3章 そしてヤツは動き出す

 生まれてこの方十数年ほど。まだ人生の折り返し地点すら見えない程度の年月なのだが、宗方由紀は本当にそうなってしまった場合も含め三度、命の危険にあったことがある。


 一度目は家族を向こう側に連れて行ってしまったあの交通事故。

 二度目は本当に死んでしまった二日前、家の庭で襲われたときのこと。

 三度目は昨日、改めて敵の存在が確認されたこと。


 一度目は幸いにも助かり、二度目と三度目はシロのおかげで無事を保つことができた。


 これらについては星の巡り会わせがよかったというか、運が強かったおかげとしか言えないだろう。色々なものがうまく作用していたからこそ、自分はこうして息を吸い、吐くことができている。


 だが今、現れた四度目は回避できるビジョンが浮かばない。死神の鎌とはこういうものなのだろうと、目の前で時折ぴくぴくと動く犬、ではなく狼の耳にそう思わせられる。


「……困った」


 突然の来客で寝床の準備もできておらず、かといって床で寝かせるわけにもいかないと、彼女には自分のベッドを譲ったのだ。本人も遠慮なく、むしろ己を敬う姿勢が大変よろしいと気分よく了承したことも覚えている。


 であるのにベッド横の床で寝ていた由紀の布団の中で、何故かシロが寝こけている。


 勝手に腕を枕代わりにし、胴体にしがみ付きながら幸せそうな寝顔を浮かべているシロの姿に脳内で警鐘が鳴る。深く息を吐いて冷静さを取り戻そうとするも焼け石に水だ。


 これを困ったと言わず、何というのだろうか。


 大方、一度起きた時に寝ぼけて横になる場所を間違えたか、寝相が悪くてベッドから転がり落ちてきたのだろう。何とも厄介なことをしでかしてくれる。状況的に見て、これはこちらに非はないのに誤解を招いてしまうパターンだ。


 下手に起こしてしまえば即刻怒りを露わに『人が寝ているのをいいことに何をしておるのだ、この破廉恥者のたわけ者が!!』と、叫び暴れるのは火を見るよりも明らかだ。


 かといって穏便に済ませるべく、こっそり布団から抜け出そうにも、由紀の服を掴むシロの手と、腕に乗る頭が障害として立ち塞がる。これを起こさず解くのはかなりの難易度だ。布をがっしりと噛み締める指に、思わず唸り声が漏れる。


「だがまあ、何もやらないで……というのもアレか」


 ドン・キホーテを連想しながら、空いている方の手でまずはシャツの握るシロの指を解こうと、人差し指からゆっくりと持ち上げる。無意識に握りしめているせいか、中々に硬い。かといって力に任せて開いてしまえば、指先の違和感に脳が反応して覚醒してしまうことは必須だろう。


 慎重、的確、冷静に。


 心の中でこの三点を唱えながら、人差し指を終えて中指、薬指へと開錠を進めていく。そして残り一本となった小指へと進んだ瞬間。


 がしり、と。

 それまで真っ直ぐになっていた他の指全てが、再び由紀のシャツを噛んだ。


「……」


 断りなくかかったリセットに、思わず舌打ちをしそうになったが、ぐっと堪えて再度挑戦を試みる。今度は何となく小指から取り掛かってみようと、同じ要領で指を外していく。一度やったおかげで力加減わかったので、最初よりもスムーズに行える。


 ――のだが、やはり最後の一本になった途端、勢いよく外れた指が戻ってしまう。


「この犬っころ……」


 本当は起きているのではないかと、じっとシロを睨むように見据えるのだが、表情はとても穏やかだ。意識があるとは考えられない。狸寝入りだとしたら、大した演技力だと手を打ちながら手加減なしで頭を叩いてやる場面だろう。


 めげそうになる心に落ち着けと促し、三度目のチャレンジをしてはみるが、今度は一本目の時点で即、その外したばかりの指が元に戻った。


 もうどうにでもしてくれ。


 視界の確保のために持ち上げていた頭を枕に沈ませ、由紀は無言でギブアップした。


 シロが目を覚まして面倒な展開になることなど知らない。そうなるなら勝手になればいいと、目の前の問題を彼方へと放り投げる。


 このまま乱暴に腕を引き抜き、指を剥ぎ取って起きて布団から抜け出してやろうかと、乱暴な考えが脳裏を過ぎる。今日は平日なのだ。いつまでも横になっていては学校へ行く準備もできない。時間の浪費を避けるという大義名分もある。


 そもそも潜りこんできたシロが悪いというのもあるわけで。起き抜けはがぁーっと吠えたてられても、正論の暴力で黙らせてしまえばいい。最初から困ることは何もない。


 枕にされた腕を引き抜くべく、力を込める。


「ん……うー……うぅん……」


 警戒心の欠片もない無防備な笑顔を浮かべ、甘えてくる子犬のように鼻を鳴らすシロに悪意が霧散した。今度こそ本当に降参だと、由紀は険の籠っていた目を手で解す。


 そんな幸せそうに寝ていたら、邪魔する気も失せてしまう。


「いい夢、見れてるんだろうな」


 現実世界の事情など露知らず、未だ夢の中から帰ってこないシロを見ながら、由紀はぼんやりと呟いた。警戒心が服を着ているような少女の見るいい夢とは、一体どんなものなのだろうか。起きたときに尋ねたら、教えてくれるだろうか。


 そうやってアレコレ詮無いことを考える時間は、中々楽しかった。

 この時間に浸れるなら、別に遅刻してもいいかなと思いかけたときだった。シロの瞼が二度、三度震えて、ゆっくりと上へ持ち上がっていく。


 どうやらシロも起きる様だ。はてさて、勘違いをして怒鳴り散らしてくる彼女を、如何にして説得しようかと、由紀は身構える。


「……うー?」

「おはよう、まず冷静になろう。全てはそこから始まる」


 寝ぼけ眼でシロは由紀をじーっと見つめる。低血圧なのだろうか、目の焦点があっていないところを見るに、まだ完全な覚醒には至っていないようだ。


 というか、魔狼に低血圧とかあるのだろうかと、下らないことを考えていると、ゆったりとした動作でシロが上半身を起こして、由紀の体の上へと倒れ込んできた。


「りずぃ……こんなところにいたのか……?」


 そしてそのまま頬を由紀の頬にぴたりと合わせ、じゃれつくように擦りつけながら、耳元で言葉を囁く。


「また、村で何かやらかしたのだろう……んふふ、どじなやつめ……今度はなにをしでかしたか、我に言ってみるといい……協力できることなら、手を貸してやろう……ん……?」


 シロは寝ぼけている。由紀を誰かと間違えながら、夢の中の続きを現実で行っていた。


 本来ならばすぐさま肩を掴んで揺さぶり、起きろと一括するところなのが、混乱してしまっている由紀にはそれができなかった。


『りずぃ』とシロは言っていた。日本の者ではないだろうが、恐らく人間の名前だろう。その相手に対し語り掛ける声音には、由紀の知っているシロとは思えないほどに、親愛さと優しさが満ち溢れている。


 水無月に噛みつき、由紀を人間と小馬鹿にするこの捻くれ物のシロが、そのようにして話す相手がいることに、驚きを隠すことができなかった。


「黙ってないで何か言え……我とりずぃの仲ではないか……隠し事をされては、悲しいぞ」


 首に手を回し、体全部を使ってシロは由紀を抱きしめる。尻尾がスエットの布越しに皮膚を撫で回し、獣耳が頬を擽る。


 許す限りその『りずぃ』とやらの皮を被って、過去のシロの姿を見たい気持ちはある。潜んでいた魔狼の姿を暴きたいと強く思う。けれど、こんな本人の望まない偶発的な形ではフェアじゃない。宗方由紀の主義に反する。


「りずぃ……なあ、りずぃ……我と、話を……あのときの、続きを……」


 はむはむと由紀の首筋を甘噛みしてきたことで、決心がついた。


「シロ、そろそろやめよう」


 由紀の名付けた今の名前を呼び、ポンポンと背中を叩く。

 既に浮上しかけていた意識にとって、それは十分過ぎる刺激だったのだろう。

 皮膚を揉むように食んでいた歯がぴたりと止まり、尻尾がぴんと天井へとそそり立つ。


 完全に起きたらしい。嵐の前の静けさと言わんばかりの無音に、爆ぜた時の被害を想像して憂鬱になるのだが、いつまで経ってもその時が訪れない。


「シロ……?」


 呼びかけても反応はなし。肩を掴み、ぐいっと持ち上げて引きはがして由紀は理解した。


「あうううう……う、ううぅあぁぁぁ……あぁー……っ!」


 尋常じゃないくらいにシロの顔は真っ赤だった。


 怒るどころの話ではないくらいに、羞恥心たっぷりなのだろう。目をぐるぐると回し、口からは言葉にならない掠れた声を垂れ流しながら、目だけは由紀を捉えて離さない。


「ち、ちが、いまのは、貴様にではなく、リズィに、あ、うそだ、全部、全部嘘で……っ」


 感情がオーバーフローしてしまったのだろう。ついには涙も流れ出してくるのだから、危険な状態だ。追い詰められれば何をしでかすか予想ができなくなるのは、狼も人も同じだろう。一度、間を取る必要性がある。


「シロ、まず頭を冷やそう。オレは部屋から出て……」

「夢なんだ、全部夢の出来事で、でも現実だと気づかなくて、まだ夢の中だと思っていて、でも本当は現実であってあのその、あっ、あうあう……っ!」

「無理話す必要はない。あとで聞くから、一旦……」

「いやだ弁解させろっ、このままじゃ我は恥ずかしくて、恥ずかしくて死んでしまうっ。貴様は我を死なせるのかっ? 死なせたいのかっ!? そうなのかっ!?」

「唾を飛ばすな」

「ぎゃふん」


 脳天に手刀を叩き込み、物理的なショックを用いて一時的に鎮静化を試みる。効果はあったようで、暴走して止まることを知らなかった口がぴたりと閉じた。

 ようやく会話のターンが回ってきたと、由紀は用意していた質問を投げかける。


「この二階の部屋から一階のキッチンくらいまで、離れても問題はないか?」


 心臓があるために遠くには離れられないが、この家くらいの範囲ならば大丈夫だ

ろうかとシロに打診すると、トマトのような顔でぶんぶんと勢いよく首肯した。


「ならオレは今から飯を作る。顔を洗ったりもするから、そこそこ時間がかかる」


 がちがちに固まったシロをひょいっと脇にどかして、一人由紀は立ち上がった。まだアラームが鳴る前の携帯を拾い、時刻を確認して脳内でスケジュールを作る。いつもより早くに目が覚めて行動できるから、手の込んだ朝食を作れそうだ。


「ゆっくりでいい。出来上がったら声をかけるから、そしたら降りてこい。いいな?」


 再び勢いよく首肯。頷きというよりも、ヘッドバンキングのソレに近い。


「それじゃあまた後で」

「待てっ」


 出て行こうとする背中に、鋭い声が投げかけられる。由紀が振り向くと、不安そうな顔でシロがおずおずと口を開いた。


「な、何か我は……その、変なことを言っては、いなかったか……っ?」

「変な発言はなかったが、変な行動はあったぞ。頬ずりとか、ここに甘噛みとか」


 と、髪をかき揚げて喉の横を見せると、シロが土下座をするように頭を床に打ち付けた。布団越しだというのに大きく鳴る鈍い音が、手加減なく本気で行ったことを証明する。


「馬鹿……我の馬鹿……っ。何故、そのようなことを……くぅっ!」

「やめろ。床が割れる」

「そこは我の心配をするところではないのか!?」

「ともかくクールダウンしろ。落ち着くんだ」

「~~~~~ッ!」


 これ以上は不毛な水の掛け合いであると話を打ち切り、シロを残して由紀は退出した。

 ドアの向こうからごろごろと何かの転がる音を聞きながら、甘噛みされた喉を撫でると、微かな湿り気を指先が拾う。シロの唾液が少し残っていたのだろう。


「……リズィ、か」


 シロの過去に出来たであろう、その名前を口にして記憶に書き記す。

知らないことがまた増えたなと、由紀は一階へと階段を下っていった。

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