足取りが重くとも、憂鬱な出来事が起きたとしても、時計の針は止まらない。


 あとほんの数分で昼休みが終わろうとする時間帯。食べ損ねた空腹を少しでも埋めるべく、由紀は食堂の自販機へと訪れていた。ピーク時は戦争だと比喩されたりもするが、五時限目のチャイム手前ともなるとさすがに生徒の影はない。厨房の奥で食器洗いに勤しんでいる調理師の方々がいるくらいだ。


「やはり、もう残ってないか……」


 空っぽのショーケースの中を見て肩を落とす。本来ならばこの上にパンやらおにぎりやらの軽食が並べられ、販売されているのだが時間が時間だ。既に下げられてしまっている。


 時計を見て察していただけにショックは軽いが、空腹感に腹が唸る。調理師の方にお願いして、残り物を確認して買わせてもらう手もあるが、こちらの都合で相手に手間をかけさせるのはよろしくないだろう。


 大人しく諦めるべきかと踵を返し、それならばせめてと食堂内にある自販機へ向かう。飲み物はもちろんだが、駄菓子が売られているのだ。誤魔化しにしかならないだろうが、ないよりはマシだろう。硬貨を滑らせ、腹に溜まりそうなスナック菓子のボタンを押す。


 出てきた一つを手に取り、これは自分一人が食べる分の物だと考えて、同じものをもう一つだけ購入する。


 空腹は今も尚、姿を消して側にいるヤツも同じのはずだ。

 簡単に出て来るとは思えないが、それでもその時を迎えた際、ないと困るだろう。


 同じ考えを持ってして、飲み物も二つ購入する。ドが付くほどに甘いミルクココア。古い時代からの商品なのか。ここの自販機以外で売られているのを見かけない由紀の好物。


「……温かい」


 室内とはいえ冬だ。室内でもそれなりの寒さにはなる。ココアの缶が持つ熱が、悴んだ指をじんわり溶かしていく感覚に、思わず言葉が漏れる。


 買ったスナック菓子を悠長に食べている時間はない。かといって教室に向かいながら食べるのはみっともない。しかし腹に入れなければ体力が持たない。


 結果、中身を袋越しに潰して粉末状態にし、それをココアと一緒に流し込むようにして飲み込むという、強引な方法を取ることとなった。塩っ辛さと甘ったるさが絶妙な不味さを奏でるが、時間には逆らえない。一分も経たず空になった袋をゴミ箱に捨て、由紀は自分の教室へと向かう。


 その最中には校舎の構造上、由紀達二年の使う下駄箱を通り過ぎることになるのだが、視界の端にちらりと見えた緑の髪に足が止まった。


「委員長……?」


 優しげな顔立ちに眼鏡をかけた同級生の姿に、由紀が言葉を漏らす。


 こんなところで何をしているのだろう。外に行くには遅すぎるし、戻ってきたばかりなのかと眺めていれば、一向に動こうとしない。視線を逸らさず、真剣な表情で下駄箱に向き合ったまま、一点をじいっと見つめ続けている。


「委員長」


 もう一度、呼びかけるも反応はナシ。無視しているとか、聞こえていないとかではなく、耳には入っているのに脳が認識していない、と言った感じである。


 由紀としては、委員長に怖がられている身だ。あまり接触しないほうが彼女のためになるのだが、放っておけばいつまでも棒立ちしていそうな雰囲気となれば話は別だろう。授業の欠席に繋がるかもしれないとなると、放置することはできない。


 歩み寄り、手が届くほどまで距離を詰める。そしてふと、委員長の視線の先が気になり辿ってみると、よく知った名前の靴入れに注目しているのがわかった。


 プレートには『宗方由紀』と書かれている。


「……なんだ、靴に画びょうでも仕込みにきたのか?」


 そんなことないよと、ツッコミを期待しての発言だったのだ。


「ひっ」

「ん?」


 残像を残さんばかりの速さで振り向いた委員長が短い悲鳴を上げて。


「ひいいいいいいいいいいいっっっ!?!?」


 そして続く長い悲鳴に聴覚が襲われた。


「む、む、む、む、むっ!」


 発音する度にべこべこと窪む腹部と、裂けるのではと不安にさせられるくらいに開かれた瞳の激しさの分だけ、由紀の精神にヒビが走る。


 怖がられることはわかっていた。驚かれることは予想していた。なので自分なりの冗談も交え、話し易い場を整えたつもりだったのだが、コレだ。涙が出てしまいそうになるが、慣れ親しんだ傷の痛み方ではないかと、自分で自分を悲しさ溢れる想いで慰める。


 取り敢えず、委員長が自力で持ち直すのは無理だろうから、こちらが動くべきであると気まずさをたっぷりと噛み締めながら、会話を行うための無難なセリフを選ぶ。


「急に声をかけて、悪かった」


 全身全霊で和やかさを込めての発言だが、委員長のあわあわとした姿を見る限り失敗してしまったようだ。一歩、二歩と後ずさりまでされてしまう。


 一体どうしろというのだ。話しかけないほうがよかったのではないか。


 状況の収束に迷っている最中、先に口を開いたのは以外なことに由紀ではなかった。


「わ……っ」


 顔を真っ赤にして、視線を逸らしながらも委員長は絞り出すように話し出す。


「私こそ、ご、ごめんなさい……っ。タイミングが、あまりに良すぎて……」

「タイミング?」

「なななな何でもないです! こちらの話です! ああこちらというのはですね、わたしのことでして! つまりはわたしのことなんです!」

「なるほど、わかった」


 冷静の『れ』の字もないことが、実に理解できた。


「……まあ、そろそろチャイムも鳴るから、委員長も早く教室に戻ったほうがいい」


 残り続けても委員長を刺激し、混乱させるだけだ。それじゃあ、と手を上げて速足で立ち去ろうとするのだが、予想外なことに相手側から声がかかるという珍事が発生する。


「ま、待ってください……っ!」

「……」


 意図が読めない。怖がったり、パニくったり、引き留めたり。何がしたいというのだろうか。見通せない委員長の考えに、眉間に皺が寄っていく。


「あ、あのですね、そのですね、えっとですねっ」

「うん」

「つまりですね、何でしょうね、これはですねっ」

「うん」

「……きゅぅぅっ」


 漫画だったらきっと、頭から大量の湯気が出ているのだろう。ここまで慌てられてしまうと、由紀としても対応に困るのだが、声をかけたからには伝えたいことがあるはずだ。


「委員長」

「ひゃ、ひゃい!? ご、ごめんなさいっ! いま話します、すぐ話しますからっ!」

「すぐじゃなくていい。気持ちが穏やかになってからで構わない。それくらい待てる」


 気は長い方だと、笑ってみるが上手く出来ただろうか。笑みではなく凄みになっていないだろうか。不安になりらながら、委員長の様子を窺う。


「むな、かた……さん……」

「大丈夫だから」

「……ごめんなさい。少しだけ、時間をください」

「問題ない。オレはその間、頭の中で夕飯をどうするかでも考えている」


 それから委員長は息を深く吐き、その分だけ空気を吸い込んでいく。冷気が体内に入り込み、火照りを取り除き、熱に食い尽くされていた余裕が戻ってくるのが表情から見て取れる。だが顔の赤らみは取れないままだ。頬を朱に染め続けている。


 一回、二回、三回、四回。


 五回目の深呼吸を終えてから、委員長は逸らし続けていた視線を由紀へと定める。けれどすぐさま横へと泳がせてから、きゅっと強く目を閉じ、再び由紀に向け

た。


「こ、これを、宗方さんの下駄箱に入れようと、してたんです……っ」


 ずっと握り締めていたのだろう。中央に皺の寄った便箋を委員長は差し出し、由紀がそれを受け取る。白地に散らされる桜の花びらが上品さと淡さを演出していた。


「良い趣味だ、こういう綺麗なのは嫌いじゃない」

「開けて、みてください」


 言われて一瞬、返事が遅れた。


「……いいのか?」


 手紙を書いた経験は少ないが、綴った文を目の前で送り主に読まれるというのは、中々に気恥ずかしいものではないだろうか。


「いいん、です。次を考えれば……これくらい、受け止めないといけないですから」

「……本人がそう言うなら」


 留めに張られていた猫のシールを剥がし、収められていた紙を取り出す。


 書かれていた言葉は、端的だった。

 それだけに衝撃のあまり、手から便箋を落としそうになった。




『宗方由紀さんのことが、好きです』




 委員長を支配していた混乱が、今度は由紀のほうへとやってくる。


 思わず息が止まり、喉が唸る。文面を繰り返し読んでも、文字面は最初と変わらない。裏に何か続きがあって、そこで帳尻が付くのではとひっくり返すが文字はない。


「委員長」

「は、はい……っ」


 意を決し、由紀は尋ねる。


「これは、ギャグか。それとも何かの罰ゲームか。誰かにやれと言われたのか」

「全部違います。わたしが……わたしの気持ちを伝えたいと、そう思っての手紙……です」

「……」


 怖がられている自分が、ラブレターをもらうだなんて。


 嬉しさとか、ありがたいよりも先に困惑が脳を揺さぶる。由紀は委員長に好意を寄せられるようなことなど、一つもしてきていない。接点と言えば教室が同じであるくらいだ。休日に出かけるような間柄でもないし、そもそも話すらあまりした覚えがない。


「手違いではない、わけか」

「て、手違いじゃありません……っ」


 きゅっと、唇を委員長は結ぶ。


「わた、わたしは……宗方さんが、好きなんです……っ!」


 振り絞った勇気が形を成したような告白が、強く由紀を打つ。


「我慢とか、周りの目とか、もう気にしてられないくらいに……好きだから、好きになっていたから……こうして、告白してるんです……っ!」


 五時限目を知らせるべく、鳴り響くチャイムの音がどこか遠くに感じる中で、由紀は現実に追いつけないまま呆然と立ち尽くしていた。

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