「やけにそこの子犬さんが静かなのですが、何かあったのですか?」


 普段よりも数十分早めの到着。それよりも早くについて待っていてくれていた水無月と合流し、三人は人気のない校舎隅を密会の場所として使用していた。校庭から聞こえてくる朝練の掛け声。歩いて温まった体だと、冷たい空気も心地がいい。


 朝の一件で茹でタコになったシロの頭も冷めてくれるといいのだが、現実はそう簡単にいかないらしい。腕を組み、ふくれっ面で黙りこくる姿に、水無月が戸惑う。


「放っておいてやってくれ。多分それが一番の解決策だ」

「そうなのですか?」


 尋ねるとシロが『がうっ』と鋭く吠える。部屋で別れ、そして再開してからずっとこの調子だ。返事もしたくないくらいに拗ねきってしまっている。下手に諭したりすると、余計にプライドを傷つけかねないので、時間に任せてしまうのが一番だろう。


「こんなわけだから、出来るだけ神経を逆撫でないでほしい。犬呼ばわりとか、本人結構気にしてるみたいなんだ。控えてくれると助かる」

「先輩の頼みであれば、従うのもやぶさかではありませんが……」


 言いながら視線をがうがうと吠え、鼻を不機嫌そうに鳴らすシロを見る。


「がうがうっ」


 何を見ているのだと言わんばかりに吠えるシロの姿に、水無月が力の抜けた声を上げる。


「とてもじゃないですが狼には見えませんよ、コレ」

「………………でもほら、事実としては、犬じゃなくて狼なわけだし」


 子犬が飼い主に苛められてヘソ曲げている態度にしか見えないよなと、同意したくなる気持ちを全身全霊で押さえつけて、由紀はシロの味方に付く。そうなると水無月も強く返せないようで、釈然としない様子ではあるものの、首を縦に振ってくれた。


 これでひとまずはシロに対する犬呼びも減りはするだろう。喧嘩のタネが一つ減ったことに良しと由紀が頷き、空気を入れ替えるためにわざとらしい咳払いを挟む。


「まずはこっちの意図を汲んで、先に下駄箱で待っていてくれた水無月に感謝を伝えたい」


 早くに登校した由紀達よりも先に水無月は二年の下駄箱にいた。どう考えても由紀から話しがあると見通しての行動である。本来ならば礼儀としてこちらから出迎えるべきなのだが、これではあべこべである。また返すモノが増えてしまった。


「それで聞かせてくれないか。水無月は知っているんだろう、オレの敵について」


 昨夜、現れた謎の生物とも呼べない何か。

 意識のある状態で、初めて遭遇した敵。


 即座にシロが潰したものの、あれで事が終わりであるはずがない。もしそうなら呆気なさ過ぎる。後ろに本命が潜んでいるに違いないはずだ。ならばその規模はどれほどか、対処の方法はあるのか。由紀は水無月に問いかける。


「シロさんは何か言っていましたか?」

「餅は餅屋に。大筋の対応策は専門家に任せればいい、とだけ」


 本文はもっと皮肉と嫌味がたっぷりと効いていたため、重要な部分だけ抜粋して伝える。


「積極的な協力はしない。ですが自衛はする。この解釈で合っていますか?」

「がうがうっ」

「そろそろ人の言葉で喋れ」


 気持ちはわからないでもないが、その調子のままだと話が進まない。

 最後に鼻をふんっ、と鳴らせてから、そっぽを向いたまま小さく答える。


「そこの人間が死ねば我も共倒れだからな。降りかかる火の粉を払うのは当然だ」

「そしていざとなったら先輩を見捨てて、心臓だけ回収して逃げる、と?」


 水無月の責めるような、いや、実際に責めることで本心を探っているのだろう。不干渉であると了承しあっても、それは手を出せないだけで敵であることに変わりない。昨日の服選びにしても、頼んできた由紀の要望に応えるためであって、シロのためではないのだ。


 敵に対しては徹底的に油断せず、警戒する。


「貴様の頑張り次第だな。精々上手く守ってもらおうか、正義の味方殿?」


 直接な同意でも拒否でもなく、歪曲な言葉で答えを濁すシロを水無月は睨む。


「……魔狼め」

「褒め言葉をありがとう」


 二者の間で火花が散る。由紀は物騒な会話しかできないのかとため息をつく。喧嘩するほど仲がいいとは言うけれど、今にも命のやり取りに発展するレベルの殴り合いを始めそうな二人には適応外だろうと、首を振った。


「水無月、すまないが本題の方を頼む。自分事で焦らせるなんてアレだが、そろそろ生徒がくる時間になりそうだ」

「了解しました」


 水無月がぱちんと指を鳴らす。いくつもの光が集まり変化して、立体的な映像を作り上げる。さも当然の如く現れたホログラフに驚いてから、映し出されたものが予想していたものと大きくかけ離れていたことに、由紀は声を上げた。


「本……?」


 敵と言うからには人であるはずなのだが、どこからどうみても本である。分厚く大きな黒い表紙のハードカバー。表紙には血のような赤で見たこともない文字が刻まれている。読み取ることはできないが、恐らくはこれが書名なのだろう。


「『囁き語り掛けるモノ』……これが昨夜、先輩に探りを入れてきた正体です」

「……まだ生き残りがあったのだな」


 呟くシロと、神妙な面持ちの水無月だが、話が見えてこない由紀はただ首を捻る。


「すまない。その、『囁き語り掛けるモノ』だったか? それが敵で、しかも生き残りってどういうことか教えてくれ。これはただの本じゃないのか?」

「はい。これはまともな本ではありません。所持者に魔術の恩恵を授ける反面、精神へと根を伸ばし、心を蝕むように作られた意思ある悪趣味な魔導書です」

「簡潔に述べれば知識のない素人でも魔術が使えるようになる代わりに、人間としての尊厳が失われる。そういった人の苦しむ様を見たいと考えた屑が作り、ばらまいた最悪のシロモノだ。大部分は回収、抹消されたと聞いたが……よもやこの地にあろうとは」


 水無月とシロの短く的確な説明を飲み込もうとして、あまりの非常識さに喉が詰まる。本が人に、それも形のない精神に寄生するなんて信じられるはずがない。現実味がなさ過ぎる。魔術を知り、シロの獣の耳と尻尾を見ても尚、実感が沸いてこない。


 だが、嘘やデタラメでないことは二人の目でわかる。


 ありえないと否定を掲げる感情を理性で落ち着かせてから、ゆっくりと水無月の説明を咀嚼して、今度こそ飲み込んでから由紀は次のセリフを口にした。


「オレを襲った奴は、その本に意識を乗っ取られたヤツというわけか」

「数日前、この地域に保管されていた『書』が覚醒、黎明機関の一人に所有され、外に持ち出されてしまいました。血が流れる前に発覚、対処を行ったのですが、書の確保には失敗。以後、行方不明となっています」

「あの使い魔は『書』の扱う魔術の一つだ。外に出た時期から見ても恐らくコレで違いないはずだ。余所から阿呆が流れ着いての凶行、という線はないのであろう?」


 水無月が頷き、シロが言葉を続けた。 


「となると、だ。貴様ら黎明が『書』の保管も、その後の対応もしくじった結果が今というわけだ」


 シロの指摘に水無月が固まってから数秒後、歯切れ悪く喋り出す。


「……取り憑いた人物の腕を媒体として体を作り、現場から消えた、と対応した構成員から報告を受けています。予想外の逃げ方ですが、言い訳にもなりませんね」


 腕一本を使ってのグロテスクな逃走方法も気になるがつまり、その結果が。


「宗方先輩。私はあの屋上で貴方とお会いしたとき、初めに謝らなければなりませんでした。本当にごめんなさい。我々が至らないばかりに、先輩の人生を狂わせて……」

「いらない」


 頭を垂れようとする水無月を手と言葉で静止させる。


「ごめんなさいだけで十分だ。それ以降はいらない。なくていい」


 申し訳なさに目じりを下げる水無月にやれやれと由紀は優しく笑む。他人の痛みを想像して理解できる優しさに、暖かな感情が沸き上がる。


「本当にいいんだ。必要以上に畏まられるのも、辛気臭い空気も苦手なんだ。それに黎明機関であって水無月のミスでこうなったわけじゃないんだろう?」

「そうなのですが……」


 過度な装飾は返って鼻につくし、本人が気にしていないことに気苦労されると、逆に苦しくなる。我ながら雑な人間であると、伸ばしていた手を由紀は戻すのと同時に、シロが実に不愉快だと鼻を鳴らして水無月からそっぽを向く。


「ふんっ、わかっていた結果だが面白くない。ああ、面白くないっ」

「……私は面白いですよ、貴方だけが知っていた先輩の一面を見ることができて」

「それも含めて面白くないと言っているのだ。にやけよって、腹が立つ」


 空中で飛び交う透明な意思の疎通。よくわからないが、水無月の顔が明るくなったからよしとすることにして、由紀は話の続きを待つことにした。


「こほん。改めますね。敵の正体は本に寄生された人間であることは間違いありません。そこで質問ですが、恨みや嫉みを向けてくるような相手に心当たりはありませんか?」


 言われて、口の中が渋くなる。


「めちゃくちゃある」

「へ?」


 水無月の顔が愉快な絵面になった。


「人に好かれるタチではないからな。見ているだけなのに睨まれたとか、ちょっとぶつかったりしただけで泣いて謝られるとか、結構ある。怖がられているだけで、恨まれているわけじゃないかもしれないが、大多数から良く思われていないのは間違いない。敵の目星を絞り込むとなると、少々難しいな」


 友好的な関係作りが上手くいかないと後輩に暴露するのは、先輩として恥ずかしい限りだ。その相手が学校の人気者である妖精ならば尚更である。例えるなら清水と泥水、宝石と石ころ、バラと雑草。よくもこれほど住む世界の違う人間と面識を持てたものだ。


 神がいるなら聞いて欲しい。この山のようにある感謝の言葉を。


「……ともかく、心当たりがあり過ぎてわからないということですね」


 となると困りましたと、水無月は口元に手を当てて考え込む。


「『囁き語り掛けるモノ』は人を我が儘にさせるのだ」


 代わりにシロが由紀の中にあった空白部分を埋めるべく、話し始める。


「人間、答えなくていい。口に出さなくていい、率直に思え。もし貴様が空腹に苛まれているときに、食い物を持った別の人間がいたらどうする?」


 奪おうとする。奪って、飢餓を満たそうとする。


「殺したいほど憎い相手が目の前にいる。貴様の手にはナイフがある。どうする?」


 刺して、痛めつけた上で、命を潰す。


「――我が儘になるということは、そういうことだ」


 前置きの理由がわかった。こんな汚い考え、人として口にしたくはない。

だからこそ『囁き語り掛けるモノ』の悪趣味さが強く実感できた。


「倫理観の鍵が外れる。理性と尊厳で抑制されて然るべき欲が解放される。結果、この書に犯された人間は揃って猟奇的な殺人に走る」


 淡々と、感情を押し殺して情報だけをシロは並べる。


「引きはがすこと自体は簡単だが、寄生されていた間の記憶が残るからタチが悪い。なまじ書から救出できたとしても、大抵は汚れた手から香る血の匂いに手首を切る」


 どれだけ清い人間でも欲はある。それは恥ずるべきことでもない。心というものがある以上、決してゼロにはできない要素だ。誰もが抑制しながら生活することで社会が回り、秩序が保たれる。それを『囁き語り掛けるモノ』は破壊する。闇の中から手を伸ばし、正しい道を歩く人の足を掴んで引きずり込む。


 冒涜以外の何物でもない。唾棄すべき存在。


「水無月、その書が出した被害はまだオレだけか?」

「最初に寄生された方を除けば、いまのところは」


 二つ名持ちの魔術師が肯定してくれたのならば、間違いないだろう。


「ならこれ以上、被害が広がる前にケリをつけたいところだな」


 自分の意思で外道となったのではないのなら、敵もまた書による被害者だ。

 二人、三人と罪を重ねる前に何とかして助けたい。


「幸いなことに原書は既に機関が封印している。今、世を出回っているのはそれのレプリカだ。我が儘の呪いはそのままだが、魔術の恩恵は各段に落ちる。鎧騎士の数が減った小娘や、力の落ちた我でも対応は可能だろう」


 戦力としての問題はないと魔狼は牙を剥き、闘争心に尾を立てる。自分の問題を他人に丸投げするしかない悔しさ反面、頼もしさ反面。こればかりは仕方のないことなのだが、わかっていても歯痒いものである。


「今後の方針ですが、危険を感じたらすぐに私へ連絡をしてください。敵は先輩の近くにいる確率が非常に高いです」

「根拠は」

「先輩を一度殺害したのが一昨日の夜、そして再度接触してきたのが昨日の夜」

「その間にオレは、オレを殺したやつに生きている姿を見られている」


 でなければもう一度、仕掛けようなどとは思いつかないはずだ。


 そうすると相手は比較的狭い範囲に限られる。一昨日の夜から昨日の夜に行動した場所。即ち学校か、デパートの中に敵は存在する。


 もちろん、移動の際の道中で生存していることを目視された可能性も切れないが、学園もデパートも駅前だけあって非常に混雑している。その人ごみの中から人間一人を見分けるのは、意識して目を凝らさなければ無理な作業のはずだ。


 殺した相手を探す、なんて相手の間抜けな行動はできれば考慮したくない。


「昨夜の探りを考えればシロさんは当然、私の存在も感知されているかもしれません。不意打ちに備えるべく、出来る限り先輩に私のブレイズを――機械人形の名前です。護衛につかせますが、それでもやはり連絡を取り合う必要が出てくると思います」


 そこでと、一旦言葉を区切り、水無月はぎこちない動作でポケットに手を入れる。


「ば、ばんごうを……」


 抜いて出された手に握っていたのは、ピンク色のスマフォだった。


「……そうか、番号交換」


 していなかったどころか、するという発想すら出てこなかったことに自分で自分に驚愕した。一年半も連絡先の交換をしていなかったから、忘れていたのだ。


 既に亡き両親と、園部夫妻。そして幸助だけしか入っていなかった電話帳の登録件数が増える。友人知人の少ない宗方由紀に取ってこれほどの感動はない。取り出した携帯を持つ手が歓喜に震え、甘い切なさに胸が満たされる。


「あ、ガラケーなのですね。赤外線は……できましたっけ?」

「わからないから、一度かけて着信を残してくれないか。番号はこれだ」


 素早く自分の番号を小さな液晶画面に表示し、水無月に見せる。高校デビューのとき、友達ができたらまずこれだろうと思って練習と想像を重ねただけに、スムーズな動作と切り替えしができた。実った努力の嬉しさが余計に手の震えを増幅させる。


「あ、あの……先輩? 凄いぷるぷるしているのですが、寒いのですか?」

「大丈夫。心暖かいから。大丈夫」


 静まれと左手で右手の振動を止めるべく掴むことで制御する。


「今度は顔がその、強張っているのですが……?」

「大丈夫。心暖かいから。大丈夫」


 絶対大丈夫じゃない人の発言だった。それを気にしながらも深くは触れず、写された番号の数字をタッチする水無月は本当にいい後輩だと思う。


 鳴ってからすぐに消えた着信音の後、キーを操作して履歴を表示。一番上に並ぶ水無月の番号をすぐさま登録することで生まれる幸福感に、胸の鼓動が高鳴る。


「これで完了ですね。昨日みたいな小さなことでも構いません。何かがあれば日夜問わず、私に連絡してください」

「隅から隅まで悪いな、本当に助かる」


 任せきりで後輩に頭が上がらないと、由紀は苦笑する。


「いえ、迷惑をかけてください。遠慮をしないで頼ってください」


 背筋を伸ばし、にこやかな笑みの中に真剣さを持ってして水無月は宣言した。


「私は境界の守護者です。魔術による常識への侵略に対して剣を振い、敵を払う魔術師です。この力は誰かの人のために役立てること、それを最上の目的として修練してきました」


 手を肩に当て、己が何者であるかと語る姿は魔術師というよりも騎士である。


「どうかお役に立ててください。貴方が平和の中にいること、それこそが私の願いです」

「……まるで舞台劇のワンシーンだ」


 芝居がかったセリフに対する感想を呟くと、水無月は冗談っぽく言った。


「私だって恰好をつけるときくらいありますよ?」

「違いない」


 頼もしい味方だと、思わず頬が緩くなる。水無月がいれば安心だと、諸手を上げて寄りかかるわけにはいかないが、少なくとも四六時中神経を尖らせる必要はなさそうだ。


 妖精を改め、天使と呼ぶのもいいかもしれない。などと思っているときだった。


「それでは今後のことは私に任せ、先輩はいつも通りの生活を――」


 話すことは全て終えたと、水無月が解散へ話の方向を向けようとした最中だった。


「とんだ茶番だ」


 ぼそりと、悪意に塗れたシロの呟きが和やかな空気にヒビを入れた。


「シロ……?」


 苛立ちに吊り上る目尻の理由がわからず、戸惑いから由紀が呼びかけるも反応はない。水無月から視線を逸らさず、じっと睨みつける赤い瞳は酷く険しい。


「ベタ過ぎる。捻りがない。工夫もなければ仕掛けもない。茶番も茶番、大茶番だ」


 声量こそ小さなものなのに、一字一句耳に残って離れない。怒りに満ちた声音が廊下に響き、彼女が今、内包している怒りを事細かに伝えてくる。


 そう、怒りだ。

 理由は掴めない。だがしかし、シロは怒りに両拳を固めていた。


「今のどこが茶番だと、シロさんはおっしゃるのでしょうか?」


 突然の様子に戸惑う由紀だが、水無月もそれは同じなのか。微かに声が上ずっている。


 弱体化したとはいえども、相手は魔狼フェンリルと呼ばれる存在だ。その凄さを想像でしか知らない由紀よりも、実際に対峙したことのある水無月のほうが、感じる圧力は数倍上になるのだろう。それでも自身の信念に横槍をつけられては黙っているわけにもいかないと対峙する姿勢は、彼女らしい真っ直ぐさと清浄さがある。


「全てだ、詐欺師」


 その心をシロが汚泥の中へと沈めていく。


「魔狼の心臓はそれ自体が魔力の塊であり、生成機関だ。魔力の保有量がそのまま行使できる魔術の規模と質に繋がる魔術師にとって、さぞかし魅力的なのだろうな」

「……私には、貴方が何を言っているかわかりません」


 真意が掴めずにいる水無月をシロが鼻で笑った。


「人間は他人を騙すことを至上とする愚かな生き物だ。善意という名の釣り餌を、悪意という針に仕掛けて利益を吊り上げる。そこの間抜けな人間に甘い言葉をかけるのは、近くで見極めるためなのであろう?」


 背中を預けていた壁から身を離し、怒りを皮肉へ変えて、ゆったりとした足取りでシロが水無月に近づく。そして呼吸に胸が上下するのがわかるほどの近さの中で囁いた。


「背後から心臓を引きずり出す機会を……なあ?」


 風の斬られる声を聞いた。


 高速で呼び出したのか、或いは魔術的な隠蔽を施して近くに待機させていたのを出したのか。刹那に水無月の鎧人形がシロの背後へ現れ、振われた剣が細い首筋を裂く手前でぴたりと止まる。あと少し力を込めれば胴体と頭部が別れただろう。


 そんな命を握られた状況だというのに、シロの表情はまったく変わらなかった。依然として人を嘲る皮肉な笑みを浮かべている。


「図星を突かれて逆上したか。感情の制御は魔術の基礎だぞ、二つ名持ち」

「冤罪を被せられて穏やかでいれるほど、私の心は広くないもので」


 黎明機関の一員として、誰かを守る魔術師であることを誇りとして掲げる彼女にとって、己の善意を疑われることは最上級の侮辱以外に他ならない。水無月は更に自分の後方に二体の鎧人形を出現させ、剣の切っ先をシロの顔へと突きつけさせた。


 いつでも殺せる。その威嚇行為の前でもシロは肩を揺らす。


「なるほど。中々に熱の籠った演技ではないか。これなら誇りを傷つけられたと、我が語る言葉は真であると小僧に違和感なく主張できる。実にいい手だ。頭の巡りも悪くない」

「ふざけないでください、訂正を求めます。撤回しなさいフェンリル」

「お断りだ。お前こそいいのか? ここで我を殺せば、心臓も手に入らぬぞ?」

「……っ!」


 喉へ当てられている刃が極僅かに進む。薄皮が裂かれたのか、喉に一筋の赤い線が浮かんで滲む。誰が殺傷権利の保有者であるか、無言で語る水無月と、その様子がさも滑稽だと嘲るシロ。


 張り裂けそうな空気の中で、由紀だけが静かに考え込んでいた。


 和やかさから、どす黒さへ。空気の入れ替わりに順応できてないわけでもなく、目の前で冬の朝日を反射する西洋の剣の恐ろしさに固まっているわけでもない。


 シロらしくないのだ。


 彼女は激情家であるが反面、思慮深く賢い。これが由紀の検討違いであるとしても、言葉の意味と力の有り方について、自分なりの答えを出している者が愚者であるはずがないのだ。ならばこの問答のデメリットに気づいていないはずがない。


 はっきり言って現在、シロは水無月の温情があって生存を許されている状況である。いくら人質の存在があっても、一度暴れだせば『損害一』で済むはずがないのは、魔狼の名が雄弁に語っている。合理的に考えれば大の前に小を斬り捨てるのが機関として正しい対応なのだが、水無月は確証のないシロの言葉を信じて矛を収めてくれている。


 その水無月の神経を逆撫でるような言動は、自分で自分の首を絞める行為に等しい。


 媚を売れというわけではないが、少なくとも荒立ててはいけない相手ではある。

今までの口喧嘩は互いに加減を弁えていたからこそ、収まりを付けることができたが、コレは違う。相手を殴ることしか考えていない。


 線引きした向こう側にシロは自分の意思で踏み込んだのだ。

 水無月の反応も当然だろう。このままでは冗談抜きで屋上の続きがここで始まってしまう。それは何としてでも避けたい。知り合いの争いは見たくはない。


 本人たちが収まれないところまで達してしまっているのなら、その役目は自分がやるべきだ。シロに突きつけられる剣を手でどかして、二人の間に入り込む。


「そこまでだ。シロも水無月も冷静になれ」


 言ってすぐに、チャイムの鐘が校内に鳴り響く。どうやら随分と話し込んでいたようだ。時間の感覚が抜けていた。


「そろそろHRだ。言いたいことはまだあるだろうが、教室に戻らないわけにもいかないだろう?」

「ですが先輩、私は……っ」


 悪くないと言いたいのだろう。自分としてもそうであると頷きたいが、それではシロのほうが収まらない。場を終わらせるためにも飲み込んでくれと、視線で頼み込むと悔しそうに唇を噛みながら水無月は押し黙る。願っていた動きではあるが、だからこそ心苦しい。


「……また、何かのときに」


 それだけを言い残し、鎧人形を空に溶かすように消して水無月は去っていく。


「……」


 その背中が角を曲がって消えるまで、ずっとシロは無言で睨み続けていた。

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