「『囁き語り掛けるモノ』。使用者に知識と魔力を授け、魔術の行使を可能とさせる魔法の本……。手駒を呼ぶ召喚魔術、人知れず事を進めるための結界の張り方。んで、今みたいな術者が直接使用する攻撃魔術と、これ一つで色んなことができるスグレモノ」


 ぱたんと、本を閉じるも悪寒は止まらない。


「便利だよなぁ。おかげで色々とできるし、色々と囁いてもらって気づけたこともある。自分の気持ち、自分の心、自分の望み……さぁーてと」


 薄暗い笑い声を漏らしながら敵は、この事件の首謀者である橘幸助は由紀を見る。瞳に宿るのは狂気ではなく、狂喜。狂い喜びながら、彼は顔を醜悪に歪ませる。


「ようやく、二人きりでゆっくり話せるねえ、むなっちゃん?」


 投げかけられる言葉。向けられる感情。姿形は見慣れた親愛なる友人のソレなのに、吐き気が止まらない。怒気と驚愕が入り乱れて、冷静さが保てない。


 それでも知性を持たねば、相手の手のひらからの脱出はできない。宗方由紀は脈動する心臓の猛りを落ち着けるべく、深呼吸をする。鼻腔を刺激する血の匂いの源に、不退転の覚悟を強く固める。


「確認させてくれ、幸助。お前がそうなのか?」

「ああそうさ。見ればわかる話じゃんか」


 右手に掴んだ本を高々と掲げて、幸助は宣言する。


「こんなもんもっといて『ボクは違いますー』『ボクがやったことじゃないんですー』って、言えるかよ。ギャグにしては面白くないし、そもそも冗談にするつもりはない」

「ならば覚悟はできているというわけだ、小僧」


 牙を剥き出しにし、足に力を込めて、開戦を望む姿勢を取るシロを見て、幸助は露骨に不機嫌な顔をした。気だるげに目線だけを由紀から移して、肩を落とす。


「お前さ、人が話してるとこに割り込まないでくんないかな。邪魔なんだよ」

「貴様の事情など、知ったことでは……っ!」


 空気の爆ぜるような音にシロの言葉が止まり、気づけば彼女の足元に弾痕のような跡が作られている。幸助を見ていた由紀は原因がわかった。彼が手のひらをこちらに向け、そこから発射した黒い球体が、廊下を抉った正体であると、理解して顔をしかめる。


『囁き語り掛けるモノ』が本当の友人の手の中にあると、突きつけられたようで辛い。


「もう一度言おうか、邪魔なんだよ引っ込んでろや犬っころ。お前の役目は後ろの女の手当だ。放っておけばすぐにでも死ぬぜ、それ」

「外道が。そのために巻き込んだのか、この娘を」

「便利なのは積極的に使うタチね。そら、どうする? 魔術じゃ傷を塞ぐことはできても、失った血の補填まではできないんだろ? 早く塞がないと失血死するぞ? それとも見殺しにすんのか? ん?」


 その言葉の根拠も『書』がもたらした魔術の知識なのだろう。

 見当違いでないことは、シロの表情を見ればわかる。


「頼む、シロ。委員長は死なせれない。助けてくれ」

「……前に立たねば、あの小僧の抑えになれん」


 返事の声音は硬い。緊急時だから姿を現しただけであって、両者の間にあるわだかまりが消えたわけではない。本人としても、この出方は不本意なのだろう。緊張感に立つ尾が、由紀に声をかけられるたびにぴくりと腹立たしそうに震える。


「アイツはオレとの会話を望んでる。殺すだけが目的じゃないんだ。別の何かを果たすまで、手は出してこない」


 先ほど打ち込んできた足元の一発も、明らかに牽制だった。意図は不明だが今はまだ、幸助は事が始まることを望んでいない。


 シロにとって委員長は死のうが、生きようが、自分にとって関係ない人物だろう。話したこともないのだから当然だ。しかし、何としてでも助けて欲しい。


「シロ」


 名前を呼ぶと、苦々しくシロが口を引き結んだ。


「……なるべく引き伸ばせ。さすがに数秒というわけにはいかん」


 相手の描いた計算通りに動くことが、プライド高いシロの勘に触らないはずがない。憤りを抱えながらも、後ろへと下がって血まみれの委員長の元で膝をつく。


 手に光を灯し、傷口を触れていく姿を見届けてから、由紀は幸助へと目を戻す。


「友情があったと思っていた。馬鹿をやって、楽しめる関係だと思っていた。だけど、それはオレの勘違いだったんだな、幸助」


 笑い合ったり、助け合ったり、許し合ったり。その中には絆が確かにあったと思い込んでいたが違った。『書』によって剥き出しにされた欲望の行動がコレだ。


「三日前、家の前で心臓を引き抜いたのはお前だ」

「そうだ」

「そして生きているオレを見て、再度殺意を募らせた」

「正しい」

「だからこそ、幸助はまたオレを殺そうとしてる」


 悲しみが溢れる。通じ合っている気持ちが、ただの独りよがりだと知った悔しさもある。


「何がいけなかった。どこが悪かった。オレのどこを幸助は憎んだんだ」


 許すつもりはない。委員長にしたことのツケは払わせるが、それとこれとは別だ。一連の流れ、自分の死亡まで含め、全ては由紀と幸助の交友関係が原因なのだ。


 殺したいほど憎まれてしまった自身の不出来さが、引き起こしたことなのだ。

 欠点がどこにあるか、知っておきたかった。


「強いて言えば、うん。全部だな」

「……全部?」

「全部」


 胸が破裂しそうな心境だった。いや、殺意が募るほどなのだから、当然と言えば当然なのだろう。しかし、要所を上げるのではなく、全部なのかという辛さが肩にのしかかる。


「だって表情全然変わんなくて何考えてるかわかんないし、めっちゃ柄悪いし、根暗だし、コミュ症で、なのに心開いた奴に鬱陶しいくらい全力で懐きに来るし」


 思わず顔を伏せてしまうくらいに辛い言葉の数々が、全身を切り裂いていく。


 何だこれは。冗談じゃなくて傷つく。楽しく笑い合っているその裏で、腹の中ではどす黒い負の念を抱いていていたのだなと、自分から確認したことだが膝が崩れそうになり、素朴な疑問へとぶつかる。


『書』は人を素直にさせる効果を持つだけで、焚きつける火がなければ効果はない。つまり、幸助の憎悪は付与されたものではなく、元々身の内にあったものなのだ。


 ならば、何故。


「そんな相手に、どうしてお前は付き合い続けてくれたんだ……?」


 好きな人間と付き合うのに理由はない。好きというものが理由そのものになるからだ。だが逆に、嫌な人間と付き合い続けるには理由がいる。嫌なモノから離れていくのは、人が持つ本能的な感情であり、自然の流れだ。


 投げかけた言葉を受け取って、幸助は表情を消す。


「諦めていたものが、巡ってきた……ってか」


 半円を描くようにして手を由紀へ伸ばし、潜んでいるものを曝け出すべく幸助が言った。


「それはだね、むなっちゃんの事が好きだからさ」


 幸助がこの場に現れたとき、衝撃が襲った。


 その衝撃を遥かに上回る思考の揺さぶりに、由紀の時が止まった。


「は?」


 この吐息の漏れは言葉を失ってぽかんと間抜け面を晒す由紀ではなく、その後ろで委員長を治療していたシロからだった。手元のほうに向けていた頭をぐりんと、ねじ切れんばかりの勢いで回して、幸助を凝視する。


「待て、待て待て。小僧、アレか。そういう趣味か、やはりそういう趣味なのかっ?」


 戦慄くシロの言葉に反応する気力すら湧かない。由紀はただ、クエスチョンマークを頭に浮かべて立ち尽くしたまま、ぴくりとも動かない。まだ微かに廊下に反響する幸助の声に、打ちひしがれ続けている。


「きっかけはわかんねーし、自然とそうなってたんだよな。気づけば好きになってた」


 やや照れくさそうに視線を逸らし、軽い苦笑を浮かべて肩を揺らす。


「マジで気づいてないんだもんな。こんだけ長くいてもこれだもん。周りが遠巻きになってる中に、一人近づいてきたら『もしかして?』くらい考えるっしょ」

「いや……しかし……そんなことも、素振りも……」


 一切なかったじゃないかと、続く言葉を察したのか。幸助は睨むように由紀を見据える。


「言わせるならともかく、男の俺から言えるかよ。こんな気持ち」

「まあ……当然であろうな」


 シロが頷く。その頷きに幸助も頷き、


「だからオレは独り占めすることにしたんだよ、むなっちゃん」


 不純物なしのまじりっけなしの笑顔を浮かべ、幸助は本を開き、本が血の塊をページの中から生み出して浮かばせる。空に固定されたソレはびくんびくんと、脈を打っていた。


 心臓。


「ずっと欲しかった。ずっとお前の心が欲しかった。欲しくて、欲しくて、欲しくて、欲しくて、気が狂いそうなくらい欲しいって思ってたときに、囁いてくれたんだ」


 言葉に熱が籠り、狂気が宿り、瞳の奥で悍ましさが揺らめく。


「我慢する必要なんてないって、思うままにやればいいって、ああホント――」


 出てきた映像を逆再生するかのように、心臓がページのはためく『書』へと沈み、生理的な嫌悪感を想起させる紫紺が迸る。歪む空間。矢を引き絞る弦の軋みを由紀は聞いた。


「――ようやくスッキリ出来ると思ってたとこに、泥をぶっかけがってよォ!!」


 委員長を貫いたものを再度、幸助は発動させて由紀へと放つ。打ち出される黒い飛翔体。人の皮膚など易々と貫けると語る複数の矢じりが、空間を走る。


「っ」

「させるかっ!」


 回避は無理と腕を胸の前に交差させ、着弾を覚悟する由紀の後ろから白い弾丸が飛び出し、拳と蹴りで一つ残さず弾き飛ばす。


「シロ、委員長はっ?」

「手当は済ませた! 完治ではないが、後はコイツをどかさねば進まん!」


 押さえつけていた怒気を遠慮なく爆発させ、シロは拳を構えて吠える。その燃え盛る闘気に向けて、幸助は歯をむき出して憎悪に頬を震わせた。


「またお前だ……またお前が邪魔をする……っ!! せっかく殺したのに、せっかく心を手に入れて、むなっちゃんを独り占めにできたのに、生き返らせちゃったら意味がないだろうがあああああああーーーーっ!!」


 ページが捲れる。所有者の激昂に反応して『書』が光を増す。喉の奥から絞り出す声がそのまま顕現したかのような、黒い大きな拳が現れてシロへと落ちていく。


「潰れろ、潰れろ、潰れろ! 潰れて拉げて消えてなくなれ!!」

「例え心臓を失った今だとしても――」


 黒い拳を迎撃するシロの拳は小さい。サイズ差は蟻と象ほどにある。

両者がぶつかり、力の均衡が始まる。


「――この程度を破砕できずして、何が魔狼か!」


 始まるはずだった。


 鎧袖一触。衝突した瞬間、一方的に幸助の出した黒い拳が拉げで爆ぜる。千々になる魔法の残骸が廊下に飛び散り、爆風が砂埃を舞い上げる。人外の領域で行われる戦いの幕開け、その初撃の派手さに意識を奪われそうになる。


 目の前で繰り広げられる夢物語のような光景に、由紀は息を飲んだ。


 何かできることがあるならと覚悟を決めていたが、介入できる隙がない。何もできることがないほどにシロは無論、『書』を手にした幸助も人離れし過ぎていた。


「どうした、次はないのか? ならば終わるぞ?」


 この手に触れればそれまでだと、狼は髪についた埃を払う。


「冗談言うなよ。まだまだ小競り合いだろうがさぁ!」


 言葉面だけ見れば余裕のほどが窺えるものの、目は笑っていない。見せつけられた一撃に、幸助は頬を引き攣らせながら再び黒い拳を、それも二つ出現させる。一つなら無理でも、数があれば結果は変わる。そう信じているのだろう。


 並び立つ双拳はサイズの大きさもあって壁のようだ。人が通れる隙間など存在しない破壊の魔術が、幸助の突き出す腕を合図に跳びかかってくる。


 これは先ほどと同じわけにはいくまいと術者は加虐の笑みを浮かべた。


「やれやれ、所詮狂人か」


 迎撃者は光を灯した拳を振りかざす。

 静かに吐き出されていた呼吸が、鋭いものへと変化としたと思った次の瞬間、シロの拳が幸助の呼び出したものをまとめて破砕していた。


 跳び散らばる黒い欠片で出来た雨の中を、白い髪を靡かせ狼は疾走する。距離を殺し、その腕の届く範囲に敵を収めるまで、一秒もかかっていない。


「なっ?」


 加えて爆ぜた黒い拳のせいで、視界が一時的に悪くなっている中での速攻だ。対応などできるはずがない。幸助は迫るシロの前に無防備にも身を曝け出したまま、動かない。


「知恵を捻ることもできぬのは、哀れなものだな」


 風きりの音が鳴る。それほどに早く、強く放たれたシロの蹴りを幸助は腕でガードする。


 腕の骨が折れるで済めばいいと思った。シロの打撃は鉄の騎士をも貫いたのだ。人間が受け止めるのならば、血肉が爆ぜ散ることすらありえなくはない。


 あくまでも、人間が受け止めるのであればだ。


 シロの蹴りが腕に降りかかる直前で止まる。いや、止められる。目を細めてみると何か、紫色の光のようなものに阻まれているのがわかった。


「防げるぐらいの障壁はさすがに張れるか。だが距離は殺せた」

「なろ……っ!」


 破れかぶれに放たれる、至近距離からの砲撃。向けられた本から撃ちだされる光弾を、シロは身を仰け反らすことで悠々と避ける。


 光弾はそのまま後ろへ、空き教室の中へと扉を食い破り、机や椅子など立ち塞がる全てを光の中に吸い込ませながら、視界から消えていく。受ければ即死であろう攻撃が眼前で撃たれたというのに、シロに緊張した様子はない。むしろにやけている。


「さて、その障壁がどこまでのものか評価してやろう」


 左右から遅いかかる打撃。右も左も全てに必殺の一撃を乗せて、拳のラッシュをシロは仕掛ける。フェイントなど必要ない、力押しでどうとでもなる、接近戦は自分の庭だと、主張するかのような強烈な攻め。


 幸助もさすがに不利な距離と理解しているのだろう。逃れようと後ろに下がるものの、狼は喰らいつく。牙にかけた獲物を逃がしたりはしない。


 右を撃ちこむ。幸助が腕を交差させて防ぐ。着弾の瞬間に紫紺の光が拳と腕の間に灯るのは、先のモノよりも小さいが障壁だろう。それでも完全に防御しきれないのか、或いは魔法を使用することで発生する代償からか、苦悶の表情が刻々と深くなっていく。


 魔術も無限ではない。接近戦ではシロを止められない。守りの光もいつかは途切れる。


 絶え間ない連撃に、ついに幸助がよろけた。フック気味に放たれた左を受け流すために、大きく体を振り過ぎて体幹をぶらしてしまう。


「終いだ」


 露わになった隙をシロは見逃さない。体を捻り、しなりを使い、渾身の回し蹴りを幸助へと叩き込む。なびく尾と髪に隠れて、由紀からは幸助の姿が良く見えない。


 だが口元だけは、はっきりと見えた。

 狂気に犯され、歪んていた唇が真一文字になっていた。


 次の瞬間、ぱしっと。

 肌と肌がぶつかる音が耳朶を打った。


「……一度目の黒拳の受け流しと、二度目の同時破壊。加えて今のラッシュでだいぶ、魔力を消耗したな。ようやく俺の抑えられる範囲まで落ちてきた」


 底冷えするような殺意と共に、撃ちこまれたシロの蹴りを幸助は完全に受け止めていた。紫の燐光に包まれた五指が、シロの足を完全に掴んで離さない。


「一発一発殴る度に、段々と威力が落ちていくのに気付かなかったみたいだな?」


 ここまで弱くなれば、俺でも対応できるようになる、と。

 舐めているのはそっちではないのかと、幸助はせせら笑う。


「ば、馬鹿な。『書』の宿主が、思考を巡らせられるほどに冷静さを保てるわけが……っ」

「相性がいいみたいでなぁ? 他のユーザーは思考力ごと我が儘になったみたいだが、俺は違う。俺は俺のまま、行動できる。考えることができる」


 計算外だと、シロは驚く。今までの苦戦は全て演技であったのかと、ハメられた自身への悔しさに唇を噛みながら、それでもと気を強く発する。


「く……いつまでそうしている、のだっ! 離せ小僧っ!」


 強引に体ごと後ろへ飛び退るようにして、シロは拘束から抜け出す。独壇場と思っていたショートレンジでの敗北が、彼女の強気に影を落としたところに、幸助は追撃をかける。


「逃がさねえよ」


 とんっと。軽やかに幸助は前へ飛び、シロとの距離を自ら縮めた。


「自ら……!?」

「『書』にある魔法は遠距離ばっかで、近距離用は身体能力の強化くらいしかねーけどよ」


 鋭いステップと共に、書を握っている右手とは違って空いている左手をシロへと打ち込む。受け流し、反撃の一撃をシロは打ちこむも、即座に左を戻されて払われてしまう。


「てめえはプライドごと嬲らねえと腹の虫が収まらねえんだよぉっ!!」


 幸助の攻撃スピードが速いわけがじゃない。シロが落ちているのだ。


「折角人が血を吐く思いで殺したっていうのにさ、また殺さなきゃなんねえじゃねえか!またむなっちゃんに痛い思いさせなきゃいいけないんだぞ!? わかってるのかオイ!」

「何を、むちゃくちゃな……!」


 幸助は左腕しか使わない。攻撃も防御も、行うは一本の腕のみであるのに、シロが押されている。まず流すことしかしない。放たれた拳に対して受けることをしない。恐らくだが、受けられるほどの魔力がないのだろう。


 人を超える領域での戦いには、攻めるにしろ守るにしろ、全てに魔力が用いられている。そのエネルギーの差が、如実に現れていた。


「それならば殺さなければいいだけであろう! 愛しているのであれば、傷つけるのは筋違いではないのか!」

「愛してるからこそ殺すんだよっ!!」


 鞭のように腕をしならせ、シロの腕を二本まとめて弾く。守るための盾が消え、現れたのは無防備な腹部。幸助が踏み込む。


「愛してるから、愛してるから、愛しているから!!」


 掬い上げるようなアッパーカットが鳩尾に突き刺さり、小さな体が宙に浮く。苦痛を堪えきれず、肺の中の空気を文字通り叩き出されたシロに向けて、幸助は本を向けた。


「――誰にも取られないように、俺が殺して独り占めするんだァ!!」


 光弾が吐き出される。今度は空中。体を動かすための足場もなければ、防ぐための魔力もない。


 シロの体が光に飲まれて爆ぜた。


「シロぉ!!」


 吹き飛ばされ二転、三転と廊下を転がるシロの体には力がない。辛うじて上下する胸から、まだ生きていることは視認できるも虫の息だ。戦闘を継続できる、できないの以前に起き上がることすらできない様子であった。


「だってそうだろ? 手に入らないんだ。この想いが届かないんだ。それなのに他の誰かが届けちまって、あわよくば受け止められたら辛いじゃんか。苦しいじゃんか」


 うわごとの様に幸助は呟く。目を見開き、ぶつぶつと唇を動かす表情は病的だ。歯を食いしばるようにして笑う姿は、長い長い導火線を燃やして爆弾へと進む火を連想させる。


「だから殺す。他の誰の手に渡ることのないように、俺が俺の手で終わらせる。むなっちゃんの最後と、むなっちゃんの心を奪って、手に入れて、一生握り締めるんだ。なあ、それってむちゃくちゃ良いだろ? ソイツの一生が手に入ったってことだろ?」


 こつこつと幸助は歩き出す。一歩、二歩、三歩と進み、転がるシロの前で止まった。


 無造作に足振り上げ、シロの頭へと乗せる。そのままぐりぐりと、靴底についた砂埃を髪に刷り込ませるよう、踏みつけて擦りつける。


「なのにコイツだ、この犬だ、この犬のせいで二回も、二回も殺す必要が出てきた。一度だけでも嫌だったのに、二回もだ! むなっちゃんを痛い目に合わせることに――」


 と、言いかけて、首を傾げる。


「いや、なら殺さなきゃいいんだ。好きな奴痛めつけて何が面白いんだ。愛してるしてるなら殺したりしないだろ、死んじゃったら話もできな……あれ、あれ? なんだ、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪い悪いいいいいいいいいいいいいいい!!」


『書』は人を我が儘にする。愛したいという気持ちと、独り占めしたいという欲望に対して、幸助は等しく我が儘にさせられた。結果、似ているようで違う感情が反発し、エラーを起こす。髪を掻き毟り、悶え苦しみながら幸助が体を暴れさせる。


「ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 子供の様に泣き叫び、憎悪のままにシロを踏みつける。何度も、何度も、執拗に踏みつけ、砕けない頭蓋骨に苛立ち更に踵を振り下ろす。


 その言動が、ぴたりと止まった。


「……いや、いいんだ。俺は間違ってない。『書』が教えてくれたじゃんか。殺せば、手に入るって。正しい、俺は正しいルートを進んでる」

「幸助……っ」


 一瞬でも『書』の呪縛に打ち勝ってくれることを祈ったのが、由紀の願いは空に散る。


 覚悟を決める時がきたと、由紀は深呼吸をした。


「なんだ、やる気かむなっちゃん。やめとけよ、いくら魔狼の心臓っていうバカみたいな容量の魔力機関を持ってても、使い方がわからねえんじゃ意味がない」


 立ちすくんでいた雰囲気が消え、闘志が灯ったことに幸助が気づき、宗方由紀の欠点を指摘する。最高級の武器を持っていても、由紀には使う方法がわからない。となると戦力としては並の学生程しかなく、魔法で武装した相手に太刀打ちできるはずがない。


 無駄死にが目に見えているが、それでも足掻かないままでは終われない。


 何かに何かが重なって、状況がひっくり返るかもしれない。そんな都合のいい未来を由紀は諦めていない。止まれば決定する未来ならば、動くことで変化することを望む。


「やってみなきゃわからない。幸助、オレがここで諦める性格じゃないのは知ってるだろ?」


 拳を構える。正面から切り込んで、一発かましてから幸助を引かせて、シロを取り戻す。委員長がいる以上、状況から逃げ出すわけにはいかないが、シロが踏まれ続けているのは我慢ができない。あの白い髪が砂埃で汚される行為は許容しがたい。


 思ってから、自嘲する。


 結局足掻くとか、逃げ出さないとかじゃなくて、自分は純粋にシロが侮辱されているのが許せないのだ。あの家で寄り添い合った相手を貶されたくないのだ。


「いくぞ、幸助」

「こなくていいよ、変に来て心臓以外に傷を残すのは俺が嫌だ」


 だからと、幸助は視線を下にと動かし、シロへと本を向ける。


「そこから動けばコレの頭吹っ飛ばす。止まってるんだ、むなっちゃん」


 やられたと下唇を噛むしかなかった。そこを突かれてしまうと、由紀は動けない。


「き、さ……まァ……っ」


 意識を取り戻したのか、或いは喋れるまでに回復がいるほどの傷だったのか。掠れた声を漏らし、シロが幸助を睨みつける。


「使う手段は常に最大効率のもんだ。少し癪だが、むなっちゃんはコレが大事みたいだし。……でもわっかんねえな、コイツのせいでむなっちゃん死んだんだぜ。大事にする理由が俺にはよくわからんよ」


 あまりにもさらりと、何でもない風に言うのだから危うく聞き逃しかけた。


「何を……我のせいで、だと……っ?」

「だっても何も『俺』を呼び起こしたのは、お前じゃんか」


 もう囁き声と自身の自我が入り交ざってしまったのか、本を示して『俺』と言いながら、幸助はわけのわからないことを言った。


 それはシロも同じなのだろう。要領が掴めていないのが、表情からわかる。


「いやね、確かに偶然もあったさ。黎明機関の人間が浸食されて、暴れて、鎮圧されたが『俺』自体は逃げ出せてその後、巡り巡って俺のところまで来たのは紛れもなく偶然だ。だが着火はてめえだよ。てめえが機関の支部で暴れ回ったとき、『俺』は覚醒したんだ」


 何かに気づき、シロの喉がか細く震えた。


「お前と水無月がバトったあの夜だよ。……そのときのお前の魔力に呼応して、同所に封じられた『囁き語り掛けるモノ』は活性化したんだ」


 言葉を叩きつけられるたびに、シロの顔が痛々しく歪んでいく。


「この惨状は全部、てめえが埋めた種が爆ぜた結果だ。むなっちゃんが一度死んだことも、委員長がそこで血まみれになってるのも! 俺が狂ったのも!! 全部、全部てめえが発端だって知らずにいたんだな! なるほどあ、その面ァ見て確信したぜ!」


 助けたはずの相手が、実は自分が原因で死んだのだと知っていれば、恥ずかしくて側に立つことなんてできやしないと、言外に幸助は激しく糾弾する。その一方で由紀は、本の現状について水無月に聞いたときのことを思い返していた。


 彼女はどういった経緯で敵の手に本が渡ったのかを教えてくれたものの、発端については軽く触れただけで具体的には提示していなかった。


「知ってたんだな……」


 自然と口から考えが零れる。水無月のことだ、他人に責任を押し付けるのを良しとしない性格が、事実を伏せさせたのだろう。あのとき、軽く口ごもっていたのは後ろめたさからではなく、隠すべき情報はどこかを選定していたからだ。


「そんなのはウソだ、デタラメだ……我は、そんなこと……っ!」

「これ見て、この状況を目に収めて! まだそんなアホみてえなこと言えるのか!?」


 しゃがみ込み、喚き散らすシロの髪を掴んで顔を由紀の方へ、その後ろで倒れている委員長の方へと幸助が向ける。


「これがてめえの行動の責任だ!! てめえがしでかしたことの結末だ!!」


 自信に満ちた瞳と思った。偉そうで、勝気で、生意気なところもあるけれど、自分という芯を持った者の持つ強くて綺麗な瞳だと、初めて見たときに由紀は思った。


 それが今、全て崩れ去っている。

 委員長を、委員長から流れた血を、最後に由紀をシロは見た。


「――ぁ」


 謝罪の言葉を漏らすことも、現実を否定することもせず、真っ白な顔だった。喜怒哀楽一切がごっそりと抜け落ちた姿は、本人の整った容姿もあってさながら人形だ。


「すぐに離れたが、黎明機関の人間が『俺』を所有してくれたおかげで、色々と事情が知れた。特に水無月司が本調子でないのは大きな収穫だったよ。てめえも、魔狼の心臓を受け渡したせいで大幅に弱体化してる。それでも『書』のスペックより上だが、戦い方が下手過ぎる。魔力不足なんて経験したことないんだろ、使い方がまるでわかっちゃいない」


 全力疾走の相手を追従する必要はない。いなして、時間を稼いで浪費させて、手の中で転がせるところまで待てばいい。


 人と争う上で一番重要なのは力ではなく、駆け引きだ。相手より、より多く考えたものが勝者となる。今の場合、単純に『書』を見下して思考を止めていたシロよりも、幸助が多く考えたことが結果に反映されたに過ぎない。


「何にせよ、終わりだ。犬はスッキリするくらいに痛めつけれたし、水無月も足止めしてあるから問題なし。後は本命に手を付けるのみ」


 興味がなくなったのだろう。掴んでいた手を開き、シロを無造作に捨てる。どさりと廊下に倒れ込み、微動だにしない。外界からの刺激が心に届いていないのだろう。魂が抜けてしまったと言われても、納得してしまうくらい気配が虚ろなだ。


「じゃあ、むなっちゃん。死のうか」


 逃れることのできない相手が迫りくる。先ほどまでは無力ながらも抵抗する構えであったが、ここで開示された事実が足枷になって動けない。


 自分の死因はシロにある。


 一度目も、すぐに訪れるであろう二度目も。全てがシロを起点として始まっている。


 戸惑わないわけがない。味方だと捉えていた相手が実は原因だったなんて、予想外もいいところだ。即座に飲み込める人間はまずいないだろう。


「恨むなら俺や『俺』じゃなくて、そこで倒れてる白いのにしてくれよ。大丈夫、痛いのは一瞬だけにするから。経験者だし、我慢できるよな?」


『書』のページがはためき、中央で止まる。恐らくだが、殺しに使う魔法が決まったのだろう。幸助は開いた紙に書かれた文字に指を這わせ、うっとりとした目つきで追う。


 歩みは止まらない。遠くからではなく、近くで仕留めるのだろう。お互いの手が届く距離まであと、数歩もない。じわり、じわりと減っていく。


 言い用の無い焦燥。勝手に打たれようとするピリオドを前に、由紀は立ち竦む。


 終わる。次に瞬きする間にでも。


 止まる覚悟も進む決意もできぬまま、紫紺を纏う幸助の腕に身を晒して、ポケットにいれていた携帯の震えに意識が傾く。アラームではない、これは誰かからの着信。


 鋼の軋む音を耳が捉えたのは、反射的に呼び掛けに応じるべく腕が動くのと同時だった。


「やべ、一体抜けてきやがったか……っ!」


 本を盾にするように前へとかざす。薄い紫紺の壁を幸助が作りだし、水無月の鎧人形が放った剣の一撃を受け止める。防ぐ盾と、貫かんとする矛の力比べに火花が跳ね回る。


「水無月かっ?」


 画面に表示された相手の名前を確認する必要はない。こんな状況で電話をかけてくる相手など、由紀には一人しかいない。


『申し訳ありません、余裕がなくて一機しか送ることができませんでした。これだけでは倒しきることはできませんが、逃げる時間を作ることはできるはずです、早く!』


 涼やかな声音に火を灯して、水無月は由紀に呼びかける。確かにシロが敗北してしまった以上、頼れるのは彼女しかいない。


「すまない、委員長のことも任せれるか?」

『引き受けます』

「……この借りは、必ず返す」


 短い挨拶を交わし合ってから、通話は途切れた。

 

 そうと決まれば行動には速度が求められる。鎧人形はマスターの指摘する通り、体中に傷を負っていた。一番大きいのは左腕が肩口からなくなっていることだろう。幸助の足止めとやらを、どれだけ強引に抜けてきたらこうも破損するのか、想像もできない。


「さすがは第十七位の作品、ちいとばかしこいつの相手は手間だが、よぉっ!!」


 叩きつけるではなく、押し返すといった趣旨の蹴りを放ち、幸助は鎧人形を追い返す。距離を作ったところで得意の射撃魔法を発動しようと、本を構えるも、片腕に構えられた銀の剣が予備動作を許さない。涼やかに甲冑を鳴らしながら前に出て、鋭い斬撃を見舞う。


「ああくそ本当に邪魔だぞやってくれたな水無月いいいいいい!!」


 注意を引きつけてもらっている内に後退しなければ、彼女の努力を無駄にする。委員長へと駆け寄って、その体を背負う。力の抜けた人間は重いと聞くが、委員長の体はそこまでではなかった。本人の体重が軽いせいなのか、或いは血が抜けたせいなのか。


 ぞっとする何かを噛み殺しつつ、脱出するべく歩みだそうとしたところで、シロが今だ動かないことに気づいた。幸助の束縛はもうない。歩こうと思えば歩けるはずだ。


「シロっ! 早くこい、そんなところに居てどうするっ?」


 呼びかける。反応はない。

 悲しいほどにぴくりとも、魔狼は動かない。


「くそ……ッ」


 走りより、その体を強引に担ぐ。こうしてシロに接するのは初めてだが、驚くほどに軽い。こんな細い体で、戦っていたのかと胸が締め付けられる。


「むなっちゃあああああああああん! 逃げるな、俺から逃げないでくれええぇぇっ!!」


 身を引き裂くような絶叫が、廊下を反射して全方位から襲ってくる。

 変わり果てた友人を残し、背負い、隣に置き、由紀は階段を下っていった。

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