「はぁー。この色、この照り、この匂い。三拍子揃った奇跡が今、我の手の中に……」


 静かな夜の住宅街を通って宗方家へと戻る途中で、シロのうっとりとした息が流れる。


 熱が籠っているのか、はたまた気温が低いだけなのか。吐息は瞬く間に白く染まり、薄暗い空へと消えていく。手に持つビニール袋が歩くたびにがさがさと音を立て、中から甘辛い匂いを漂わせる。


「随分と買ったな」


 ぱんぱんに膨れ上がったソレを見ながら、由紀が隣でシロの現金さに苦笑する。心いくまで焼き鳥を購入してからずっと調子なのだ。何度も視線を向け、何度も漏れてくる匂いを嗅ぎ、何度もにへらと気の抜けた表情を浮かべる。


 空きっ腹という最高の調味料も加えられている以上、強く反応してしまう気持ちはわからなくもない。だがその姿は本人の言う所にある『誇り高き魔狼』とはかけ離れていて、ついつい突いてしまいたくなる。


「そんなに焼き鳥、好きなのか?」


 興味半分、からかい半分。由紀の何気ない言葉に、シロはむっとするものの、すぐさま表情を取り繕って棘を飛ばす。


「朝は誰かさんが時間の配分を間違え、昼はちんけな小娘に時間を取られて食べ損ねたからな。そこにようやく巡ってきたまともな食べ物だ。誰であろうと浮かれるというものだ」


 飛ばされた言葉の先が爆ぜ、飛び出してきた無数の小さな棘が心に突き刺さる。


 シロの言う通り、朝から今にかけて食べた物と言えばおにぎりとマーガリンのコッペパン、これを各一個ずつだ。味を楽しむのではなく、単純に動くための栄養補給でしかない食事であることは間違いない。不満の一つも出て当然だろう。


 特に昼のほうは不可抗力だとしても、朝は話に夢中になって時間を忘れていた由紀の責任だ。耳の痛い話に、思わず呻いてしまう。


「別に我は突然の訪問者であるわけだし、用意をしろというほうが横暴であるわけだが、命の恩人という部分を含めると、もう少しの配慮があってもいいのではないかのう?」

「嫌味たっぷりで言わなくても、理解も反省してる」


 受けた傷の痛みを感じながら、ふと考えがある方向に行きついた。


「……別に、お前がそんなにたくさん買ったことを非難したわけじゃないぞ?」


 随分買った。そんなに好きなのか?

 言外に『人の金でよくもたくさんやってくれたな』と、取れなくもない並びだ。


「……違うのか?」


 実際に誤解を招いていたらしい。シロがきょとんとした顔で聞き返す。


「純粋にお前の好みがそういうものなのかと、聞いたつもりだった」


 からかう気持ちもありはしたが、庶民的な食べ物に喜ぶ魔狼というギャップに対してであって、遠回しな文句をぶつける意図は微塵も込めていない。


「ふむ」


 シロが器用に歩きながら由紀の顔を覗きこむ。ぱっちりとした二つの紅の瞳が頬の輪郭をなぞり、最後に由紀の瞳を数秒間見つめてから、シロが口元を緩ませた。


「なるほど。お前はそういうヤツなのだな」

「よくわからんが、こういうヤツだ」

「ああ、お前は最初からそうだったな。今日一日の内容が中々濃かったおかげで、早く深く知れた。その点だけはあの小娘に感謝してやってもいい」


 一人でふわふわとした会話をするシロと、察しがつかず首を傾げる由紀。


 何がどう知れたかは本人のみぞ知る所だろう。聞いてみたい気もするが、素直に答えてくれるとも思えない。触れるのはよそうと、途切れかかった話の糸を繋ぎとめる。


「それで、焼き鳥とか好きなのか」

「基本肉類は好きだぞ。狼だからな」


 尻尾を一度翻して胸を張る。


「狼だからな!」


 犬と言われたことを根に持っているのがよく伝わってきた。水無月の残した爪痕は深い。


「なら味の濃い食べ物のは不味いんじゃなかったか。確かイヌ科って」

「狼だからな!!」

「今のイヌ科っていうのは分類上の呼び名であって、お前を犬って言ったわけじゃ……」

「フェンリル様だからな!」


 力を失ったので狙ってくる相手に少しでも見つからないよう、名前を伏せようと話したのはいつだったか。朝であったと由紀は記憶しているのだが、シロの中では違うのか。


 もしくはそのリスクを冒してまでも狼と主張したいのか。

 恐らく後者だろう。


 水無月には犬呼びを控えるよう、頼んでおこうと心の中にある明日の予定表に書き込む。


「……狼って、味の濃いのとかって、体がキツいんだろう? 食べてもいいの か?」


 人間用の味付けだとイヌ科の生物には強過ぎて毒になると、物の本で読んだことがある。それがシロにも当てはまるとは思えないが、万が一はどこにいっても付きまとうものだ。


「本来はそうだが、今は姿を人体に変えているからな。聴覚や嗅覚は狼よりに設定していているが、味覚はコッチ寄りだ」


 そう言って、自身の胸を平手でトンと叩く。同意に頷くよりも、気になるセリフが飛び出したことに意識が向く。


「今は……? じゃあ、昔は何だったっていうんだ」

「決まっておろう。狼だ」


 散々言っているではないかと、しれっとした顔で抜かすシロの顔を凝視してしまう。


 軽く思考がパニックを起こした。まさか四足歩行だったのが二本脚で歩き始め、徐々に体毛が薄くなり、顔付きどころか骨格まで変わっていって成ったとでもいうのか。などとよく見る進化論の図を描いたところで、魔法の存在へとようやく頭が辿りついた。


「そんなこともできるのか、魔法って」

「可能だ。要するに狼が人へと変わる『不自然』を誤魔化せばいいわけだからな」

「狼だ狼だ、とは言っていたが、まさか本当にそうだったのか」


 人狼であること示す意味での狼という比喩ではなく、直接的なものであるとは予想外だ。


「嘘ではない。これでも白銀の孤狼として、恐れられていたのだぞう? 数々の山を手中に収め、雪原を駆け抜ける一筋の閃光……。ありとあらゆる生物の頂点に君臨し、畏怖されていたあの時代が実に懐かしいものよ」


 しみじみと頷き、シロは思い出に浸る。狼は集団で生活する生物であるから、孤狼っていうのは、群れからはぐれた可哀そうな個体なわけなのだが。説明するのはやめておくとしよう。思い出は綺麗なままのほうが、誰だって幸せに決まっている。


「なんだ、その憐みに満ちた目は。何故そんなものを我に向けるのだ」


 仲間意識が無意識に視線を作ったようだ。


「何故無言で撫でる!?」

「お前も辛かったんだなって、そう考えるとつい。飯食う時とかに一人だと寂しいよな」


 同じく群れに混ざれない由紀にとって他人事ではない。哀愁に満ちた表情でシロの頭を優しく撫でるのだが、乱暴に手で払われて威嚇の唸り声を放たれた。


「貴様と一緒にするな、たわけ! 我は一人を選んだのだ。自動的になった貴様とは違う!」

「……」

「お? 何だ怒ったのか? 痛いところを突かれて、怒ったのか?」


 やーい、やーいと囃し立てるように由紀の周りをシロが回る。両手をばたばたと動かし、馬鹿にしきった態度は今までの雑な扱いだったことに対する仕返しなのだろう。尻尾も動員させ、ここぞとばかりに煽り出す。


「何か言ったらどうだ? それともなにも言えないのか? んー?」


 ぽそりと、声を絞り出すだけで精いっぱいだった。


「……シロ、それは本当に辛いことだからやめてくれないか……頼む」


 アスファルトに、小さな染みが出来た。

 由紀の頬を伝って流れ落ちた涙の作ったものだった。


「すまない悪かった我が悪かった全面的に悪かったから泣くのはやめろぉ!」

「オレさ……ずっと友達、いなくて……」


 走馬灯のように今までの思い出が巡る。幼きは小学生の遠足から。班分けで弾かれ、先生と手を繋いでカバやキリンを鑑賞した夏の日。運動会で組み体操の相手を探して見つからなかったから、一人で逆立ちをしていた秋口。冬休みはずっと一人で過ごしていたなどの辛い記憶の数々が、津波のように由紀を飲み込んで水底へと引きずり込んでいく。


「わかった、わかったから、無理に言わなくていい。落ち着け、落ち着け。な?」

「悪い……すぐ、直る……戻るから……」


 さすがに人のトラウマを掘り起こした罪悪感があるのだろう。涙のダムが決壊しないようにと、抑えながら喋る由紀の背を、全力で謝罪をしながらシロが摩る。


 気持ちを立て直し、涙を引っ込める。ただ泣いてしまった手前、気恥ずかしさに耳を朱に染まってしまう。むっとした目をシロへと向けた。


「裏切り者」

「色々と責められる点はあれど、裏切り者と呼ばれる部分はないはずだが!?」

「うるさい、黙れ、仲間じゃないやつは黙れ」

「子供か、貴様は。……いや、一七の子供であったな」


 推定百歳以上からしてみれば、大概は子供に見えるだろう。苦笑を漏らしながら、シロが由紀のほうに目を向け、じろじろと隅から隅まで視線を巡らせる。


「思うに、遠巻きに見られる主な原因はその髪がいけないのではないか?」


 言われて指摘された黒髪を手で摘まむ。周りが金や茶色に染める中、流行に乗らないで硬派を貫いた、というわけではない。単純に染めるメリットがわからなかったから、手をつけなかっただけというだけである。


 その何の変哲もない平凡な髪が『いけない』と言われている。


「どこがいけないんだ?」


 オウム返し気味で聞きながら、問題の部分をいじるもまるで見当がつかない。


「長さだ、長さ。整えているわけでもないのに、肩まで伸びているのは見ていてずぼらな印象があるぞ。微妙に目にかかっていて、表情が読みにくいのもあるな」

「……そうか?」

「世間一般でも短いほうがさっぱりしていていい、と言うだろうに」

「詳しいんだな、シロ」

「貴様が無頓着過ぎるだけだ」


 やれやれと、肩を竦めるシロ。


「素材は悪くないのだから、もっと大事に扱ってはどうだ。目は切れ長くてすっとしているし、鼻や口も整っている。背丈が多少足りていないが……まあ、特に問題はないだろう。手入れをしっかりとして、元を生かすことだな」

「……驚いた。お前が人を褒めることもあるんだな」


 意外な話の運びに、目を丸くするとシロはたっぷりと息を溜めてから、呆れたように吐き出した。


「獅子を猫だという趣味はないだけだ。どこかの誰かさんと違って、な?」


 そう言うとシロは後ろを睨み据える。先に何かあるのかと同じ方向を見るも、家屋とその灯りくらいしかない。特段目立ったものはないようだと、視線を戻しかけて止めた。


「シロ、あれは」

「視えたか。といっても姿までは理解できぬようだな。小娘の鎧騎士だ」


 ここから数十メートル離れたところにある家屋の屋根にいる何か。シロから助言された瞬間に、はっきりと輪郭が浮き上がり、屋上で見たあの西洋甲冑姿を双眸が捉えた。


 恐らく、シロが学校で使っていたのと同じ術を使って、存在を隠していたのだろう。認識した途端に把握できるようになった。


「アレからしてみれば我の放置は絶対にできぬであろう。当然、目を離すわけがない」


 機関としての立場を鑑みれば、監視は妥当な判断だろう。

 むしろ水無月の責任感の強さを考慮すれば、自身が直接見張りにつきたかったはずだ。


 それでは由紀達二人の息が詰まると配慮しての行動だろう。つくづく出来た後輩である。


「我を恐れるあまり近寄りたくないと、ああいった間接的な手段を取ったのであろうな。やはり小娘、臆病なり。ああ臆病なり!」

「そうだな、うん」


 その意図をまるで理解できずに愉快だと高笑いをするシロに、由紀は失笑した。これで威厳などと言うのだから、無理な話である。


 そもそも、だ。小さくて愛らしい少女に対して畏怖を抱け、恐怖に震えろと申し付けるほうが無茶なのだ。そんな子供の容姿で言われても、背伸びして可愛いねと撫でられて終わるのが関の山ではないだろうか。


「……」


 反芻して、おかしさに気づく。


 由紀の容姿を冷静に見ることのできたシロが、己の容姿を客観的に見られないとは思えない。簡単な話だが、子供の姿と、大人の姿。どちらのほうが人を威圧できる力があるかと聞かれれば、結果は考える必要もなく大人のほうであろう。


 姿を変える変身魔術。その説明のときに、制限があるようなことは言っていなかった。


 言葉の欠けなどではなく――これで全てならば、制約や制限がないのであらば、シロは自身の語る理想像から、正反対である今の姿に自らの意思で化けたことになる。


 そもそも『人間が』『小娘が』と見下すシロが、その見下している人間の小娘に変化するには理由があるはずなのだ。でなければ言動との辻褄が取れない。


「シロ」


 咄嗟に呼びかけて、止まる。


 聞いてしまってもいいことなのか。そっとしておいたほうがいいのことなのか。迷いが判断を鈍らせて、次の言葉を腹の奥に押し込める。


「なんだ、早く言ったらどうだ?」


 シロが待っている。早く決めなければ、不審がられてしまう。


「……悪い。何を言うか忘れた」


 ほんのわずかな葛藤の後、由紀が出した答えは現状維持だった。


「忘れたって、阿呆か貴様。よもやその年で老いの波に飲まれたのではないだろうな?」

「違うと思いたい。……重要な話題でもなかったと思うから、流してくれ」


 白けた目を由紀に向けるも、すぐさまくすりと笑みをシロは漏らす。しょうがない奴だと呟き、夜の住宅街の中でゆらゆらと尻尾を揺らした。


 これでいい。シロが何故、その姿でいるかなど無理に知らなければいけない事情もない。話したければ勝手に話すだろうし、そうでなければ黙っているだけのことだ。


 相手の全てを理解したくても、自らが望んではいけない。

 心の領域に踏み込む許可証は、相手が出して初めて得られる物だから。


「さて。中々に気分がいいこの夜なのだが、少々鬱陶しいモノが紛れているようだな」


 和やかな空気をシロが切り裂き、ゆっくりと手を上げる。


「シロ?」


 急にどうしたのだと、由紀が尋ねるよりも早くにシロは動いた。手首のスナップを効かせながら素早く腕を振り下ろすと、背筋を泡立たせるような嫌な音を鼓膜が拾った。


 反射的に体が後ろへと跳ねる。シロが何をしたのか。由紀が声をかけるよりも早く、シロが顎で前方にある異物を示した。


「なんだ、アレ」


 肌が波打つように泡立つ。鳥のような姿と、暗がりの中でもはっきりとわかる黒い体毛にカラスが連想されるも、すぐさま否定する。目も嘴も翼もないモノがカラスであるはずがない。そんな異形が上から見えない力でコンクリートと押しつぶされていた。


「逃がさぬよ」


 力の操り主であるシロが、抜け出そうと懸命にもがく黒い塊に向けて腕を突きだす。開かれた五指を勢いよく閉じて手のひらを拳へと変えた途端、黒い塊がひしゃげる。


 水風船を地面に叩きつけたような、切り裂くような鋭く短い断末魔。爆ぜて霞のようなものをまき散らしながら、異物は血も骨も残さずに跡形もなく消えていく。

 残ったのはアスファルトの上にぶちまけられた黒い粉だけだ。


「探ってきたか。敵にとっては間違いなく今の状況は想定外だろうからな」

「敵……?」


 シロへの追っ手ではなく、敵とはどういうことか。聞き返す由紀にさも当然の如く、あっけらかんと魔狼は答えた。


「殺したいと思うからには邪魔だったり、憎かったりするのだろう。ではその相手がもしも生き返っていたのなら、取るべき行動は自然と一つ」


 語られてその直後に、自分の間抜けさを由紀は思い知った。

 由紀を殺したのがシロではないのならば、誰が自分を殺したのか。

 犯人が健在であるならば、何がまた起こるのか。

 

 そこの部分がすっぽりと頭から抜け落ちていたことに、そして自身に迫る危機に

ついて自覚したことに、生唾を飲み込む。


「敵っていうのは、つまり……」


 シロが頷く。


「ああ、これは貴様の敵だ。人間」

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