」


 ぶんぶんと首を振る様は子供のようだ。長い髪が揺れ、涙が周囲に散る。


「我はフェンリルだ。太陽を喰らい、主神を滅ぼし、最後は父ロキの元に駈けつけ戦った誇り高き狼の名を冠する者だ! 卑怯な真似はしない! 自身の過ちから目は背けない! それとも貴様は、そんな風に我のことを思ってたのかっ!!」

「当然だろ」


 壊そう。その壁を。


「だって、オレはお前の人質なんだろう?」


 完膚なきまでに。この手で砕くべく、由紀は言った。


「黎明機関に対する盾にしたのはなんでだ、自分が安定して生きるためだろう? まだ生き続けるために選んだ手段だろう? ならここで義理立てする必要はない。屋上で出来なかったことをするだけだ、心臓を回収すればお前は生き残ることができる」

「――ぁ」


 双眸を見開き、シロが震えた。


 感情赴くままに叫び続けた声が止まり、途端に静寂が二人を包む。止まった音、進む時間。由紀はシロとの間に空いた距離を埋めようと一歩、足を踏み入れる。


「持っていけ。これは元々、お前のものだ。お前の力だ」


 一歩、一歩を進んでいくと、シロがその分だけ後ろへと下がった。


「なんで逃げるんだ? 何がその足を動かすんだ?」

「く、来るな……っ」


 シロは逃げられない。ここで逃げてしまえば、由紀の主張が通ってしまう。

 シロは進めない。ここで幸助へと向かえば、由紀の誤解を解かないまま終わってしまう。

 シロは否定できない。ここで言ってしまえば、本心を認めてしまうことになる。


「心臓はここだ。これを持って逃げるんだろう。人質に自分の命を賭けてどうする。それじゃ本末転倒じゃないか。やるなら今だ。それともオレを嬲って黎明の水無月を苦しめる腹積もりか?」


 近づく。離れる。近づき、離れて。近づき続け、離れ続けて、シロの背中が壁にぶつかる。由紀の手が伸び、シロの頬へと添えられる。


「……本当は怖くて、寂しいんだろう?」


 憎たらしい笑みを消し、演技をやめて。由紀はシロに語り掛ける。


「自分のせいで誰かが死んで。苦しくて、悲しくて。そんな想いにずっと絡め取られて、振り解けなくて……同じ想いをしたくなくて、わざと突き飛ばして一人を選んだ」

「違う……違う……違う……っ」


 親指で涙を拭うも、また新しいものが溢れ出てきてしまう。


「それでも我慢ができなくなった。一人でいることが耐えられなくなった。だから無理やりにでも離れられない『人質』なんて相手を作ったんだろう?」


 そんなときに出会ったのが、死んだばかりの由紀だった。強制的に関係を結ぶのに適した状態の人間だった。


「作ってもまた過去を繰り返すんじゃないかって恐れてるんだろ?」


 怖いから触れられない。でも触れられないのは寂しい。

 けれど、過ちを繰り返すのはもっと怖い。


 二つの相反する感情、それがシロの正体だ。


 シロを見る。怖がりながら、恐れながら、己の尻尾を握りしめる彼女を見つめる。


 どれだけの時をそうやって、歯を食いしばるようにして生きてきたのだろう。

 照りつける夏と、凍える冬を何度、一人で過ごしてきたのだろう。


 今、そんな世界から連れ出してやる。


「シロ、ハッピーエンドを目指せ」


 強い気持ちの発露が声になり、言葉となる。


「どれだけご都合主義でも構わない。心の底から想い焦がれる本当の未来を求めるんだ。実現させるのは難しいと思う。他人からは夢物語だと馬鹿にされて、鼻で笑われることもあるだろう」


 小さいことを成すことすら、世の中はままらない。自身の意思を押し通すことが、如何ほどの苦難であるか、誰も彼もが知っている。


「それでも目指すんだ。楽な妥協じゃない。辛さの先にある喜びを求めて生きるんだ」


 一点も曇りもない、その綺麗な紅の瞳でシロは由紀をいっぱいに映す。


「オレのハッピーエンドにはお前が必要だ。ずっと一緒にいてくれ。たわいのないことをし続けていきたいんだ。飯食ったり、風呂入ったり、寝たり、起きたり……そんな風にあの家でシロと暮らしていくことが、オレの望みだ」


 頬に当てていた手を下へと滑らせ、シロの胸を拳で軽く叩く。硬く閉ざされた扉の奥にある心を呼び覚ますべく、由紀は正面から問いかける。


「お前の願いはなんだ?」


 狼の耳が逆立つ。沸き立つ何かを抑えるように、シロが口を閉じ、身を震わせる。


「言ってみろ。付き合ってやる」


内側に閉じ込めていた『何か』が今、爆ぜた。


「しにたく、なんてない……こんな、一人のままは、嫌だ……っ!! 抱き締めてくれる誰かが……欲しい……寂しいここから、連れ出して欲しい……っ!」


「叶えよう」


 涙が流れ落ち、タートルネックの生地に黒い染みがいくつもできていく。子供の様に声をしゃくらせ、抑えきれなくなった心のままに叫ぶシロに、由紀が応える。


 凍てつく小さな体に体温を分けるべく、抱き寄せて腕で包み込んだ。


「我は……き、貴様を……こっ、ころ……っ」

「ゆっくりでいい。焦る必要はない」


 息を飲み、シロは改めて声を絞り出す。


「我は貴様を、殺したも同然なのだぞ……っ? だというのに友だとっ、我の友であると言ってくれるのか……触れてくれるのか……っ?」

「言ってやるし、触れてやるし、一緒にお前の抱える罪も半分背負ってやる」

「本当は……寂しかったのだ。ああ、そうだ。リズィがいなくなって、一人が続いて、二人の時に感じた温かさがなくなってっ。百年も、彷徨ってもどこにも代わりはなくて……!」

「オレも家族が死んだときは、辛かった」


 園部夫妻がいなかったらきっと、由紀もシロと同じ想いに囚われていただろう。


「そんなときに貴様と会えたっ。助けて、話をして、話ができて、凄く……凄く嬉しかった……っ! 向けてくれる温かさに、何度も感謝していた……っ!」

「その分、シロも返してくれた」


 この三日間、家での生活で寂しいと感じたことはなかった。


「昨日、あの口論の最後に吹き飛ばしたことを、ずっと謝りたかった……っ。すまない、痛かったであろう……すまない、すまない……っ!」

「許す。オレも今、酷いことをたくさんいってシロを傷つけた」


 心臓を奪って逃げ出す、なんて戯けた冗談を言ったものだ。こうして素直に謝れるシロが、自己の保険に走ってここから逃げ出すわけがない。


「だから始まったばかりなのに、終わるだなんてやめてくれ」


 せっかく出来た貴重な友人を、即座に手放してなるものか。

 決意に力が籠る腕の中で、シロは小さく首を振った。


「……それはできない。自分のしたことに責任を取らないままでは、堂々と胸を張って貴様を我が友と言えないではないか」

 

 その仕草に息を詰まらせる由紀へと、自分の意思を伝える。触れあっていた体を開いてシロの顔を覗く。悲壮感に満ちた覚悟ではなく、希望に満ちた決意が眩しく光っていた。


「ケリはつける。ただし命は使わん。行って、成し遂げて戻ってくる。勝てる算段はないが……そこは今まで、臆病にも逃げ続けてきた自身と決別するための試練と捉えよう」


 涙はいつの間にか止まっていた。シロの気持ちは硬い。先ほどはできても、これを引き留める手段は由紀にはなかった。例えあったとしても、前に進むために下した決断を撤回させるようなことはしたくはない。


 何故なら、これがシロの望んだハッピーエンドへ至る始まりなのだ。


「人間は嫌いだ。裏切り、妬み、他者を犠牲にして保身に走る姿は醜く、吐き気がする」


 由紀に体を預けながら、シロは続ける。


「だがリズィは何の打算もなく我を好いてくれた。毛並みが綺麗だと、褒めてくれた。人間の中でもリズィは例外だ。無論、貴様もだ。臆病な我を受け止め、側に居続けてくれた」


 感謝してもしきれないと、小さく呟く。


「待っていてくれ。必ず帰ってくる」


 回された腕を優しく解き、踵を返して由紀に背を向ける。纏っていた不安と悲哀を振り払い、希望と気力に髪を翻す様は見惚れてしまいそうになるほどに美しい。


「貴様の名前を呼ぶのはそれからだ」


 振り向きもせず、誇り高き魔狼は宣言する。


 その姿を引き留めるような野暮はしない。黙って勝利を祈りながら送り出すのが、友人の正しい姿だろう。戦いに臨もうと歩き出すシロに視線だけで見送る。


 なんてことはせず、駆け寄って銀色の体毛をたっぷりとつけた尻尾を無造作に握った。


「わぅううぅうううぅーーーーーーーーーっ!?!」


 びくんと肩を跳ねさせてから、腰が抜けたのか床へと急降下してシロが倒れ込んでいく。咄嗟のことだからつい、掴みやすい尻尾を引っ張ってしまった。


「悪い。事故だ」


 謝って済まされないのは過去の体験からわかっていた。飛んでくる文句と罵声に対して身構えるとうに由紀は息を飲むが、いつまで経ってもシロは口を開かない。


 伏していた体をむくりと起こし、服についた砂埃を手で払ってから振り返る。


「……貴様は許したが我は一度、己の信条を破り捨てて暴力を振るった過失がある」


 コメカミを引き攣らせ、荒ぶる怒りを噛み砕いて飲み込もうとしていた。軽い刺激があれば壊れてしまうような危うい様子で、シロは再び由紀の目の前まで歩み寄る。


「だから、今のことを不問にすることで清算してやる。いいな?」

「あ、ああ」

「返事は『はい』であろう! 復唱!」

「……はい」


 よろしい、と首肯するシロに、とんだ茶番だと由紀は苦笑する。形こそ乱暴だが、体よく喧嘩の締めくくりをしたに過ぎない。非を認めながらプライドを捨てきれない、そんな姿に思わず口元が緩む。


 面倒だが愛らしい狼だと頭を撫でてやると、気持ちよさそうにシロは目を細めた。


「ところで、さっきは自分で尻尾握りしめていたが、アレはいいのか?」


 耳の付け根がポイントなのか、自ら差し出すように頭を動かす。優しく指の腹で撫でてやると、喉が鳴ったので続けてやった。


「自分でやるのと、他人がやるのとでは訳が違う。……で、こうまでして呼び止めたのだから、重大な進言があるのであろう?」


 下らない用事なら噛みついてやると、尖った犬歯をシロはチラつかせる。


 友人関係になれても、彼女の傲岸不遜は衰えない。むしろ心なしか、強まっているような気もするが、構わないと思った。彼女は誇り高き魔狼なのだ。


 これぐらいでちょうどいいというものであるし、遠慮をしないで本音を語り合える関係というのは望むところだ。


「黙っていないで言ったらどうだ。無茶な頼み以外は聞き届けてやるぞ」


 弁えを知っている相手ならば、殊更である。


「頼みというか、提案と願望だ」


 こうして話している間にも、水無月と幸助のやり取りは続いている。間に合わせるためにも、手短に説明しなければならない。


「幸助を倒すのだが、シロ」


 願うのは最上の未来。


「オレがやれないだろうか」


 昼休みを終了する鐘の音が鳴り響いた。

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