「むーなっちゃん! 飯行くべ、飯!」


 昼休みに突入し、一気に活気づく教室の中。パンの詰まったコンビニの袋を手に提げ、開放感に満ちた顔で幸助が由紀の机まで歩み寄る。飲み物を自販機で購入し、そのまま暖房の効いた食堂で食べるのが二人の常なのだが、平手を立てながら由紀は頭を下げた。


「すまない、今日はちょっと用事があって」

「マジか、今日もなん?」


 落胆する幸助の声を申し訳なく思いながら、再びすまないと由紀は謝る。

 折角誘ってくれているのに、大事な友達との昼食を二日も断る。仕方のないことであると重々承知しているが、後ろめたさがそれで消えるわけでもない。


「必要なことなんだ。本当に申し訳ないと思ってる」

「んー……別に気にしてはないけどさ。なんか最近、付き合い悪くねーか?」


 デパートの件も含めているのだろう。そこを突かれると、ぐうの音も出ない。


「色々やらなきゃいけなくてな。明日は必ず付き合うから、それで許してくれ」

「へいよー。期待してるぜい」


 気にするなと手のひらを振る幸助には、本当に頭が上がらない思いだった。









 鷹津高校は様々な施設が集中している溝口という町にある。


 首都や都心には電車一本、それも十分少々で行ける一方で、田舎のほうに向かえるバスも出ていたりするので、交通機関の密集地としてかなり有名なところなのである。

 娯楽面でも大型デパートや映画館から、個人経営の古着屋やスーパーなど。マニアックなところで人工スキー場などもあったりするため、とにもかくにも老若男女が集まる街といえよう。駅前の広場は朝でも夜でも終電まで人が途切れることはない。


 そんな人の集う場所だからか、鷹津高校も比例するかの如く、学校としては異例の敷地を誇っていた。同じ方向で揃えられた五階建ての棟が四つ。中央の連絡通路を使っての校舎間移動は時間もかかるし、疲れもする。


 他にもグラウンドが二つ、テニスコート、剣道場、柔道場、プール完備。体育館は大中合わせて二つほど、といった感じで、設立から運動部は活動のスペースについて争ったことは一度もないらしい。校舎が多いイコール教室も多いため、文化部についても然りだ。


 だが少子化の風が強まる一方でしかない世の中。設立当初はその広さに見合った数の生徒が通っていた鷹津高校も、由紀達の時代にもなるとナリを潜め、定員を大きく割ってしまっているのが現在の状況だ。


 故にこの学校には、使われてない教室がフロア単位で存在している。


 確証がないため、含みを持たせた言い方になるが、一応いじめはないということで『危険な使われ方』を防ぐための鍵はかけられていない。もっぱら放課後に一部の帰宅部が溜まり場として使っているぐらいだ。


 そのこともあり主な使用時間帯から外れた昼休み。空き教室が並ぶ一帯には、由紀とシロ以外の気配はどこにも感じられなかった。


 主な原因はこれだろうなと、空き教室の一つに入り、窓の上辺りに生えるダクトを見つめる。この時期に暖房が取り外された場所へと、進んで足を向ける生徒はまずいないだろう。風がないが気温は外と同じでは、ダラダラと雑談する気も失せるというものだ。


 だからこそ、利用ができる。


 後ろに積み上げられるようにして寄せられていた机と椅子の中から、比較的きれいな物を人数分だけ選び出し、セッティングしていく。


 机を並べ、挟むように椅子を置き、少し埃が積っていたのでハンカチで拭って除去する。

 場を整えたのを確認してから、由紀が椅子に座る。それに倣ってシロも座る。


「始めようか。どうしてあんなことを言ったんだ?」


 朝の一件について、などと主語を含める必要もないだろう。


 飾り言葉も前置きもなく、由紀が投げかけた質問に対して、シロはぴくりとも動かない。声を漏らすことも、視線を動かすこともせず、ただひたすら不機嫌極まりないといった表情で沈黙を貫いている。


 さながら、天岩戸をひたすらノックしているといったところか。


 肩を叩いても、話かけても、まるで反応を返してくれない。無理やりに目を合わせようとすれば、睨みつけてくる始末である。


 学校とシロという性質を考えれば、口にチャックをかけてくれていたほうが過ごしやすいのは確かだが、板書をする背後でネガティブなオーラを吹き散らされるのだから非常に座りが悪い。何より一言も喋らずに不貞腐れ続ける彼女が心配だった。


 シロの味方は知る限りいない。水無月も手を出してくれていないだけで、敵という立場を捨てたわけではない。故あれば即座に戦う姿勢は数時間前にも見せられた。


 由紀だけなのだ。 

 今、この時点でシロの味方は、由紀だけしかいないのだ。


 この状況を見過ごすことは、彼女の孤立を意味する。


「水無月に喧嘩を売った自覚も、売ったことで発生する不利益も、お前は正しく理解しているはずだ。それでも尚、突っかかったのは何故だ」


 本心をぶつける。言葉の端々に熱が籠っているのが、自分でもわかる。


 だがそれでもシロは黙り続ける。半目で机の節目を見つめて、それまでだ。


「……口を割るまで動かないからな。ずっとこのままだ」


 もはや根比べしかないと、徹底抗戦を示すとシロが小さく舌打ちをした。品のない行動だが、反応をしめしてくれたことには違いない。


「互いの事情に触れないという暗黙の了解が、我と貴様の間にはあったと思っていたのだがな。どうやら勘違いであったようだ」


 ようやく横へと動いた大岩から出てきたのは、皮肉に満ちた笑みだった。


「勘違いじゃないさ。少なくとも、オレはそのつもりだった」


 由紀はフェンリルとしてのシロについて一切を探ろうとしなかった。


 それは過去のことでシロとの接し方を変えるつもりはない、という意思表示でもあったが、大部分を占める理由はシロこそ由紀の過去を尋ねてこなかったからだ。

アパートでも寮でもない。庭付きの立派で広い一軒家を建てたであろう両親が、いつまで経っても帰ってこないという違和感をシロが避けてくれていたからだ。


「だが、事情が変われば、対応も変わる」

「人間らしい手のひらの返し方だな。その都度で言い分が真逆になる」


 鼻を鳴らし、悪意に瞳を染めながら毒を吐くシロに、由紀がぽつりと呟いた。


「二度だ」


 狼の耳がぴくりと動く。


「オレは二度、お前の首筋に刃物が当てられた姿を見た」


 背筋が凍るほどに冷たい鋼の光が、脳内にフラッシュバックする。

薄く流れていたシロの血も、殺意を灯した水無月の瞳も、ぼやけることなく鮮明に覚えている。友人同士が殺し合う一歩手前の光景を忘れられるはずがない。


「できることならば、三度目は見たくない」


 本当ならば時間をかけて、ゆっくりと互いを知っていければと思っていた。

年月を重ね、シロに認められ、許しを得てから心の内へと入っていきたかった。


 だが、事態がそれを認めてくれない。

 三度目が起きたとき、また由紀が止められるかはわからない。


 シロを守るためにも彼女が何を持って水無月に噛みついたのか。理解してケアする必要性が絶対にある。暗黙の了解を破り捨てても、踏み込まなければならない時が今にある。


「……いらぬ心配だ」


 苦虫を潰したような表情で、小さく唸るシロを見つめる。不作法を働くワケがどこにあるのか、正しく受け取ってくれることを信じて祈る。


「人間の貴様に、語る言葉などない」

「それでも教えてくれ」

「愚かな貴様に、触れられる謂れもない」

「それでも側に居させてくれ」

「……っ、いい加減にしろ」


 突き放されても離さない。振り解かれないように食らいつく。それがシロの嫌がることだとわかっていても、引き下がるつもりはなかった。シロの味方は唯一、自分だけなのだ。


 お節介なヤツだと、我が儘なガキだなと自分で苦笑してしまう。

 それでも伸ばす手をひっこめられない自分は、シロの言う通り愚か者なのだろう。


「シロ」


 もう言葉が浮かばない。思ったことは全て曝け出した。後は目の前で苦しそうに怒気を発する狼が、どう行動するかを待つだけだ。


 拒絶されれば関係の修復は望めないだろう。今後一切、口を開いてくれないかもしれない。最悪、人質を別の相手に再設定し直す可能性もある。


「……昔のことだ」


 だからこうして折れてくれたのは、まだ期待されている部分があるからだと思いたい。


「昔、我に付き合ってくれた物好きな小娘がいた」


 険しい表情がふと和らぎ、眩しい何かを見つめるように目を細める。


「気まぐれで一度、山に迷い込んできたのを助けたのが始まりだった。それでどうも懐かれてしまってな。度々縄張りに現れては、ちょろちょろと我の姿を探しに来た。これ以上構うなと一喝しても、喋れる狼なんて凄いと、逆に喜ぶような戯けで……我にとって」


 言いよどみ、瞳が迷いで揺らぐ。机の上に載せていた手をきゅうっと握りしめ、強く短くシロは言い切る。


「――かけがえのない友であった」


 プライド高い狼が認める友の存在には、心当たりがあった。

 きっと寝ぼけていた時に呟いたあの名前の持ち主なのであろう。


 そして、気づく。シロのセリフが過去形であることに。


「そいつは頭が悪くてな。人の言葉を操り、普通よりも何倍も大きい狼と関わっている自分が、周りにどう映るか理解していなかった。忠告したのに聞いてくれなかった」

「……亡くなった、のか?」


 由紀の問いかけに、自嘲に満ちた薄暗い笑い声を上げながら、シロが肩を揺ら

す。


「何せ化け物狼を手懐けた娘らしいからな。徹底的に嬲って炎で清めなければ、不浄は払えぬと判断したのだろう。目もなければ鼻もない、手もなければ足もない。人間の死に方ではなかったな、アレは。おかげで死体を前にしても本人であると認識が遅れたほどだ」


 言われて、想像して、背筋に走る寒さにぞっとする。あるはずのない血の匂いが教室に満ち溢れる錯覚に襲われる中で、気合を振り絞り由紀はシロの話を整理し続ける。


「やったのは黎明だ」


 そしてシロは決定的な要因を示した。


 全てが繋がる。それならばシロは黎明を受け入れられない。唯一の友を死に追いやった黎明機関を許せるはずがない。


「奴らは常識を守るため、関わった全てを排除する。……特に時代が魔女狩りの全盛期だったのもあってか、それはもう徹底した化け物狩りだったさ」


 一つ、呼吸をシロは挟む。


「現代の黎明はそういった過激派を粛清した上に立つ。あの小娘の行動が全てだ。常識ではなく、人の為を最優先に動く優良な集団に変化したと言い切れるだろう」

「だが、認めない」

「然り」


 狼は哂う。


「過去の罪は消えない」

「然り」

「お前はまだ、忘れられないんだな」

「然り」


 これだと、直感で理解した。

 シロの中核は、シロという人物像が今の形になったのは、この出来事が起源だ。


「リズィを手に賭けた者共は皆殺しにしたが、それでも足りぬ。この怨念は消えぬ」


 シロは口の端を吊り上げる。復讐の炎が瞳の中で燃えている。


 屋上での水無月の言葉が蘇る。シロの手は汚れている。この小さな掌は赤く濡れていると本人は語られたが、彼女に対して恐れも嫌悪も由紀の中には生まれなかった。


 いくら敵討ちといえど結果だけを見れば、裁かれるべき行いだろう。

 人を殺したのだ。その一点はどう取り繕っても拭いようのない罪として残る。それも一人や二人だけではないはずだ。そのときだけで終わったとも言い切れないはずだ。水無月が警戒するのも、排除を優先しようとする気持ちもわかる。


 それでも由紀はシロの肩を持ちたいと思った。彼女の怒りは純粋だ。曇りなき親友への心が変化した義憤だ。同じ立場ならきっと、自分もそうしただろう。


 正しいとは言えない。しかし、それを悪だと断言することもできない。


「もっとも、今となってはあのときの関係者はもういない。積極的に黎明を潰す理由もないわけだが……慣れ合う道理もない。差し出す手は払う、襲い掛かるなら迎え撃つ」


 例え時間が過ぎても理論ではなく、感情が忘れられないとシロは吐き捨てる。


 説得するのは無理であることが、よくわかったがこちらも引けない。十ができないのであれば五、三や二でもいい。このままのシロでは、水無月との殺し合いになる。


「心境はわかったが、それでも水無月とはある程度、関係を築くべきじゃないのか? お前の命運はあっちの手の中にあるんだ。屈するんじゃない、平行線を保つんだ」

「断じて否だ」


 即答に驚きはしなかった。シロならそう答えるだろうと思っていた。


 水無月が黎明機関に所属する以上、リズィを殺した者達と同じだとシロは位置づけしてしまう。曲げることはできない重要な部分に、奥歯を強く噛んだ。


「奴に対しての言動を撤回する気は毛頭ない。貴様ともこれ以上、問答を重ねる義理もない。時間の浪費は悪だ。……用意したものはそれまでか?」


 投げかける形だが、口調こそ命令系だ。反論は許さないと声音に滲ませ、場を締める一言はまだかと魔狼が言外に問い詰める。放つ眼光の鋭さ、取る態度の苛烈さ。全身から殺意に近しい威圧感を吹き出しながら、由紀を押さえつけようとする中で。


「それはこっちの言葉だ。用意した御託はそれで終わりか」


 由紀がふと、憐みに目を伏せた。


「何……?」


 シロの低い声に肝が震える。幼い少女の容姿とはかけ離れた恐ろしさに肌が泡立つ。


 暗闇が支配する森の中で迷ったら、きっとこんな感じなのだろう。降りかかるモノの正体が見えなくとも、それが我が身に危機をもたらす『何か』ということだけはわかる。


 この先に進むことが、怖くないと言えば嘘になる。誰でもきっと恐怖を覚えるはずだ。シロが水無月に喧嘩を売ることも、由紀がシロの内心へと土足で踏み込むことも、どちらも等しく自殺行為なのは明白であると、わかりながらも止まれない。


 瞼を閉じれば、首筋に剣を突きたてられたシロの姿が浮かぶ。


 父も、母も、車体とシートの間に潰されて目の前で事切れた。

 誰かが目の前でいなくなる光景は、もう嫌だ。


「お前は友達を殺した黎明機関が憎くて、水無月を否定する。そうだな?」

「……その通りだ」

「なら何故、オレという人質なんて作ったんだ」


 ぴくりと、狼の耳が揺れるのを由紀は見逃さなかった。


「あまりに不安定要素が強過ぎる。人質が機能しなかった場合、お前の手元に残るのは弱体化した事実と、オレごと殺そうとする敵の構図だ。綱渡りをするにしても、安全確認くらいはするだろう。あまりにも出たとこ勝負過ぎる」


 策が通る保障はない。斬り捨てられる可能性のほうが高いかもしれない。


 黎明に友人を殺されたシロが、自分まで殺されるなんて屈辱に耐えられるはずがないのだ。博打を張れる部分ではない。実際に水無月に対して、外してしまっている。


「人質が失敗したら即、心臓を回収すれば力は戻る。そうなれば例え、水無月の小娘が万全の状態であろうとも撃退は可能だ。貴様が知らないだけで、対処する方法はあったのだ」

「なら、どうして」


 言葉尻を強調して傷口を抉る。


「あのとき、水無月の繰り出した騎士に斬られそうになったとき、あんな顔でオレを見た」


 語ることが真実であるとするならば、塵を見るような目でこの胸に収まる心臓を即座に引き抜いて迎撃したはずだ。戸惑い、固まっていた者の言える御託ではない。


「……あのときは、見極めていたのだ。アレが我を試しているのではないかと。卑劣な策を実行する矮小な狼でないかと、計られて」

「苦しい言い訳だな」

「言い訳ではない、事実だ。それにあのままでも我は場を制せれた。如何に魔力が弱まろうとも、小娘の木偶に遅れなど取らぬ。断じてだ」

「心臓を回収すれば楽に、確実に出来たはずなのに、そのままで対応する気だったのか?」


 しつこい上げ足取りにいい加減、堪忍袋の緒が切れたのだろう。


「付け上がるなよ――ニンゲン風情が」


 シロの拳が机に叩きつけられる。反射的に目を瞑りたくなるような鈍い打撃音が耳を突き、怒りに染まった深紅の瞳が由紀を睨んで射抜く。


「誰を目の前にしているのか、どうやら忘れているようだ。でなければそのような舐めきった口を叩けるはずがない」


 幼い容姿、無垢な瞳、その全てを塗り替えるほどの激しい敵意に冷や汗が流れる。


 忘れていない。相手は命の恩人で、この身に埋まる心臓の正統な持ち主で、水無月と同じく超常を操れる狼だ。言葉だけの脅しではない。その気になれば簡単に殺せるだろう。


 それでも尚、引かない。


 力を用いて相手に要求を飲ませればいいという発想は、唾棄すべき下衆の考えだと語り、示してきたシロを由紀は信じる。


 信じるからこそ、力をちらつかせてまでも黙らせたいこの先の何かを求める。


「……あの家に」


 シロのおかしい部分を指摘して、本音を引き出す予定だった。それも悪くない手段だろうが、自分が行えるかと言えば難しい。不器用である自覚はあるし、現に失敗して怒らせてしまっている。このやり方では辿り着くことはできないだろう。


 小細工はやめよう。本音を引き出すのは、本音しかない。


「あの家は、長い間……オレ一人だったんだ」


 思い出すのは誰ともすれ違わない大きな家。朝起きて無音のキッチン。帰ってきたときに明かりのついていないリビング。母の趣味で作られた花壇は雑草だらけで、父が休日にホースで水をかけていた愛車は乗り手がいない今、もう車庫にはない。


 たったこれだけのことで心が衰弱していくのを、知っている人間は世の中のどれだけいるだろうか。


「辛かったし、寂しかった。親の代わりに面倒をみてくれてる人たちが、自分たちの家に呼んでくれたが、残してくれた両親の家から離れたくなくてな」


 八方ふさがりだと笑い、沈めていたモノを更に掘り返す。


「友達がいればまだ楽しくやれたんだろうが、生憎この目つきの悪さだ。高校に入って、幸助と出会うまでは冗談抜きで一日も喋らない日があったかもしれない」


 言葉という弾丸に感情という名の薬莢を詰めて、撃鉄を下ろす。


「更にあの家はなんというか。長年使っていたせいか、帰ってくるとお前は一人だ、お前は一人だって変な風に落ちていくんだよ。そうするともう堪らない。早く寝て心をリセットするしかない。――そんなオレのところに、お前は来てくれたんだ」


 初めて会ったとき、シロがシロだとわかったときに覚えた感情は嬉しさだ。

 この家の声に自分以外のモノが混じる事実に対する感動だ。


「都合のいい傀儡を得る為だ。貴様の為などでは、ない」


 目を逸らすシロに追撃するかのごとく、由紀は言葉を紡いでいく。


「だとしても、オレにとっては救いだった。その救いの主が今、苦しい立場にいる」


 自分から危機的な状況に落ちていこうとしていっている。


「見逃せるわけがないだろう」


 手を伸ばす。シロへと真っ直ぐ。平手を向けて。


「お前から見ればオレは頼りの無いと思う。けれど出来ることはきっとあるはずだ。手伝いがいるなら言ってくれ。話したいことがあるならぶつけてくれ。一人で抱え込もうとするな。シロ、オレは」


 お前を助けたいんだと、そう続くはずだったのに。

 差し出した手に走る甘い痺れが思考を揺さぶり、意識を切断する。


「シロ……?」


 その痺れの原因が手を弾かれたことであると、理解が追いついたときには遅かった。


「黙れ……」


 肩を震わせ、俯くシロがぽつりと漏らす。


「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ……っ。そうやって、我の中に入ってくるな……っ」


 声が重なり、教室を満たしていく度にシロの尻尾の毛が逆立っていく。感情の波を示していく。鬼気迫る危うげな雰囲気が空気を塗り替えていく中で、由紀は覚悟を決めた。


 この先、何が起きても全て自分の責任だ。


「シロ」


 名まえを呼びながら、その白い頭にそっと手を当てて撫でた。


「本当は寂しいんだろう?」


 それが最後のスイッチを押し込んだ。


「黙れえええええええええええええええええええええっっっ!!!」


 鼓膜を破らんとする魔狼の咆哮が放たれた瞬間、見えない力に殴られたかのように後ろへ由紀が吹っ飛んだ。


 体は黒板に叩きつけられ、チョークの粉を溜めるヘリ部分が背骨を打つ。息が止まるような痛みに意識が飛びかけるも、持続する責め苦に叩き起こされる。まるで重力が下ではなく横に働いているのか、張り付いて動かせない。


「吹けば飛ぶ軽い命しか持たない生き物の分際で、我に触れるな近づくなぁっ!!」

「ぐ、お……おぉ……っ!」


 肉が潰され、骨が軋む。弱まるどころか強くなっていく圧迫に呼吸もままならない。


「あのときもそうだ、リズィのときもそうだった! そうやって触れて消えていった! 我を置いていった! 貴様もそうだ、貴様も置いていく! 目の前からいなくなる!!」


 でも、一番に痛そうなのは、傷つき泣きそうなのは。


「人間など嫌いだ! リズィを奪う人間など 我を寂しくさせる人間など大嫌いだっ!!」


 リズィという友達が消えてしまって、それがトラウマになって、誰かに触れられたいと願いながらも、いなくなるその瞬間を想像して、でも一人でいるのは限界で。


「シ、ロ……ッ」


 右手に渾身の力を込め、負荷に抗いシロへと伸ばそうとするも上手くいかない。髪を振り乱しながら泣きじゃくる小さな女の子の涙を拭うことができない。側に近寄り抱き締めて慰めることもできない。


 ならばせめて、せめて言葉だけでもと口を開く。


「怖かっ……たんだな……お前は……っ」

「――――ッッッ!!」


 圧力が消え、解放された体が床へと落ちていく寸前で教卓に捕まり、転倒を防ぐ。


 痛みを堪えながら、下へと折れていきそうな首を立ち上げた。自分のことなんてどうでもいい。古傷を抉られた彼女の方がもっと傷つき、痛んでいる。


「うううっ、ううううううう……ああぁぁぁ……っ!」


 シロはぐちゃぐちゃだった。怒っているようで、悲しんでいるようで、泣いているようで、様々な感情が暴走しているのが目に見えてわかる。椅子から立ち上がり、唸り声を上げながら由紀を食い入るように見つめる瞳には、敵意も好意も入り乱れて定まっていない。


 コートの裾を握りしめながら、震える少女に宣言する。


「……オレは、お前を一人にしない」


 保証はない。けれど決意はある。


「友達になろう、シロ」


 離れ離れにならない約束。二人でいる誓い。


 一度失い、恐怖に囚われたシロにとっては呪いの言葉でしかないだろう。現に彼女から冷静さを失わせた原因なのだ。こんなことを言われれば、苦しいに決まっている。


 しかし、だけど、それでもと、ハッピーエンドを諦められない。

 思い描く最上の未来に続く道を目指さずにはいられなかった。


「……貴様など」


 涙で枯れた喉からひび割れた声が出る。


「こんな気持ちにさせる貴様など、嫌いだ……大嫌いだっ!!」


 強く言い切ったと同時に、シロの体が周囲の風景に溶けていく。輪郭から滲み、その範囲が徐々に広がっていき、姿を消していく。


「シロ……ぐぅ……っ」


 一歩踏み出そうとして、軋む痛みに足が止まる。その僅かな時間の中でシロは完全に消えてしまっていた。教室を見渡しても、あの白い髪の少女はどこにもいない。


 恐らくは隠蔽の魔法を使っての現象だろう。由紀自身は普通の人間だ。出力を強めたか、もしくは別の何かだろうか。ともあれ、この場から消えても去ってはいない。


 そう言い切れるのは一重に自身の見に宿る心臓のおかげだった。持ち主との間にパイプが存在しているからか、理屈ではなく直感として側にいるのがわかる。第一、本当にどこかへと行ってしまっていたら、由紀はこうして生きてなどいない。


 伝わらなかったことへの虚無感と、残った結果が鳩尾を殴りつけてくる中で口を開く。


「待ってるからな」


 見えているはずだ。聞こえているはずだ。


「気が向いたら、罵りにでも来い。何であろうと受け止めてやる」


 回復してきた四肢の具合を確認し、背中の埃を払ってから由紀は教室を出た。

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